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しおりを挟む飛竜ヴァフスジルサニアが無事に卵から孵っておよそ二か月後。
身体が平均よりも少し小さいものの、体調が安定したと太鼓判を押されたころ。
「あなた、ヴァフスジルサニア様の観察係をやって頂戴」
先輩侍女からこんな言葉を聞かされたシェリン・グリンデールは、侍女としての振る舞いも、淑女としてのそれも忘れてただぽかーんと口を開けた。
「………はい?」
「もちろん、飼育舎の飼育員たちから報告は聞いてるのよ? 聞いてるんだけど」
報告用と思われる無地の紙束をばさっと彼女に押し付けながら、先輩侍女は言う。
いつもならすかさず飛んでくる、間抜けに開いた口への指摘はなかった。
「それがねえ。飼育員からの報告だけだとつまらないって姫様が言うのよ。ほら、飼育員って全員男でしょう? 女性視点からの報告が欲しいらしくて。キリム王子に何か聞かれたときも、ちょっと違うモノが言えたら一目置かれるかもしれないって誰か進言しちゃったらしいのよね。いちおう言っとくけど、わたしじゃないわよ。まあ、でも王家からお預かりした大事な飛竜でしょう? 下手な人間を近づけるわけにはいかないから、貴族のあなたにお願いしたいの」
「…………はあ」
というわけでよろしくー。と、先輩はさっさと踵を返して行ってしまった。
たぶん、あまり関わりたくないのだろう。その気持ちはよく分かる。
シェリンが生まれたグリンデール家は、いちおう貴族ということになっている。
しかし貴族としての階級も、父親の地位も、そして家の財産も、とてもとてもシルヴァリ家には及ばない。その暮らしはむしろ庶民に近い。
シルヴァリ家で働いているのだって、良家の子女が行うような期間限定の行儀見習いではなく、むしろ手に職をつけてがっつり稼ぐためだ。
そんな彼女なので、先輩たちからはある時は貴族扱い、ある時は庶民扱いと、けっこう都合よく使われているのだった。
たぶん断られるとも思っていない。
新米はノーと言えないのだ。
昔から飛竜の世話をするのは男性に限られている。
詳しいことはわからないが、女性が飛竜の近くにいるのは良くないらしいのだ。
その認識は庶民でも貴族でも変わらない。もちろん、王家の飛竜だからといって違うわけでもない、と思う。
シェリンだって、職場のシルヴァリ家が飼育舎を所有しているとはいえ、飛竜が飛んでいるのを遠目に何度か見た程度。
今までは近づいたことも、そして近づこうと思ったことも、なかった。
しかしお仕えする姫様がお望みであれば、行かないわけにはいかない。
シェリンは、飛竜舎とその周辺が見渡せる少し小高い場所から観察を開始した。
ほとんど一日中、生えている大きな木が日差しを遮ってくれるし、彼女の姿をうまく隠してくれる絶好の観察スポットである。
飼育員たちが、困った顔をしながらも「ここでなら」と案内された場所だ。
飼育舎の中までは見えないが、“彼”はよく外で遊んでいるから、と。
そんな感じで、とりあえずヴァフスジルサニアの観察を始めたシェリンだったが。
成獣になった飛竜すらはっきりと近くで見たことがない彼女は、もちろん子供竜だって見たことがない。
生まれて間もない赤ちゃん竜は、当たり前かもしれないが小さかった。
実際、平均よりは身体が小さいらしいのだが、人族の頭の大きさくらいしかない卵から出てきたのだ。二か月で彼女の膝の高さ程度なら、よく育っている方なのではないか。
大きく広げれば身の丈より長いのだろう、身体を覆い隠すほどの大きな白い翼に、しゅんと伸びる長い尾。
まだ先端が丸っこい、艶やかな白い爪をむき出しにする前足と、ずんぐりむっちりとした後ろ足。
皮膚は白っぽくつるんとした細かな鱗が覆っていて、天気の良い日は陽光にきらきらと輝いて見えた。
もともと飛ぶのは得意だが歩くのは不得意な生き物だ。
どうやら翼や尾で重心が取りづらいらしい。子供竜はまだ飛べないので、目的地までは飼育係に抱き上げられるか、ぽてぽてよちよちとのんびり歩いている。
ただし大人しいかといえば全然そんなことはなく。
飼育員に抱えられていてもゆらゆらと楽しそうに尻尾が揺れているし、自分でも勝手に歩き回ってはこてんとよく転んでいた。
あるとき。ヴァフスジルサニアの鼻先に、白いちょうちょが止まった。
そよそよと風に揺れる青草をじーっと眺めて、揺れるのと同じ方向に白い頭を傾げて見せたり、その柔らかい先端をぱくんと口にくわえたりして遊んでいた時だ。
小さな飛竜は、大きな琥珀色の双眸をきょろんと見開く。
何か言いかけたのだろうかわずかに口を開けば、ひらひらとちょうちょは飛んで行ってしまう。
「ぐるうー」
少し間の抜けた唸り声のようなものを出しながら、飛竜はぽてぽてぽて、と鈍い動きで追いかけ始めた。
やがて。
自分の短い足では追いつけないと思ったのか、まるでちょうちょの真似をするようにぱさぱさと翼を動かしはじめた。
一緒に飛びたいなあと思っているのか、本能がくすぐられたのか。
どちらにしろその動きはぎこちなくもどかしく、この子供竜が飛べる日はまだまだ遠いようだ。
……なんというか、全然怖くない。
むしろ手を貸したくてうずうずしてしまう。
ヴァフスジルサニアがシェリンを見つけたのは、やはりちょうちょを追いかけていた途中の出来事だった。
シェリンが観察係のお役目を頂いてから、三日目のことである。
「ぐるぅ」
低い唸り声のような、のどの奥を鳴らすような、どこかのんびりしたそれ。
あ、近いかも、と思った時には遅かった。
すでに琥珀色の大きな瞳は、じいーっと彼女を見つめている。
気のせいか、なんだか瞳がキラキラしているようにも見えた。
あれはたぶん、はじめてちょうちょを見つけた時と同じ目だ。
「ぐるるぅ」
そして違う方向へ飛んで行ったちょうちょには目もくれず、ぽてん、ぽてんとシェリンに近づいて来るではないか。
飛竜の成獣に比べればものすごく小さいのだが、人族に比べればものすごく大きな口からちらちらと見え隠れする赤い舌や尖った牙に、シェリンの頭は真っ白になった。
遠目では「なんか可愛いかも」と思い始めていた彼女だが、しかし自分のほうへ向かってくるとなるとまた違う。
「ぐあうー」
「………っ、あの」
ちょっと待ってストップ!
と思わず彼女は手のひらを突き出した。
すると、通じたのだろうか。あと五歩ほどのところでヴァフスジルサニアがぴたりと止まる。
「ぐぅー」
なんだか不思議そうに、あるいは不満げに、頭を傾けて鳴かれた。
「こ、こっち来ちゃだめだよ」
ぶんぶんと首を横に振りながら何となく小声で訴えてみるが、やはり人外には通じていないようだ。
彼女が思わず一歩後ずさると、子供竜がぽてぽてんと二歩踏み出し、思わず彼女は一歩後ずさる。
「ぐあうー」
「………」
シェリンがもう一歩後ろへ下がる。
するとまたヴァフスジルサニアが短い足で前に踏み……出そうとして、しかしその場に踏みとどまった。
それから、いきなりぽってりとしたお腹を地面にくっつけた。
つまり、ぱたっと前のめりに倒れてしまったのだ。
「え………っ?」
「ぁうー」
のん気に鳴くヴァフスジルサニア。
手も足も動かない代わりに、ぱさぱさと背中の白い羽が小さく揺れた。
顔だけは何かを訴えるようにシェリンに向いている。そしてたまに鳴く。
泣きたいのはこっちだとシェリンは思った。
逃げるなら今だと思う。
しかしこの妙な体勢の飛竜をこのままにして、放っておいていいのかどうなのか。
「何やってんだおまえは」
呆れたような声が聞こえたのは、双方動かず、どれだけ経った後だったか。
「ぐあうー」
「いつもの場所にいないから心配したんだぞ」
地面に突っ伏したままの子供竜の腹に腕を回し、ひょいと抱き上げたのは、ずいぶんと背の高い人だった。
―――いや“人”ではない。
見上げるような長身に、肩幅は広いが細身の体躯。細められた暗緑色の瞳は白い部分が少なく、虹彩に金粉を振りまいたような光がちらちらと見える。
無造作に腕まくりをしている袖口のあたりの皮膚に、かさぶたのような鱗のような、硬い部分があった。
つまり。
「“竜族”の方、ですか………?」
アルマ王国に住む、もうひとつの種族“竜族”。
人里離れた高地に少数で集落を作ることが多い彼らだが、排他的ではなくむしろ好奇心旺盛で、人族に混じって生活している者もそれなりにいた。
飛竜との付き合いが人族よりもはるかに長い彼らは、むしろすすんで飛竜の世話係を買って出てくれている。
子供竜を当たり前のように抱えているところを見ると、彼もそうなのだろう。
竜族の青年は、シェリンと目が合うと気まずそうにふいっと視線を逸らした。
「その、ごめん。あまり君の目につかないように仕事してたんだけど」
「え?」
「怖がらなくても大丈夫だ。こいつを回収しにきただけだから」
「きゅあうー」
「コラ、だめだってヴァフスジルサニア」
不満げにわたわたと手足を動かしてもがき出した小さな体を抱えなおす青年。
その様子が妙に微笑ましくて、シェリンはつい笑ってしまった。
「怖くないですよ。正直、どうしていいか分からなくて困っていたので、助かりました」
「ぐあうー」
なぜか青年ではなく、ヴァフスジルサニアが返事をした。
「あの、むしろ気を遣わせて申し訳ありません。普通に、仕事なさって結構ですよ。ええと、飛竜の飼育舎の方ですよね?」
「………ああ、うん。ロギといいます。あの……」
「はい」
「おれが怖くないの?」
竜族は、本来のんびりとした気質の持主である。
しかし人族よりも高い身体能力や、高い背丈、長い手足。微妙に違う身体的な特徴のおかげで、とくに人族の女性から怖がられることもあった。
シェリンは竜族の男性をこんなに近くで見たのは初めてだ。
確かに、人族の男性よりはなんだか迫力がある気がする。が、そこまで怖いとは思わなかった。
だって目も鼻も口も手足も数は一緒だし、言葉だって通じる。彼女に向けられた声も子供竜をたしなめる声も、とても穏やかで優し気だ。
人族の女性に悲鳴を上げられた過去でもあるのだろうか。彼はヴァフスジルサニアを抱え上げたその位置から、まったく近づいてこようとしなかった。
会話するには少し遠い距離だと思うのだが。
「怖い人…じゃなくて竜族なら、このお屋敷で働けないと思いますよ。ヴァフスジルサニア様だってそんな慣れているの……に?」
あれ、とシェリンは彼の抱える小さな飛竜を見る。そして首をかしげた。
妙に静かになったなと思ったら、ヴァフスジルサニアはくったりとしている。
ぴす、ぴすと鼻から空気が抜けるような規則正しい音が聞こえてくるところを見ると。
「………寝てる」
のん気なヤツだなあ、といっそ感心したようにロギが呟く。
ヴァフスジルサニアほど小さいのうちは、飛竜はまだ飛べないのでこんな風によく歩き回る。飛ぶための筋力も付けなければならないので、飼育員もむしろ積極的に飼育舎から出すのだそうだ。
が、もともと飛ぶほうが得意な体格の持主である。すぐに疲れて、すぐに寝てしまうのだ。
「………あー、とりあえず、ヴァフスジルサニアは連れて行くよ」
「……はい。なんかすみません」
ぴす、ぴすう、と緊張感のない寝息が聞こえる。
シェリンとロギは、お互いに顔を見合わせるとどちらともなく笑った。
「仕方がないかもしれないが、あまり怖がらないでやって欲しい。あー、今日みたいなことはないようにするから」
「はい。大丈夫です」
ところがそれからというもの。
ヴァフスジルサニアはシェリンがいるのが分かると、なぜかぽてぽてよちよちとすぐに寄ってくるようになった。
「ぐあうー」
ロギによれば、この低い唸り声のようなものは威嚇ではなく、甘えた声らしい。
感情が高ぶると、逆に声が高くなるのだという。
ぐあー、ぐあーと鳴きながら、きらきらとした目で真っ直ぐこちらに向かってくるのだ。
他のおもちゃで気をそらしても、尻尾を掴んで引き留めても、いつの間にか彼女のいる観察場所へ寄っていく。
「まさかここまで懐くとは」と飼育員たちも呆れるほどである。
シェリンのほうも最初は混乱していたが、ロギがヴァフスジルサニアに付いてきてくれるようになったので、少し余裕をもって接することが出来るようになった。
そんなこんなで。
シェリンはあっという間に、この小さな飛竜に落ちたのだった。
今やひんやりした鱗を持つからだをぎゅっと抱きしめても、鋭い牙の付いた大きな口に餌を持った手を突っ込んでも、鋭利な爪がにょっきり生えた足で腹の上に乗っかかられてもぜんぜん平気である。
こちらも「まさかここまで慣れるとは」と飼育員たちに驚かれている。
だって、これのどこに怖がる要素があるというのか。
いや、ない。
微塵もない。
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