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そういう「きっかけ」をぼんやりと思い出しながら、わたしはエヴラールの言葉を聞いていた。
「殿下、エヴラールは悲しゅうございます」
あのときもエヴラールはそう言って、本当にそれはそれは悲しげな顔をしていたんだろう。
けれども今の彼はどうだ。その精悍な男らしい顔つきを険しくさせて、ひざまずいてはいるけれど、イスに座したわたしを下から見る目は剣呑だ。
「御身を危険に晒すような真似をするなどと……もう二度とこのような真似をしないと、殿下、エヴラールと約束してくださいますな?」
「ごめんなさいエヴラール」
「……約束してくださいますな?」
膝の上でぎゅっと手を握ると、エヴラールの大きな手のひらがそれを覆った。筋張った男の人の手。アンジュの細くて白い手指とは違う。
それは温かくて――同時に焼けつきそうなほど、熱いとも思った。
エヴラールの静かな怒りの理由はわたしにある。偶然この塔を見つけた旅人と何度も会うようになってしまったからだ。
声をかけたのはわたしのほうからで、旅人をしているというくらいであるから、その男は大変気さくで、気の好い男だった。
逢瀬と言うには色気のない出会いを楽しんでいたのは事実だ。
旅人はわかりやすくわたしに同情してくれたから、近頃塔に来ないエヴラールを少しのあいだ忘れていたのも事実だ。
……そして塔から離れて行く旅人のことをエヴラールが見つけてしまう夢を見たことを、わたしは黙っていた。
じっとわたしを見つめるエヴラールの視線で、か弱いアンジュなんてあっという間に焼け焦げてしまいそう。
けれどもここですぐに屈してしまうのも面白くないかなと思って、わたしは黙り込んだ。
平穏な日々もいいけれど、人間、刺激がないと退屈してしまうものだ。だからたまにはこういうのもいいんじゃないかと、思ったわけである。
「殿下……エヴラールと約束してくださらないのでしたら、私は遠くへ行ってしまおうかと思っております」
「……え?」
エヴラールの声は優しかった。その瞳の色と同じ、柔らかな声。アンジュを慈しむ声音。
けれどもその言葉が脅迫であることに間違いはなかった。
そんなことを今まで言われたことのなかったわたしは、演技でなく瞠目する。
わたしが意地の悪いことやワガママを言うと、エヴラールはちょっと困ったような顔をしながらも叶えてくれた。
無理なときはこっちが申し訳なくなるくらい謝り倒してくれる。
アンジュの知るエヴラールとは、そういう男だった。
「縁談がありました」
「縁談……」
わたしは慎重にエヴラールが口にしたのと同じ単語だけを舌に乗せる。
「返事は、まだしておりませんが。北の辺境伯の末のご令嬢と――という話でございました」
ああ、エヴラール。
わたしを試しているんだね。
わたしの愛を、試しているんだね?
どうにもエヴラールには、年端の行かない少女にいいようにされることへの嗜癖はなかったらしい。
それはいい。わたしだってサディストじゃないんだから、大の男をいじめて喜んでいたわけじゃないし。
わたしはエヴラールの言葉にうつむいた。
「殿下?」
心配そうにエヴラールがやわらかな声をかける。
わたしはその声をさえぎるような勢いで、イスから立ち上がった。
「そんなこと言わないで……!」
出来るだけ声を震わせて、けれどもそれを抑えている風な調子で。
「わたしは……わたしにはエヴラールしかいないのに……!」
これは事実だった。
エヴラールはアンジュの命綱。生命線。
今なら、なおさらそうだった。
「おねがい! どこにもいかないで!」
そう言いながらエヴラールの首に抱きつく。そうすることの利点は多い。
アンジュの必死さのアピールにもなるし、それでいて顔は見えないから演技にボロが出てもいくらかリカバリーが利く。
エヴラールがこういう脅迫的なことを言い出すのは初めてだったから、こんな手に出たわけである。われながらズルイなとは思う。
いつもエヴラールを手のひらで転がしているのはアンジュだけど、たまには彼に転がされておこう。
そういうフェチの持ち主でもない限り、いいようにされっぱなしってのは、面白くないだろうしね。
「殿下、落ち着いてくだされ」
「いや、いや! エヴラール、どこかにいっちゃいや!」
このころにはアンジュは確実に年の頃は一〇を超えていたけれど、あえて幼子のように振る舞ってみる。
……そうしたのが良くなかったのか、悪かったのか。
いつのときにもイレギュラーってやつは起こってしまうわけで。
「殿下、殿下! 失礼ながら……!」
「おみ足に……」エヴラールは先ほどとは打って変わった、至極言いにくそうな口ぶりでそう言ったあと、アンジュの腰に手を回した。そしてそのまま自身から剥がすようにしてアンジュとは距離を取る。
「足……?」
あとから思い返すと、その日は腹の調子が悪いなーとか考えていた記憶がある。
けれど一度経験していたからといって、これがあれの予兆だなんて予測を立てるのは無理すぎる。
子宮と腸は隣接してるから、こうなっちゃったのは仕方ないんだって。
エヴラールは微妙にアンジュから視線を外していた。
一方のアンジュは自身の足に目をやる。
年の頃一〇を超えて、アンジュのドレスの裾は伸びたし、髪も結い上げていた。それが大人の入口に立ったことの証らしい。
短いスカート――と言ってもふくらはぎまであるんだけど――と、結っていない髪は子供の象徴のようであるらしかった。
けれどもそうやって大人と同じような身支度をしても、体は子供のままだった。胸はぺったんこで、手足は棒きれのよう。色んなところもつるつるで、どこからどう見ても子供だった。
今日、このときまでは。
「え、あ」
完全なイレギュラーに横っ面をはたかれて、うろたえたのはわたしだった。
足を伝って床に落ちた赤黒い経血に動揺する。
「あ、これ」
最初は久しぶりすぎてなんなのかわからなかった。が、それでも一〇年以上は付き合ったのだから、古びた記憶がよみがえるのはすぐだったのは幸いである。
素で困惑していた勢いのままに、冷静さを取り戻した後も、戸惑いの演技を続けた。
「殿下、殿下、落ち着いてくだされ」
再びエヴラールに抱き寄せられて、固い胸板が軽く頭に当たる。たくましい腕は腰に回されて、もう片方の手はアンジュの肩に置かれる。手から伝わるじんわりとした温かさが、唐突な変化を迎えた体には心地良い。
「殿下、失礼します」
「え? きゃっ」
ぼうっとエヴラールの顔を見上げていたら、その言葉と同時に体を横抱きにされた。お姫様抱っこだ。鍛えているエヴラールからすれば、細っこいアンジュを抱き上げるなんて朝飯前なんだろうなあ。
とそんなことを考えたのは、にわかに形容しがたい痛みがアンジュの体を襲い始めたからである。
怪我もそうだけど、こういうのって意識した途端痛みが増すのはなんでなんだろうね。本当に厄介だ。
けれども初潮とあってか、鎮痛剤をくれ! というほどの痛みではない。これは本当に助かった。この世界には便利な鎮痛の錠剤なんて存在しないだろうし。
エヴラールはわたしを横抱きにしたまま階段を上がる。今はその振動が少々つらい。
エヴラールもそれがわかっているのか、出来るだけ腕の中にあるアンジュの体が揺れないようにしてくれているのがわかる。
そういう気づかいが嬉しくて、わたしは思わずエヴラールの首に回した腕に力を入れた。
けれどもそれを苦痛を逃すための行為であると彼は勘違いしたらしい。
「殿下、今しばらくご辛抱を」
エヴラールの顔を見上げると、彼のほうが苦しそうな顔をしているように見えた。男の人は月経の痛みなんてそもそも想像の範疇外というイメージだったけれど、彼は違うのだろうか?
以前、姉妹がいると言っていたから、慎ましさが美徳とされる世間にあっても、偶然見ちゃったとか、毎月のそれを見ていたとかいうのはあるのかもしれない。聞いてみたら教えてくれるかな?
そうこうしているあいだに塔の最上階にあるわたしの部屋に到着する。備えつけの年季の入ったベッドの上に、エヴラールはそれはもう繊細な手つきでアンジュの体をおろした。
「殿下、エヴラールは悲しゅうございます」
あのときもエヴラールはそう言って、本当にそれはそれは悲しげな顔をしていたんだろう。
けれども今の彼はどうだ。その精悍な男らしい顔つきを険しくさせて、ひざまずいてはいるけれど、イスに座したわたしを下から見る目は剣呑だ。
「御身を危険に晒すような真似をするなどと……もう二度とこのような真似をしないと、殿下、エヴラールと約束してくださいますな?」
「ごめんなさいエヴラール」
「……約束してくださいますな?」
膝の上でぎゅっと手を握ると、エヴラールの大きな手のひらがそれを覆った。筋張った男の人の手。アンジュの細くて白い手指とは違う。
それは温かくて――同時に焼けつきそうなほど、熱いとも思った。
エヴラールの静かな怒りの理由はわたしにある。偶然この塔を見つけた旅人と何度も会うようになってしまったからだ。
声をかけたのはわたしのほうからで、旅人をしているというくらいであるから、その男は大変気さくで、気の好い男だった。
逢瀬と言うには色気のない出会いを楽しんでいたのは事実だ。
旅人はわかりやすくわたしに同情してくれたから、近頃塔に来ないエヴラールを少しのあいだ忘れていたのも事実だ。
……そして塔から離れて行く旅人のことをエヴラールが見つけてしまう夢を見たことを、わたしは黙っていた。
じっとわたしを見つめるエヴラールの視線で、か弱いアンジュなんてあっという間に焼け焦げてしまいそう。
けれどもここですぐに屈してしまうのも面白くないかなと思って、わたしは黙り込んだ。
平穏な日々もいいけれど、人間、刺激がないと退屈してしまうものだ。だからたまにはこういうのもいいんじゃないかと、思ったわけである。
「殿下……エヴラールと約束してくださらないのでしたら、私は遠くへ行ってしまおうかと思っております」
「……え?」
エヴラールの声は優しかった。その瞳の色と同じ、柔らかな声。アンジュを慈しむ声音。
けれどもその言葉が脅迫であることに間違いはなかった。
そんなことを今まで言われたことのなかったわたしは、演技でなく瞠目する。
わたしが意地の悪いことやワガママを言うと、エヴラールはちょっと困ったような顔をしながらも叶えてくれた。
無理なときはこっちが申し訳なくなるくらい謝り倒してくれる。
アンジュの知るエヴラールとは、そういう男だった。
「縁談がありました」
「縁談……」
わたしは慎重にエヴラールが口にしたのと同じ単語だけを舌に乗せる。
「返事は、まだしておりませんが。北の辺境伯の末のご令嬢と――という話でございました」
ああ、エヴラール。
わたしを試しているんだね。
わたしの愛を、試しているんだね?
どうにもエヴラールには、年端の行かない少女にいいようにされることへの嗜癖はなかったらしい。
それはいい。わたしだってサディストじゃないんだから、大の男をいじめて喜んでいたわけじゃないし。
わたしはエヴラールの言葉にうつむいた。
「殿下?」
心配そうにエヴラールがやわらかな声をかける。
わたしはその声をさえぎるような勢いで、イスから立ち上がった。
「そんなこと言わないで……!」
出来るだけ声を震わせて、けれどもそれを抑えている風な調子で。
「わたしは……わたしにはエヴラールしかいないのに……!」
これは事実だった。
エヴラールはアンジュの命綱。生命線。
今なら、なおさらそうだった。
「おねがい! どこにもいかないで!」
そう言いながらエヴラールの首に抱きつく。そうすることの利点は多い。
アンジュの必死さのアピールにもなるし、それでいて顔は見えないから演技にボロが出てもいくらかリカバリーが利く。
エヴラールがこういう脅迫的なことを言い出すのは初めてだったから、こんな手に出たわけである。われながらズルイなとは思う。
いつもエヴラールを手のひらで転がしているのはアンジュだけど、たまには彼に転がされておこう。
そういうフェチの持ち主でもない限り、いいようにされっぱなしってのは、面白くないだろうしね。
「殿下、落ち着いてくだされ」
「いや、いや! エヴラール、どこかにいっちゃいや!」
このころにはアンジュは確実に年の頃は一〇を超えていたけれど、あえて幼子のように振る舞ってみる。
……そうしたのが良くなかったのか、悪かったのか。
いつのときにもイレギュラーってやつは起こってしまうわけで。
「殿下、殿下! 失礼ながら……!」
「おみ足に……」エヴラールは先ほどとは打って変わった、至極言いにくそうな口ぶりでそう言ったあと、アンジュの腰に手を回した。そしてそのまま自身から剥がすようにしてアンジュとは距離を取る。
「足……?」
あとから思い返すと、その日は腹の調子が悪いなーとか考えていた記憶がある。
けれど一度経験していたからといって、これがあれの予兆だなんて予測を立てるのは無理すぎる。
子宮と腸は隣接してるから、こうなっちゃったのは仕方ないんだって。
エヴラールは微妙にアンジュから視線を外していた。
一方のアンジュは自身の足に目をやる。
年の頃一〇を超えて、アンジュのドレスの裾は伸びたし、髪も結い上げていた。それが大人の入口に立ったことの証らしい。
短いスカート――と言ってもふくらはぎまであるんだけど――と、結っていない髪は子供の象徴のようであるらしかった。
けれどもそうやって大人と同じような身支度をしても、体は子供のままだった。胸はぺったんこで、手足は棒きれのよう。色んなところもつるつるで、どこからどう見ても子供だった。
今日、このときまでは。
「え、あ」
完全なイレギュラーに横っ面をはたかれて、うろたえたのはわたしだった。
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「あ、これ」
最初は久しぶりすぎてなんなのかわからなかった。が、それでも一〇年以上は付き合ったのだから、古びた記憶がよみがえるのはすぐだったのは幸いである。
素で困惑していた勢いのままに、冷静さを取り戻した後も、戸惑いの演技を続けた。
「殿下、殿下、落ち着いてくだされ」
再びエヴラールに抱き寄せられて、固い胸板が軽く頭に当たる。たくましい腕は腰に回されて、もう片方の手はアンジュの肩に置かれる。手から伝わるじんわりとした温かさが、唐突な変化を迎えた体には心地良い。
「殿下、失礼します」
「え? きゃっ」
ぼうっとエヴラールの顔を見上げていたら、その言葉と同時に体を横抱きにされた。お姫様抱っこだ。鍛えているエヴラールからすれば、細っこいアンジュを抱き上げるなんて朝飯前なんだろうなあ。
とそんなことを考えたのは、にわかに形容しがたい痛みがアンジュの体を襲い始めたからである。
怪我もそうだけど、こういうのって意識した途端痛みが増すのはなんでなんだろうね。本当に厄介だ。
けれども初潮とあってか、鎮痛剤をくれ! というほどの痛みではない。これは本当に助かった。この世界には便利な鎮痛の錠剤なんて存在しないだろうし。
エヴラールはわたしを横抱きにしたまま階段を上がる。今はその振動が少々つらい。
エヴラールもそれがわかっているのか、出来るだけ腕の中にあるアンジュの体が揺れないようにしてくれているのがわかる。
そういう気づかいが嬉しくて、わたしは思わずエヴラールの首に回した腕に力を入れた。
けれどもそれを苦痛を逃すための行為であると彼は勘違いしたらしい。
「殿下、今しばらくご辛抱を」
エヴラールの顔を見上げると、彼のほうが苦しそうな顔をしているように見えた。男の人は月経の痛みなんてそもそも想像の範疇外というイメージだったけれど、彼は違うのだろうか?
以前、姉妹がいると言っていたから、慎ましさが美徳とされる世間にあっても、偶然見ちゃったとか、毎月のそれを見ていたとかいうのはあるのかもしれない。聞いてみたら教えてくれるかな?
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