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しおりを挟む「で。無事に生まれて良かったよねえほんと」
シェリンが呟けば、下からぷぎゃあ、と機嫌のよさそうな鳴き声がする。
彼女の呟きに応じたのか、それとも彼女に顎の裏側をくすぐられて気持ちよかったのか。それは分からない。
が、大きな琥珀色の瞳をうっとりと細め、「もっとー」と言いたげに彼女の膝の上でぐでんと薄灰色の腹を見せているところを見れば、たぶん後者なのだろう。
腹部はつるつるとした丈夫な鱗がない、柔らかい部分である。
膝の上の生物は、本来は弱点であるそこを堂々と、むしろ嬉々として彼女にさらしていた。
ここは人族と竜族が共存する稀有な国、アルマ。
中でも、ここは人族の都イルマ。
大臣を務める大貴族シルヴァリ家の邸宅の片隅で。
そこに仕える侍女シェリン・グリンデールの膝の上でごろごろしているのは。
半年前、この家の末娘セレーナがキリム王子から預かり受けた卵――飛竜の子供であった。
飛竜というのは、その名のごとく大空を飛び回る大きな翼を持ったドラゴンのことだ。
本来は人里で滅多にお目にかかる事のできない希少種である。
そんなドラゴンがなぜアルマ王国の人の都で普通に人に飼われているかといえば、飛竜が王国の守護者だからだ。
アルマ王国を建国したときのこと。
飛竜は、竜族の王から人族の王へ、国を守るものとしてもたらされた。
人族の初代国王は金色に輝く大きな飛竜に乗り、国外には畏怖の念を、国内には安定と繁栄をもたらしたと言われている。
王国の守護者の異名は伊達ではない。
他国ではほとんど見ることができず、またほとんど人に慣れることもない飛竜は、どの軍獣よりも速く空を駆け、威嚇の鳴き声ひとつで他を圧倒する。種類によっては口から炎や氷を吐くことだってできる。
ほんの数名の戦士と飛竜で他国の大軍を敗走させた、などという話は、アルマ王国史でも大して珍しくもない事実なのだ。
そんな一騎当千の兵である飛竜だが、生まれて数か月は非常に弱く、親竜や人の庇護が必要となる。まして生まれる前、卵の状態であればもちろんだ。
普通、卵や生まれた直後の状態でどこかへ移すことはしない。しても厳重かつ慎重に行うものなのだが―――。
ある日のこと。
人族の第三王子、キリムのお妃候補としてお城に呼ばれたはずのシルヴァリ家のセレーナ姫は、なぜか飛竜の卵を抱えて帰ってきた。
羽根付き扇子以上に重い物など持ったことがない深窓の令嬢が、使用人の手も借りずに、である。
本来、女性は飛竜の飼育に関わらない。
建国当初からそうだし、みんなそういうものだと思っているし、法律でもそう決められていた。
まして貴族女性であれば、他の獣の飼育舎にだって近づかないし近づこうとも思わない。
セレーナ姫が持ち帰ってきた飛竜の卵は、王家所有のそれだった。
他の妃候補の令嬢たちも、同じようにキリム王子から卵を渡されたのだという。
王子から、詳しい説明はなく。ただ、飛竜を育てよ、優秀な飛竜を育てた者を妃にする、とそれだけ。
まさか彼もご令嬢たちが直接お持ち帰りするとは思わなかったようだが。
貴族のお姫様方は、足りない情報の中で考えたようだ。
普通に考えれば、大貴族の家にはほとんど整備されている飛竜の飼育舎で、お抱えの優秀な飼育員に卵を任せて、育ててもらう。それがいちばん優秀な飛竜が育つ可能性が高い。
飛竜を立派に育て上げることは、自分たちの家の権力と財力、人脈の豊かさを示す機会にもなる。
しかし、王家所有の飛竜など、普通は簡単に下げ渡せるものではない。
しかもこれは第三王子妃を選ぶための卵。
何か他に意図があるのではないか。普通に育てるだけで、いいのだろうか。
お姫様方は考えた。
……たぶん、考え過ぎたのだ。
やがてお姫様のうちの誰かが、自分の手で卵を持って帰ると言い出した。
キリム王子は飛竜がことのほかお好きで、飛竜騎士団の副隊長も努めていらっしゃる。
王子の妃となるのなら、飛竜を怖がるばかりではいられないから、と。
そんな彼女にはっとなった他の姫君たちも、後れを取ってなるものかと自分の頭より大きな卵を抱え持った、というわけだった。
セレーナ姫もそのひとりだ。
考えても見て欲しい。
深窓の貴族令嬢が、何の知識もなく卵を持ち運ぼうとしたのだ。
卵は丸く、当たり前だが持ち手だって付いていない。保温のために柔らかい布が巻かれていたが、逆にそれが手元を滑りやすくしていた。
そして、案の定というかなんというか。
セレーナ姫は家にたどり着いて早々、なんと落としてこの大事な卵にヒビを入れてしまったのだった。
無謀にも程がある、とシェリンは思う。
飛竜に関わるにしても、もうちょっとこう、初歩的なことから何とかならなかったのだろうか。
卵にしてみても、いい迷惑だっただろう。
キリム王子だっていったい何を考えているのか、何がしたいのか皆目わからない。
セレーナ姫が非力な細腕で頑張って卵を抱え持ち帰ってきたのは、この変わり者の王子様と結婚したいからなのだ。
姫によれば、とっても麗しいご尊顔をお持ちだという王子様だが、性格はどうなのだろう。
まあ、けっきょく彼女は卵を落としてしまったわけで。実際、家に帰りつくまでに卵を割ってしまったご令嬢が他にもいたらしい。
幸い、飛竜の子供はそれからすぐにちゃんと生まれた。
セレーナ姫から“ヴァフスジルサニア”と名付けられ、少々小さいながらも元気にすくすくと育っている。
それが現在シェリンの膝でごろんと寝そべっている飛竜であった。
近くにセレーナ姫の姿はない。
大事な卵を落としてしまったことで父親のシルヴァリ卿に怒られ、すっかり怖くなったようなのだ。
シェリンという飛竜観察係なる侍女を置くと言い出したことからも、気にならないわけではないのだろうが。
「いつになったらセレーナ様はあなたを見に来るんですかねーヴァフスジルサニア」
「くあくあぁっ!」
「……はいはいゴメン“サニア”」
「ぐあうー」
言い直すと、小さな飛竜は満足そうに喉を鳴らした。
「すっかり“サニア”だな」
そう苦笑いするのは、飛竜ヴァフスジルサニアの飼育員で竜族のロギである。
はるか昔、人族に飛竜の飼育方法を教えた竜族は、現在でも人族より飛竜の扱いが巧みだし、飛竜のほうも竜族に従順だ。
こんな風に飛竜の飼育員として雇われているのも珍しくなかった。
種族は違っても、同じアルマ王国の国民。
シェリンに飛竜のことをいろいろと教えてくれ、食事時だろうと何だろうとくっついて離れなくなることがある甘えん坊のヴァフスジルサニアをはがして引き取ってくれる、非常に頼りになるお兄さんである。
ロギが横からわしわしと頭を撫でてやれば、飛竜の子供は少しだけ不満げに唸ったものの、目を細めて受け入れている。
シェリンはため息をついた。
「……名前、やっぱりまずいですかね?」
「いや、いいんじゃないか? お嬢様来ないし。ばれないと思うよ」
それにもう手遅れ。口には出さず、ロギは思う。
ヴァフスジルサニア。
この有難くも長ったらしい名前、どうやら飛竜自身はあまり好きではないらしい。
とんと会いに来ない名付け親に思う所があるのか、あるいは単に好き嫌いの問題か。この小さな飛竜は、フルネームで呼ぶと怒るのだ。
とっさの時や何度も呼ぶには非常に面倒くさい名前なので、最初に“サニア”と言ってしまったのはシェリンだが、今や飼育員の誰もがそう呼んでいる。
というか、そう呼ばないと飛竜の子供が反応しない。
「ヴァフスジルサニアは――」
「くあああ!」
「……“サニア”は、こんなに可愛いのにねー。ちょっと強情だけどね」
「くるぅ」
シェリンが“サニア”と呼べば、クリーム色の鱗をきらきらさせて応える。
それは、わずかな変化。
それでも、“ヴァフスジルサニア”ではなく“サニア”がいいのだと飛竜の子供が全身で主張しているのは、竜族のロギだけでなく人族の飼育員にだってはっきりと分かる。
人族であり飼育員でもないシェリンには、そのあたりはよく分からないらしい。
分からないからこそ、ここまでべったり引っ付かれても嫌がらないのだろうが。
「姫様も、一度会いに来たらぜったい好きになると思うんだけどなあ」
「ぐあうー」
本気でそう思っているらしいシェリンと、なんだか適当に返事をしているヴァフスジルサニア。
そんなひとりと一匹の様子を見て、ロギはこっそりため息をつく。
育てられた飛竜、とくに庇護が必要な幼い竜は、人の好意に非常に敏感である。
嫌々セレーナ姫を連れてきたところで、そして彼女が今さら本名を呼んだところで、“サニア”はシェリンにほどは懐かないだろう。
それに、たぶん姫は来ない。
つるんとした物言わぬ卵のときとはわけが違う。
いくら飛竜の子が小さく無力な存在だったとしても、ふだん縁がないぶん、鋭い牙や爪が見えただけで卒倒してしまうご婦人だっている。
「大きくつぶらな瞳で見上げられるときゅんとする」と言う彼女のような反応を大貴族シルヴァリ家の箱入りご令嬢にも求めるのは、むしろ酷というものだ。
本当に、こんな状況を引き起こした王子の意図がわからない。
―――何を考えているのか。それとも、ただの無知なのか。
「ねえ分かってる? あなたの本名はヴァフ――」
「くああああっ」
「………もう」
「ぐるうー」
飛竜の子供は少し不満げに喉を鳴らして、それでもぽすん、と手のひらに顎を置いてくる。
全力の甘えっぷりに、シェリンはくらくらしながらため息を吐いた。
「……サニア」
「ぐあうー」
なんだか心地良さそうに、そして満足そうに返事をする飛竜。
そのクリーム色のつるりとした体は、より艶やかに、よりきらきらと輝いている、ように見える。
そしてけっきょく、シェリンも笑ってしまうのだ。
―――これは、言わなきゃだめかな。
だめだよなあ。嫌だなあ。
竜族の飼育員の小さな呟きは、誰の耳にも届くことはなかった。
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