だから、わたしはクズのまま

やなぎ怜

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その後(エヴラール視点)

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 エヴラール・マルブランシュにとっての彼女はいったい何であろうか。

 エヴラールはときおり、そのことについて思いを馳せる。

「殿下は?」

 王宮に参内していたため、邸に帰りついたのはすでに夜も来て久しい時分であった。

 エヴラールは使用人に外套を手渡しながら、家令に尋ねる。エヴラールの父の代から仕えている年老いた家令は「お眠りになっておられます」と答えた。

 使用人がちらり、とこちらの顔をうかがうように流し見たのを、エヴラールは見逃さなかったが、咎め立てることもしなかった。

「そうか。今日はお起きになられたか?」
「いいえ。今もぐっすりと眠っておられますよ」
「……そうか」

 それから「夜遅くまでご苦労だったな」とねぎらいを忘れず、あとはそのままアンジュが眠る寝室へと向かう。

 あの古びた石塔からアンジュの身柄を移したのは一週間ほど前になる。移動先はもちろんエヴラールの本邸だ。

 主寝室の隣をわざわざ改築して、王女たるアンジュにふさわしい居室にしたのは、実に半年ほど前の話。そこから彼女を実際に移送するまでが長かった。たかが半年と言えども、エヴラールにとっては苛立たしいほどに長い時間であったのだ。

 人里離れた石塔から、王都の騎士街にあるエヴラールの邸へアンジュの身を移せば、当然彼女が真実を知ってしまう恐れがある。

 あるいは外へのあこがれから不用意に外出してしまう可能性もあった。または束縛を嫌って居場所を捨てる可能性も。

 評議会はエヴラールの邸へ元王女の身柄を移すことは危険だとの結論を出したものの、結局は救国の英雄たるエヴラールを前に折れてしまった次第である。

 意見を無理に押し通すことなど、戦巧者であれども穏健で通っているエヴラールがするのは珍しい。しかし当人も望んでそのような「ワガママ」を押し通したわけではない。反対されればやむなしと、使いたくもない権力を使ったのだ。

 そうやって無事に今は「夢告げの巫女」という地位を与えられているアンジュを、邸に迎えることが出来たわけである。

 けれどもそんな諸々の事情をアンジュは知らない。

 もはや父王が亡いことも、王政が廃止され、王女ではなくなったことも。

 代わりに「夢告げの巫女」という特権的な地位を与えられていることも。

 しかしその冠はお飾りと言わざるを得ない。なぜなら王政が打倒される以前と、なにひとつアンジュの境遇は変わっていないのだから。

 エヴラールは美しく整えられたアンジュの居室へ、そっと足を踏み入れる。

 さらにその奥にある寝室。天蓋につけられたカーテンを引いた中に、すこやかな寝息を立てる部屋の主がいた。

 アンジュも今年で一五を数える。その容姿は輝かんばかりとなって、着実につぼみをほころばせている。

 普段は貞淑に結い上げている髪も、就寝時は無造作に投げ打たれて、それが妙に艶めかしい。

 薄絹のカーテンの隙間からすやすやと眠りに就いているアンジュを一見したあと、エヴラールは脇に置かれていたイスにそっと腰を落ちつける。

 エヴラールにとって、アンジュは掌中の珠に等しいのかもしれない。

 取り立てるべき部分はと言えば、未来の事柄を夢に見ることと、絶世の美貌を称えられた母から受け継いだ容姿ぐらい。それがアンジュの存在を知る者たちの評価だろう。

 それは真実と言えたし、エヴラールにとっては間違いとも言えた。


 エヴラール・マルブランシュには不足の部分はないと言っても過言ではない。

 生家は代々騎士を輩出して来た名家として知られており、経済的にもかなり裕福だった。父の代にはふたりもの将軍を出したこともあって、その地位は盤石と言えた。

 そんな家に生まれたエヴラールは愛情深く育てられた。エヴラールとその姉にふたりの妹は後妻の子であったが、先妻の子である兄とのあいだに確執はなく、エヴラールの母もこの異母兄を平等に愛してくれた。

 兄弟仲も良かった。生まれつき病弱だが聡明な兄、闊達で物怖じしない姉、純粋に慕ってくれる妹たち。仲睦まじい両親と兄妹たちに囲まれて、エヴラールはなにひとつ不足はなく育てられた。

 そしてその愛情に応えるようにエヴラールは家族を愛した。

 期待にだって、応えて来た。騎士養成所を一等の成績で卒業したあとは、初陣で将軍格の首級を上げるという大金星。キャリアとしては最高のスタートを切った。その後は国王にも気に入られ、最年少で親衛隊に入ることになる。

 エヴラールはいつだって羨望と、嫉妬の的だった。

 愛すべき家族、たしかな実力とそれに見合ったポスト。輝かしい未来への道。

 エヴラールの人生に、不足の部分はないと言っても過言ではなかった。

 だからこそ、アンジュに惹かれたのかもしれない。

 アンジュはだれからも愛されてはいなかった。求められていたのはその特異な能力だけで、彼女個人へ意識を向ける者は皆無であった。

 だから、エヴラールはアンジュを不憫に思ったし――愛してしまったのだと思っている。

 その不埒な理由で愛を語るのは、アンジュの人格を愚弄していることにも等しいということもまた、エヴラールは理解していた。

 けれども健気で、それでいて時折その裏にあるを感じられるようになってしまってからは、エヴラールはますますアンジュから目が離せなくなった。

 それを自覚したのは、彼女が偶然にも石塔を発見した旅人と、密かに友誼を深めていたことを知ったときであった。

 エヴラールは自分のことを穏やかな人間だと思っていたし、ささいなことで怒りを覚えたこともまた、なかった。

 だがエヴラールはその「ささいなこと」で初めて身を焼くような激情に駆られた。

 それはまさしく、嫉妬の炎であった。

 言い訳はいくらでも出来たので、エヴラールは迷わずその旅人を斬り、一方でアンジュには嘘をついた。旅の者には言い聞かせたから、もう二度とこの塔を訪れることはないと。

 エヴラールは自分のことを嘘がつけない人間だと思っていたし、実際に兄からも嘘が下手だと指摘されたことがあった。

 けれどもそのときのエヴラールは、まるで別人にでもなったかのような気分で、するすると滑りの良い嘘をついた。

 そしてエヴラールは理解した。

 自分はアンジュを愛しているのだと。

 そしてその愛は、悲しいほどに純粋さからは遠いのだと。

 けれどもそうさせたのはアンジュだ。

 アンジュが悪いのだ。

 エヴラールを求めるから、いじましいことを言うから、頼るから、可愛らしいから、いけないのだ。

 石塔の中のアンジュと出会わなければ、きっとエヴラールは穏やかで、嘘のつけない人間のままだったに違いない。


「ん……エヴラール……?」
「お目覚めですか」
「うん。今起きた……でも、もう夜だね。ごめんね、なんだか最近すごく眠くて……」
「いいのですよ。いくらお眠りになられても」
「でも……エヴラールとお話しできないのはさびしいから……やっぱり起きていたいな」
「殿下……」

 薄絹のカーテンを引けば、上半身を起こしたけだるげな様子のアンジュがすぐそばにいた。

 エヴラールは乱れた髪にそっと指を差し入れる。そうしてからまろい頬を武骨な親指で撫でた。

「そのように、いじらしいことを申されると――」

 いまだ眠たげなアンジュの黒いまなこを見つめながら、エヴラールは微笑んでそう言った。
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