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「透って呼んでもいい?」
「……ふたりだけのときなら」
おれがそう言うと、高宮は顔を華やがせて喜んだ。
盛り上がった感情が過ぎて冷静さを取り戻すと、どうにもこうにも恥ずかしくて、高宮の顔をまともに見ることが出来ない。
「透」
おれの名前が高宮の舌に乗せられる。たったそれだけのことなのに、背筋に甘いしびれが走り、おれはそれを隠すようにますますうつむいた。
すると高宮の指が伸びて来て、そっと下に垂れたおれの前髪を撫でる。その指の動きを目で追いながら、おれはどぎまぎと膝の上に置いた手をきつく握りしめた。
高宮の指がおれの前髪からこめかみ、耳のそばを通って頬に降りる。おれよりもずっと男らしい高宮の指は、確認するようにおれの頬をふにふにと撫でる。
ふふ、と吐息のような笑い声が隣から漏れ出た。
ちらりと流し見た高宮の顔は穏やかで――慈しむ、というのは、こういうことなのだろうと思える表情だった。
「透、家に帰るの?」
「……うん」
「……透のお父さんのしていることって、はっきり言って虐待だよ」
真剣な顔をしてそう告げた高宮に、おれは「そうだね」と答えた。
虐待。薄々わかっていたことだが、面と向かって第三者に言われるとなかなか堪えた。けれども高宮だって、こんなことは言いたくはなかっただろう。彼が優しいことは、これまでの交わりの中で、じゅうぶんわかっていたから。
「俺の家に来ない?」
高宮の申し出に、思わず彼を見る。けれどもすぐにおれは首を横に振った。
「どうして? うちに来たら、透のお父さんとは会わないようにだって出来るよ?」
「今高宮の家に行くのは簡単だけど……。そんなことしたら、父さんは絶対大騒ぎするから。……高宮の家に迷惑はかけられない」
おれは高宮の家をどうこうしたいとも思わないし、出来るとも思っていない。
けれども父親は違う。おれを踏み台にして高宮の家に入り込むというのがあの人の無茶な野望なのだ。その成就のためにどんな突飛な行動に出るか、残念ながらおれは予想することが出来ない。
今、おれが高宮の家に行ったら「オメガを誘拐した」とか大騒ぎしてもおどろきはしない。
「迷惑なんて――」
「ごめん。申し出はすごくありがたいし、うれしい。でも、今は行けない」
「……じゃあ、いつかは来てくれる?」
「それは……わからない。でも、おれ、高校を卒業したら家を出ようと思ってるんだ」
それは高校に入学する前から漠然と考えていたことだった。「貸し腹」になるなんてまっぴらごめん。なら、家から、あの父親から逃げるしか道はない。
隣に座る高宮はなにか言いたそうな顔をしていたけれど、結局おれの決めたことについてなにか口に出すことはなかった。
「じゃあ、高校を卒業するころになったらまた考えてくれる?」
やっぱり、高宮は優しい。同時にそんな彼を幻滅させることを考えると、恐ろしくなった。
やっぱり、高宮とは親しくするべきじゃなかった。そんな考えが脳裏をよぎる。いつの間にか恋になっていた感情が成就して、その先に待つものを考えるのが、怖い。
愛が永遠ではないということを、おれはよく知っている。
オメガと診断されるまで、おれは家族からの愛を疑ったことなんて一度もなかった。愛されることが当たり前とすら思っていた。けれどもそれはまったくの幻想だったと、一年ともたず家族という形が壊れて行くさまを目の当たりにして、思い知った。
高宮はおれのことを好きだと言ってくれた。けれども、それはいつまで?
冷めた視線でそう思うと同時に、こんな風にひねくれた考えしか持てない自分が嫌になる。
「……うん」
けれども自分の感情に蓋をすることが得意なおれは、そ知らぬ顔をしてそう答えた。
そのあと、おれは高宮に送られて家に帰った。父親は会社、兄は大学に行っていたので、おれが学校を休んだことを家人に知られることはなかった。
ためらいもなく「結果」を聞いて来た父親には、「発情期のピークが過ぎていたから無理だった」と淡々と答える。父親はあからさまに落胆し、舌打ちをした。そんな姿を見るのが息苦しくて仕方がない。高宮の優しさに触れたあとだと、余計に。
おれのおぼろげな記憶の中には優しい父親が残っていた。母親にないしょでお菓子を買ってもらったことがある。あのころは父親からの愛を疑ったことがなかった。守られて、慈しまれ、可愛がられることを当然のように受け入れていた。
それを思い出すと妙に悲しくなって、泣きたくなった。
兄はその日も帰っては来なかった。
その晩、おれは高宮とのこれからについて考えてみた。けれども思考はまとめようとしても霧散するばかりだ。高宮の隣にいることを――つがいになるという未来を、想像することが出来ない。
それでもいいか、とも思う。高宮のそばにいたいという欲求はたしかだったが、それはどんな形でも構わないというのもまた、たしかだった。
高宮とはアルファとオメガという関係性ではあったものの、まだつがいにはなっていない。高宮からもそういう話は出なかった。
アルファが発情中のオメガのうなじを噛む、という行為によってつがいの関係が成立する。つがいを持つと、アルファはつがいのフェロモンにしか誘引されず、オメガもつがいに対してのみフェロモンを振りまくようになる。
そのつがいという特殊な関係を解消できるのはアルファだけだ。加えて、つがいを解消してもアルファにはなんのデメリットもない。
けれども歴史的にアルファの庇護を必要として来たオメガは違う。つがいを解消されることはオメガにとって生命線を切られることも等しいためか、多大なストレスとなってオメガの精神をむしばむ。アルファに対して愛情を感じていればなおさら。そこから抑鬱状態に陥ったり、最悪の場合は自ら命を絶つこともあると言うから、オメガにとっては深刻な問題だ。
高宮との関係がこの先どうなって行くかはわからない。けれどもつがいにだけは決してなってはいけないと思った。
愛は永遠ではないから。
高宮がいつまでおれを好きでいるかはわからないから。
だけどもちろん、高宮にはそんなおれの決意は関係ないわけで。
「立花立花~」
隣から甘ったるい声をかけてくる高宮に、おれは頭が痛くなった。下の名前で呼ぶのはふたりきりのときだけ、という約束は守ってくれていたものの、その約束自体が意味するところはまったく無視されていた。それが意図的なものなのかどうかまでは、わからない。
「た、高宮……」
おれは顔を引きつらせて高宮を見る。喜色満面。そんな顔とかち合って、おれは気まずさでいっぱいになる。
目の前に差し出されているのは、チャーハンをすくったレンゲ。差し出しているのはもちろん高宮である。
そして場所は校内にある食堂だった。
あからさまなアルファである高宮は目立つ。校内では名前が知られていたし、そうでなくても人の目を惹きつける華やかさが高宮にはあった。
そんな高宮と連れ立って座って、親しげに会話をしているというだけで、おれまでも視線を集めてしまっているというのに、彼がこんなことを始めてしまっては、周囲からの目が痛くて仕方がない。
おれへ向けられる視線が好意的でないのは、もはや慣れてしまっているからいいとしても、高宮からのいわゆる「あーん」はいただけない。
「それはちょっと……」
「なんで?」
控えめに拒絶を示せば、途端に高宮は悲しそうな顔をする。まるで怒られた犬みたいだ。情けない顔をしている。
「いや、だって……」
アルファが求愛行動として、オメガに対し給餌――つまり手ずから食事を与える――行為をすることがある、というのをどこかで見た覚えがある。高宮の突飛に見える行動も、本能的な欲求から生じたものなのだろう。そう考えると余計に恥ずかしくって仕方がない。
押し問答の末に最終的に高宮が折れてくれたものの、その日は一事が万事、そんな調子だった。
そうすると自然、うわさが生まれる。
おれが高宮のつがいになったのではないかという、そういううわさだ。
「……ふたりだけのときなら」
おれがそう言うと、高宮は顔を華やがせて喜んだ。
盛り上がった感情が過ぎて冷静さを取り戻すと、どうにもこうにも恥ずかしくて、高宮の顔をまともに見ることが出来ない。
「透」
おれの名前が高宮の舌に乗せられる。たったそれだけのことなのに、背筋に甘いしびれが走り、おれはそれを隠すようにますますうつむいた。
すると高宮の指が伸びて来て、そっと下に垂れたおれの前髪を撫でる。その指の動きを目で追いながら、おれはどぎまぎと膝の上に置いた手をきつく握りしめた。
高宮の指がおれの前髪からこめかみ、耳のそばを通って頬に降りる。おれよりもずっと男らしい高宮の指は、確認するようにおれの頬をふにふにと撫でる。
ふふ、と吐息のような笑い声が隣から漏れ出た。
ちらりと流し見た高宮の顔は穏やかで――慈しむ、というのは、こういうことなのだろうと思える表情だった。
「透、家に帰るの?」
「……うん」
「……透のお父さんのしていることって、はっきり言って虐待だよ」
真剣な顔をしてそう告げた高宮に、おれは「そうだね」と答えた。
虐待。薄々わかっていたことだが、面と向かって第三者に言われるとなかなか堪えた。けれども高宮だって、こんなことは言いたくはなかっただろう。彼が優しいことは、これまでの交わりの中で、じゅうぶんわかっていたから。
「俺の家に来ない?」
高宮の申し出に、思わず彼を見る。けれどもすぐにおれは首を横に振った。
「どうして? うちに来たら、透のお父さんとは会わないようにだって出来るよ?」
「今高宮の家に行くのは簡単だけど……。そんなことしたら、父さんは絶対大騒ぎするから。……高宮の家に迷惑はかけられない」
おれは高宮の家をどうこうしたいとも思わないし、出来るとも思っていない。
けれども父親は違う。おれを踏み台にして高宮の家に入り込むというのがあの人の無茶な野望なのだ。その成就のためにどんな突飛な行動に出るか、残念ながらおれは予想することが出来ない。
今、おれが高宮の家に行ったら「オメガを誘拐した」とか大騒ぎしてもおどろきはしない。
「迷惑なんて――」
「ごめん。申し出はすごくありがたいし、うれしい。でも、今は行けない」
「……じゃあ、いつかは来てくれる?」
「それは……わからない。でも、おれ、高校を卒業したら家を出ようと思ってるんだ」
それは高校に入学する前から漠然と考えていたことだった。「貸し腹」になるなんてまっぴらごめん。なら、家から、あの父親から逃げるしか道はない。
隣に座る高宮はなにか言いたそうな顔をしていたけれど、結局おれの決めたことについてなにか口に出すことはなかった。
「じゃあ、高校を卒業するころになったらまた考えてくれる?」
やっぱり、高宮は優しい。同時にそんな彼を幻滅させることを考えると、恐ろしくなった。
やっぱり、高宮とは親しくするべきじゃなかった。そんな考えが脳裏をよぎる。いつの間にか恋になっていた感情が成就して、その先に待つものを考えるのが、怖い。
愛が永遠ではないということを、おれはよく知っている。
オメガと診断されるまで、おれは家族からの愛を疑ったことなんて一度もなかった。愛されることが当たり前とすら思っていた。けれどもそれはまったくの幻想だったと、一年ともたず家族という形が壊れて行くさまを目の当たりにして、思い知った。
高宮はおれのことを好きだと言ってくれた。けれども、それはいつまで?
冷めた視線でそう思うと同時に、こんな風にひねくれた考えしか持てない自分が嫌になる。
「……うん」
けれども自分の感情に蓋をすることが得意なおれは、そ知らぬ顔をしてそう答えた。
そのあと、おれは高宮に送られて家に帰った。父親は会社、兄は大学に行っていたので、おれが学校を休んだことを家人に知られることはなかった。
ためらいもなく「結果」を聞いて来た父親には、「発情期のピークが過ぎていたから無理だった」と淡々と答える。父親はあからさまに落胆し、舌打ちをした。そんな姿を見るのが息苦しくて仕方がない。高宮の優しさに触れたあとだと、余計に。
おれのおぼろげな記憶の中には優しい父親が残っていた。母親にないしょでお菓子を買ってもらったことがある。あのころは父親からの愛を疑ったことがなかった。守られて、慈しまれ、可愛がられることを当然のように受け入れていた。
それを思い出すと妙に悲しくなって、泣きたくなった。
兄はその日も帰っては来なかった。
その晩、おれは高宮とのこれからについて考えてみた。けれども思考はまとめようとしても霧散するばかりだ。高宮の隣にいることを――つがいになるという未来を、想像することが出来ない。
それでもいいか、とも思う。高宮のそばにいたいという欲求はたしかだったが、それはどんな形でも構わないというのもまた、たしかだった。
高宮とはアルファとオメガという関係性ではあったものの、まだつがいにはなっていない。高宮からもそういう話は出なかった。
アルファが発情中のオメガのうなじを噛む、という行為によってつがいの関係が成立する。つがいを持つと、アルファはつがいのフェロモンにしか誘引されず、オメガもつがいに対してのみフェロモンを振りまくようになる。
そのつがいという特殊な関係を解消できるのはアルファだけだ。加えて、つがいを解消してもアルファにはなんのデメリットもない。
けれども歴史的にアルファの庇護を必要として来たオメガは違う。つがいを解消されることはオメガにとって生命線を切られることも等しいためか、多大なストレスとなってオメガの精神をむしばむ。アルファに対して愛情を感じていればなおさら。そこから抑鬱状態に陥ったり、最悪の場合は自ら命を絶つこともあると言うから、オメガにとっては深刻な問題だ。
高宮との関係がこの先どうなって行くかはわからない。けれどもつがいにだけは決してなってはいけないと思った。
愛は永遠ではないから。
高宮がいつまでおれを好きでいるかはわからないから。
だけどもちろん、高宮にはそんなおれの決意は関係ないわけで。
「立花立花~」
隣から甘ったるい声をかけてくる高宮に、おれは頭が痛くなった。下の名前で呼ぶのはふたりきりのときだけ、という約束は守ってくれていたものの、その約束自体が意味するところはまったく無視されていた。それが意図的なものなのかどうかまでは、わからない。
「た、高宮……」
おれは顔を引きつらせて高宮を見る。喜色満面。そんな顔とかち合って、おれは気まずさでいっぱいになる。
目の前に差し出されているのは、チャーハンをすくったレンゲ。差し出しているのはもちろん高宮である。
そして場所は校内にある食堂だった。
あからさまなアルファである高宮は目立つ。校内では名前が知られていたし、そうでなくても人の目を惹きつける華やかさが高宮にはあった。
そんな高宮と連れ立って座って、親しげに会話をしているというだけで、おれまでも視線を集めてしまっているというのに、彼がこんなことを始めてしまっては、周囲からの目が痛くて仕方がない。
おれへ向けられる視線が好意的でないのは、もはや慣れてしまっているからいいとしても、高宮からのいわゆる「あーん」はいただけない。
「それはちょっと……」
「なんで?」
控えめに拒絶を示せば、途端に高宮は悲しそうな顔をする。まるで怒られた犬みたいだ。情けない顔をしている。
「いや、だって……」
アルファが求愛行動として、オメガに対し給餌――つまり手ずから食事を与える――行為をすることがある、というのをどこかで見た覚えがある。高宮の突飛に見える行動も、本能的な欲求から生じたものなのだろう。そう考えると余計に恥ずかしくって仕方がない。
押し問答の末に最終的に高宮が折れてくれたものの、その日は一事が万事、そんな調子だった。
そうすると自然、うわさが生まれる。
おれが高宮のつがいになったのではないかという、そういううわさだ。
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