あなたの妻にはなれない女

やなぎ怜

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あなたの妻にはなれない女

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 いいな、と思った。

 見目麗しくて、所作がスマートで、知的で……他の男子生徒たちよりも頭ひとつぶん確実に図抜けていることは、ひと目見てわかったから。

 けれども大して賢いわけでもないわたしがちょっと見ただけでそれを理解できるということは、他の女子生徒たちだって彼の魅力に、なんだったらいち早く気づいていただろうことを意味していた。

 アーサー・ラザフォード。

 貴族年鑑や紳士録に名を連ねることに大きな意味が伴わなくなってきた昨今。それでも彼がさる伯爵家の令息であるという事実は、わたしを含めたブルジョア階級の令嬢たちにとっては憧れを増幅させるには恰好の肩書きだった。

 少なくない女子生徒たちは、彼のアーモンドに似た形よい瞳で見つめられたいと願った。

 それから、彼から愛を捧げられたらなんて幸福なんだろう! ……そんな夢想を気の置けない友人同士、きゃらきゃらとさえずりあうのは、この学園ではある種お定まりの光景だった。

 でも、そこから本気で彼にアプローチを仕掛ける女子生徒は稀だ。

 アーサー・ラザフォードは見目麗しくて、所作がスマートで、知的で、伯爵家の嗣子で……一見、彼にはなんら欠点はないように思われるが、そのできすぎた帳尻を合わせるかのように、彼は――実の姉を偏愛していた。

 エスター・ラザフォード。彼と誕生日を同じくする双子の姉。彼がなによりも愛する姉。

 アーサー・ラザフォードが姉のエスターを偏愛していることは、学園中の生徒が知っていると言っても過言ではない。

 恐れ知らずの男子生徒などは、彼と姉が「デキてる」だなんて冗談を飛ばすが、真剣に取り合う者はほとんどいない。

 けれどもわたしは「ほとんどいない」はずの、彼と姉の不名誉な噂話をほんの少しだけ信じている。

 いいな、と思ったから。

 箔付けのためだけに父親から進学を許された学園の、文芸サークル。そこでわたしは彼と……アーサー・ラザフォードと出会った。

 いいな、と思ったのだ。

 彼に微笑みかけられて、いいな、と思ったのだ。

 人生で初めての、ひと目惚れだった。

 わたしは一も二もなく彼のいる文芸サークルに入ることを決めた。

 ただ、誤算はふたつあった。

 ひとつは、彼目当てに文芸サークルに入った女子生徒の多いこと。わたしだって下心を持って入ったのだから、大きなことは言えなかったが、それにしたって彼女らの言動は目に余った。

 サークルの会長を務める、眼鏡をかけた先輩の堪忍袋の緒が切れるのは、必然だった。

 様々あって、サークルの有象無象の会員たちはふるいにかけられた。

 わたしはそのふるい――一週間で詩作をするというテストをどうにかパスして、文芸サークルに残ることを許された。

 わたしは、期待した。有象無象から抜け出せることを。

「キャサリン・オートレッドさん?」

 彼の口からわたしの名前が出てきたときの、胸の高鳴りはどんなに言葉を尽くしても言い表せない、喜びに満ち溢れていた。

 けれどもそんな浮かれた気持ちは、すぐに撃ち落されることになる。

「オートレッドさんのこのあいだの書評、とても良かったよ。A.A.ジョクスの新刊の『月曜日を祝い給え』」
「あ、ありがとうございます……!」

 彼に褒められた返事は見事に上擦ってしまい、縮こまりたくなった。

 わたしの視界では、彼の姿はきらきらと輝いているように見えた。

 実際、わたしは緊張と感動のあまり、わずかに目を潤ませていた。

「それと、この前の詩はウィッカムの本歌取りでしょう?」
「え、ええ……ウィッカムの詩は子供のころからのお気に入りで」

 彼と会話が続いていることに、わたしは感動した。

 けれど――

「――それならエスターと話が合うんじゃないかな?」
「え?」
「ああ、僕の双子の姉なんだ。エスター・ラザフォード」
「あ、はい。存じ上げております……」
「あはは。そんな、かしこまらなくていいのに。それでエスターのことなんだけれど――」

 エスター。エスター。エスター。

 彼が口を開けば姉の話ばかりすることを、知らなかったわけじゃなかった。

 けれどもいざ目の前で彼が姉の名前を出して、はにかんでいる姿を見たら、さきほどまでの浮かれた気持ちはしぼんでしまった。

 そしてその代わりとでもいうように、まるでイバラのようなとげとげしい気持ちが首をもたげる。

 エスター。エスター。エスター。

 ――わたしはエスターじゃなくて、キャサリンなのに!

 彼の無関心さには覚えがあった。わたしの両親のそれと、彼のそれはとてもよく似ていた。

 あっという間にお嫁に行ったわたしの姉たちと違い、わたしは大して美しくない。

 両親から溺愛されているのは末っ子長男の弟で、あまたいる娘の中でもわたしはどうでもいい存在だ。

 箔付けのために学園へ通わせてくれるだけの情はあっても、わたしに上等な婚約者を見繕ってやろうという気概は、両親にはない。

 だれもわたしのことなんて見ていないし、どうでもいいと思っている。

 それが、歯ぎしりしたくなるほど悔しかった。

 ……それきり、彼への気持ちが断ち切れたのならよかった。

「今日は白百合の髪飾りなんだね」――ささいな変化に気づいてくれるのは、彼だけで。

「このあいだの新作の詩、『青嵐』の使い方が印象的でとてもよかったよ」――わたしを褒めてくれるのは、彼だけで。

「オートレッドさん、こんな時間まで会誌の執筆をしていたの? 手伝えることはある?」――わたしをねぎらってくれるのは、彼だけで。

 彼の言動の裏には、常に姉のエスターがいることを理解しながらも、わたしはアーサー・ラザフォードという男の言葉に一喜一憂せざるを得ないのだった。

 そうだ。彼がわたしにこんな言葉をかけてくれるのは、わたしがエスターと同じサークルの、同学年の女子生徒だからであって、「キャサリン・オートレッド」に話しかけているわけではない。

 わたしが、エスター・ラザフォードとうわべだけの浅い友誼を結んでいるから、彼はわたしにもよくしてくれるのだ。

 わたしは、はっきり言ってエスター・ラザフォードが大嫌いだった。

 エスター・ラザフォードは、実弟である彼とよく似た秀麗な容貌の持ち主だったが、とにかく陰気だ。

 会話は最低限で、わたしがいくら話題を振ってもそこから話を広げようというような気概は、一切持ち合わせていない。

 ――つまらない女。

 わたしのエスター・ラザフォード評はそのひとことに尽きる。

 けれども彼はそんな姉が大好きらしい。

 エスター。エスター。エスター。

 だから、わたしはエスター・ラザフォードが大嫌いだった。

 美貌を持っていること。にこりとも笑いやしないこと。わたしが彼女のことをどうでもいいと思っているのと同じように、わたしのことなんでどうでもいいと思っていること。彼に愛されていること。なのに彼に無関心な態度を取ること。クロスグリのパイが好きなこと。

 わたしは見た目だけ美しいエスター・ラザフォードも、酸っぱいパイも、大嫌いだった。

 けれども、彼の視界に入るためには、エスター・ラザフォードとの付き合いを切ることはできない。

 エスター・ラザフォードも、わたしの下心なんてとっくに見通しているくせに、特段拒絶の態度を見せることもなければ、軽蔑の目を向けてくることもなかった。

 そういう点では、この双子はおどろくほどよく似ている。

 この姉弟にとって、わたしは特別な関心を向けるに値しない、どうでもいい存在なのだ。

 そのことを頭で理解しながらも、わたしはアーサー・ラザフォードへの恋慕を断ち切れもしなければ、エスター・ラザフォードへ憎悪を募らせることをやめられもしなかった。

「――ねえ、どうして彼に心配りをしないの」

 つい先ほど、彼からの観劇の誘いを冷たい声で断ったエスター・ラザフォードに、わたしはたまりかねてそんなことを口走った。

 エスター・ラザフォードは、美しいアーモンド・アイを不愉快そうに細めて、しかしなにも言い返しはしなかった。

 わたしが彼女のことをどうでもいいと思っているように、彼女もまたわたしのことなんてどうでもいいと思っている――。

 うわべだけの友誼の下に隠していたその事実が、今水面に浮きあがって顔を出したかのようだった。

「あんな言い方、ないじゃない」
「……私たちのこと、知った風な口を利かないで」

 エスター・ラザフォードの冷たく硬い声を聞いて、わたしは頭の中がかっと熱くなったような気になる。

「いいご身分よね、彼の姉ってだけで我がままし放題で! まったく、うらやましいこと!」
「うらやましい? ――そう」
「『そう』ってなによ。いつもお高くとまって。だから友達なんてひとりもいないのよ。彼がそれをどれだけ心配しているか――」
「そう」
「またその返事――」

「――それじゃあ私と入れ替わってみる?」

 エスター・ラザフォードの美しいアーモンド・アイがじっとわたしに向けられていた。

「は?」

 二の句が継げず、かろうじて吐息のような声が喉から漏れるように外へと出る。

 そんな間抜けなわたしを見ても、相変わらずエスター・ラザフォードは無関心そうな温度のない目を向けてくるばかりだった。

「貴女、アーサーのことが好きなんでしょう?」
「……だから?」
「ええ、そうね。だから、私と入れ替わってみない、と言ったの」
「入れ替わる、って」
「魂を入れ替えるの。貴女はエスター・ラザフォードとして生きる。わたしは、キャサリン・オートレッドとして生きる……。私たちの人生を、入れ替えてみない?」

 エスター・ラザフォードは頭がおかしいのだと思った。

 けれども、彼女はまったくの本気だった。

 ラザフォード家の書庫に隠されたそれは、グリモワールと呼ばれる――魔術の奥義を記した書物で、その書物に記された通りの儀式を行えば魂を入れ替えることができるのだという。

 馬鹿馬鹿しいと思った。

 この機械と蒸気の時代に、魔術だの錬金術だのの出番はもうないし、そんなことを口にするのは狂人か詐欺師くらいのものだ。

「……本気で言ってる?」
「私たちの人生を取り替えたら、それでまるく収まると思わない?」

 エスター・ラザフォードの言葉は、わたしの中で甘美に響いた。

「貴女が、これからエスター・ラザフォードとして生きるの」

 エスター。エスター。エスター。

 大嫌いなエスター・ラザフォードになれたら――わたしは、彼に愛される。

 エスター。エスター。エスター。

 大嫌いなエスター・ラザフォードになれたら、わたしは彼と血縁という永遠の絆で結ばれることができる……。

 彼はわたしには……キャサリン・オートレッドには微塵も興味がない。

 学園を卒業してしまえば、このか細い糸で繋がったかのような関係性が、ふつりと途切れてしまうことは目に見えていた。

 けれども、エスター・ラザフォードならば――。

 わたしはその誘惑に負けた。

 様々な疑念は、卒業式の日にエスター・ラザフォードが用意した真っ黒なジュースと共に呑み込んだ。

 呑み込んだ疑念は、エスター・ラザフォードの胃の中で溶けた。



 ***



「久しぶり、キャサリン・オートレッドさん」

 港町に構えた、オートレッド商会の支部。ウミネコたちの鳴き声が遠く聞こえるある晴れた日に、アーサー・ラザフォードはキャサリン・オートレッドを訪ねてやってきた。

 学園をつつがなく卒業してから、およそ三ヶ月。キャサリンは叔父が任されている港町にある商館で、事務の仕事に就いていた。

 縁故採用だが驕ったところもなく、生真面目に働く無口なキャサリンは、その仕事ぶりでも既に周囲からは一定の評価を得ている。

 恋人がいるという噂もなく、男の影もない。そんなキャサリンのもとを、眉目秀麗な紳士――アーサー・ラザフォードが突然おとなったたために、周囲はおどろいた。

 それはキャサリンも例外ではなかったものの、わずかに目を見開くのみで、大げさな態度は一切見せなかった。

「元同級生なんです。同じ文芸サークルにいて」

 手短に周囲への説明を済ませたキャサリンは、てきぱきとアーサー・ラザフォードを商館の応接室へと通し、人払いする。

 商館の主たるキャサリンの叔父は運悪く商談に出かけており、そうなるとその姪っ子であるキャサリンのする穏当な「お願い」に、わざわざ逆らう人間はいなかった。

「今日は手紙を渡すだけのつもりだったのだけれど」

 アーサーはそう言って微笑むと、キャサリンに真っ白な封筒を差し出した。

「エスターから」

 キャサリンが差出人を確認する前に、アーサーはそう告げた。

 立派な応接室では、窓ガラス越しにくぐもってウミネコの鳴き声が聞こえる以外は、ほとんど静寂だった。

「君に、会いたいって」
「私は、会いたくないわ」

 キャサリンは手紙を開封せず、ただ手元の真っ白な封筒に視線を落とす。

「僕は会いたかった」

 アーサーの言葉に、キャサリンは緩慢に視線を上げる。

「エスター」

 アーサーは微笑んだが、それはどこかほの暗さを伴っていた。

 キャサリンは――キャサリンの肉体を持つエスターは、そんなアーサーを認めて、目を細めた。

 アーサーとエスターの双子の姉弟は、その両親である伯爵夫妻が老いてからようやく授かった子供だった。

 夫妻は姉弟を際限なく甘やかして育てたが、幸いにもこの双子は大きく道を外れることもなく成長した。

 ……そう周囲は思っている。

「私はエスターじゃないわ」
「嘘つき。僕がそんなこともわからないとでも思っているの?」
「エスターは、あなたのそばにいるんでしょう?」
「いるよ。でもさ――どんな状態でいるかは、わからないでしょう?」

 キャサリンの顔で、エスターはハッとしたようにアーサーを見た。

 しかしすぐに唇を噛むように黙り込む。

「帰ろう? エスター」
「私の家はここよ」
「先に言っておくけれど、ここで逃げても無駄だよ。僕は地の果てだろうが地獄の底だろうが、追いかけるよ。……ねえ、エスターならわかっているでしょう?」

 エスターは――わかっていたので、反論もせずに沈黙を貫く。

「彼女、クロスグリのパイは嫌いなんだって。まあ、僕は最初から気づいていたけれど……。ねえ、帰ろうよエスター。君の好きなクロスグリのパイも、ラズベリーパイも、オランジェットもなんだって用意してあげるから」
「……帰るって、どうやって? 私は、キャサリン・オートレッドよ」
「それじゃあキャサリン・ラザフォードになればいい」

 エスターは、呆気に取られた顔をする。

 一方のアーサーは、自らの提案を名案だとばかりに笑顔を浮かべた。

「――ああ、それがいい。それなら僕とエスターはずっと一緒だ」
「……エスターは、貴方の家にいるんでしょう」
「ああ、地下にね」
「なんですって?」
「頭がおかしくなっちゃったんだ」

 あっけらかんと言い放たれて、エスターは絶句する。

「なんだろう……幼児退行って言うのかな? 夜尿とか夜驚とかがひどくて、メイドを雇って世話をさせてるんだ」
「……なにをしたの」
「そんな! 大したことはしてないよ」
「よく言えるわね」
「ああ、手紙は本当に本物だよ。ただそれを書かせたあとに……おかしくなっちゃって」

 エスターはうつむいて、唇を噛んだ。

「……赤の他人を身代わりにすることを選んだのに、どうして大人しく連れ戻せると思っているの?」
「そうやって、戻ることを選択肢に入れている時点で、結末は決まりきっていると思わない?」

 エスターはアーサーをにらみつける。

 それが虚勢であることは、残念ながらだれの目にも明らかだった。

「エスターの非情になりきれないところ、好きだよ」




 ……アーサー・ラザフォードが、ブルジョア階級の娘であるキャサリン・オートレッドを妻に迎えたことは社交界やタブロイド紙を騒がせたが、それはおおむね好意的に捉えられた。

 元同級生同士、学生時代から育まれた身分違いの美しい恋。キャサリン・オートレッドからすれば、シンデレラ・ストーリー。そのようにもてはやされ、ふたりは時のひととなった。

 それより少し前にエスター・ラザフォードは病を得て隠棲しているとの噂が流れたが、それは彼女の弟夫妻の慶事の前に忘れ去られていった。

 アーサー・ラザフォードと新妻キャサリンのあいだに一子が生まれると、エスターの不幸は完全に世間から忘れ去られた。
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