ポケットの中の追憶

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彼を知ったのは中学二年の時。
当時から地元の学生テニス界隈では「三島陽一」はすでに有名で、テニス部に所属していた祐希の耳にもその名は届いていた。
ただその名を広ませたのはテニスの実力だけではない。
リゾートホテルや高級温泉旅館などを手掛ける観光事業グループ会社の御曹司でありながら、モデルのような端正な容姿をも兼ね備えた、まるで二次元キャラのような完璧な存在として、地元の女子の間ではアイドル的人気があったのだ。
もちろん祐希もそんな華やか面も含めて彼に憧れを抱いた。そして、その時から彼のいる高校に進学し、テニス部に入ることを決めていた。

ただ、念願叶って同じテニス部員になったとはいえ、彼は雲の上の人、結局は遠くから見ていることしかできなかった。
でも彼と接触できる機会がなにもなかったわけではない。
部の事務的なやりとりはもちろんだが、それだけではなく、彼の方から祐希に近付いてくることがあったのは確かだ。

正直に言えば、すれ違いざまにラケットでお尻を軽く叩かれたり、「昔飼ってた犬に似てる」と冗談を言いながら髪の毛をクシャクシャにされたりと、一方的にからかわれていただけだが、すれ違いざまにそういうちょっかいを出された後、祐希が振り返ると必ず三島も振り向いて微笑んでくれた。
それが自分だけに送られるサインのようで嬉しかった。
実際、三島先輩に気に入られていると友人たちから羨望の目を向けられていたし、他の後輩にはしないことにも気付いていた。

もちろんテニス部の先輩と後輩、それだけの関係でしかなかった。
気持ちを伝えることもできないまま、いつの間にか終わってしまった十代の初恋。
要約すればそれだけのことでしかない。
そう。それだけのこと。
全部、過去のこと。
今は十三年も前の思い出に浸っている場合ではない。
記憶の奔流を止めようとしたが、鎮まらない胸の高鳴りが邪魔をする。
胸を騒がせているものはなにか。
やっぱり、まさか、もしかして。
この胸を騒がせているものは...。

期待。
そう、これは期待だ。

「...きたいな」
言葉が聞き取れず、「え?」と聞き返してしまった。
「このお店、雰囲気が良くて素敵だし、パスタも美味しいから、また来たいなって言ったの」
向いに座っている戸田尚美はそう言って、フォークで巻き取ったパスタを口に入れる。
「あ、うん、いいお店だね。パスタも美味しいし、また来よう」
祐希は慌てて調子を合わせ、ワインを一口飲んだ。
彼女は笑顔を返してくれたが、内心呆れているだろう。
三島のことが頭を占領し、上の空で彼女の話を聞き流していたため、さっきからこういう失態を繰り返しているのだ。
今夜は大事な初めてのデート。デートに集中しよう。分かっているが三島のことが頭から離れない。
「ちょっと、ごめん」
彼女に断りを入れ、祐希はなにかに急かされるようにトイレに向かった。

トイレの鏡に映る顔は紅潮していた。ワインのせいだけじゃない。
胸が騒いでいる。
なにを期待しているんだろう...。
三島に叩かれた肩はまだ熱を持っていた。その熱はある記憶と結びついている。
まさかね...。
まさかと思いながらも祐希はジャケットのポケットに手を入れていた。
あの日の記憶を探るように。
もちろん「それ」はない。
ただ、なにかが指に触れ、ポケットから取り出した。
三島の名刺だった。
気付かなかった。
いつ名刺をポケットに...?
一番距離が近付いたのは...。
まさか、肩を叩かれた時?
同じだ。
「同じだ。あの時と」
思わず声が出てしまう。

その淡い期待は確かにあった。
ずっと胸の奥にしまっていた。

逸る鼓動に急かされながら、十三年前の記憶をよみがえらせていく。

三島との思い出はどれも強く印象に残っているが、その中でも忘れられないことが二つある。
ひとつは部活中の出来事。
「山尾、ラリーの相手して」
その日、なんの気まぐれか、三島がラリーの練習相手に祐希を指名してきたのだ。
「なんで俺?」と祐希は驚いたが、「なんで山尾?」と周りにいた他の部員も驚いていた。
ラリーというのはボールを打ち合う練習だが、お互い実力が伴ってないとラリーは続かない。代表に選ばれるくらいの実力がある彼と中学部活程度の実力しかない祐希とは雲泥の差があるのだ。
もちろん相手が務まるのかと躊躇はあったが、彼とラリーができる喜びが勝り、結局、図々しくも練習相手を引き受けた。
ただ案の定、緊張もあってか、まともに打ち返すことができず、彼を右に左にと動かす羽目になった。でも祐希がどんな球を打っても打ちやすいところに球を返してくれ、彼のおかげでどうにかラリーは続いた。が、打ち損じる度、申し訳なくて動きが硬くなってしまい、ついには相手のコートに返すことさえできなくなってしまった。
「いいから思いっきり振れ。俺、今、めっちゃ楽しんでるから」
萎縮した祐希に三島が声をかけてくれた。
そうだな。楽しまないともったいない。多分、こんな機会はもう二度とない。
そう思い至り、祐希は開き直ってラケットを思いきり振った。
すると、うまく返せるようになって、楽しいラリーが続いた。
彼とボールを打ち合い、汗を流す。
夢のような時間だった。

それも忘れられない思い出のひとつだが、重要なのはこの後のことだ。

ラリーの練習を終え、水分補給をしていると、「付き合ってくれてありがとう」とタオルで汗を拭きながら三島が声をかけてきた。
「すみません。下手くそで。でもなんで俺なんかを...」
練習相手に選んでくれて嬉しかったが、疑問は残る。
「あえて下手くそを練習相手にするトレーニングですか」思いついたことを口にする。
「確かにいい練習になったよ」
三島は苦笑し、「まあ、思い出作りかな。引退も近いし」と続けた。
「俺もいい思い出になりました。一生忘れません」
言った後で、少し大袈裟過ぎたかなと祐希は恥ずかしくなる。彼が引退を口にしたので、つい感傷的になってしまった。「大袈裟だな」と笑われると思ったが、彼から返ってきたのは予想もしない言葉だった。
「山尾って好きな人いるの?」
「え?」
思いっきり動揺してしまう。
その反応があからさま過ぎたのだろう。「いるんだ」と三島は口角を上げる。
「あ、はい、いますけど...」
祐希は素直に認め、「先輩も教えてください。好きな人いるんですか」と会話の流れに乗じて、思い切って訊いてみた。
女性からのアプローチは山ほどあるのだろうが、彼の恋愛関係の話は一切噂にもなったことがなく、だからずっと気になっていたのだ。
後輩からこんな質問されるとは思ってなかったのか、彼は少し驚いたような表情をした。だがすぐに、「ああ。いるよ」と答えてくれた。
やっぱりいるよな。手の届かない相手だと最初から諦めていても、しっかり気落ちする。それを悟られないように軽い口調で「もしかしてその人は彼女ですか。恋人がいるんですか」と踏み込んだ質問を重ねた。
「違う。彼女じゃない」彼は否定し、こうも付けたした。
「その人は俺の気持ちさえ知らないんだ」
意外だった。今の発言は恋愛に対する消極的な姿勢を思わせる。
「告白しないんですか。こんなにモテるのにどうして...」
祐希は思わずそんなことを言ってしまう。
彼の恋を応援するわけではないが、ただ率直に疑問に思ったのだ。
「告白できるのならしてるよ。そんな簡単じゃないからな」
彼はそう答え、口元だけで笑う。
簡単じゃない。
どういう意味だろう。相手に恋人がいるのだろうか。
それとも...。
「気持ちを伝えたくても伝えられない。複雑だからな。いろいろと...」
またも意味深なことを繰り返す。
「どういう意味ですか」
祐希は訊いた。
三島は黙ったままだった。
ただ、言葉を探すように視線がさまよう。
さまよっていた視線を祐希に戻し、まっすぐな眼差しを向けながら、こう言った。

「いつか好きだと言えたら...」

この直後、三島はテニス部顧問の教師に呼ばれ、その場から去って行った。
結局、彼がなにを伝えようとしていたのか、はっきりと聞けないまま、この日は終わる。
その後も彼と話す機会は何度かあったが、これまでと同じように冗談を言ってきたり、からかったりしてくるだけだったので、祐希も何事もなかったかのように振る舞うしかなかった。

それから彼は個人で全国大会まで進み、素晴らしい功績を我が部にもたらし、引退した。
引退した後は、彼との接点はなくなり、ほとんど会うこともなくなった。

そして、あの日を迎える。
もうひとつの出来事。
卒業式があったあの日の放課後だ。





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