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うちの夫がやらかしたので、侯爵邸を売り飛ばします
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sideライアン――――
王都に戻る頃には、すっかり秋になっていた。
馬車の窓から見える街路樹は紅く染まり、石畳には陽の光が長い影を落としている。
ナタリーは窓から身を乗り出し、嬉しそうに笑った。
「王都の空気、久しぶりですわね……」
「……ああ。やっぱり落ち着くな」
浮かれたような自分の声に、苦笑が漏れる。旅の余韻が残っているせいだろう。
それに、久しぶりにルビーに会えるという期待が、心を軽くしていた。
結婚して以来、彼女の顔をこれほど長く見ないでいたのは初めてだ。
日焼けした頬に、乾いた風が心地よく吹きつける。
「君が楽しんでくれたようで何よりだ。お腹の子も元気そうで安心したよ」
ナタリーはお腹にそっと手を添え、小さく頷いた。
「何もかも……奥様のおかげですわ」
その言葉に、俺は思わず視線を逸らした。
ルビーには少なからず、申し訳ない気持ちがあった。
出発前、あまりに唐突にナタリーの存在を明かしてしまった。
あの日、彼女が黙って差し出した二通の書類。
離婚届と婚姻届。
すでに記入済みのそれは、俺たちを受け入れるという、彼女なりの答えだった。
きっと覚悟を持って準備したのだろう。
彼女の強さと優しさを改めて感じた。
本当は、胸が張り裂けそうなほど辛かったに違いない。
それでも、彼女は黙ってすべてを受け入れてくれた。
あのときの彼女は、まさに侯爵夫人としての誇りを体現していた。
正直、まさかナタリーが妊娠するとは、思ってなかった。
だが、俺には男としての責任がある。それを果たすのは当然のことだった。
愛しているのは、ルビーだ。
聡明で従順な、完璧な妻。
彼女と共に歩む人生こそ、俺が望んだ未来だった。
だがナタリーもまた、俺の子を宿している。
彼女を見捨てるわけにはいかない。
結果的に共に暮らすことができ、侯爵家の未来も安泰だ。
何もかもがうまくいっている。
「……そろそろ、屋敷が見えてくる頃だ」
久しぶりにルビーに会えるのが、ただ嬉しかった。
きっと寂しがっているだろう。土産も忘れていない。
早く、顔が見たい。
そんな思いが胸を熱くする。
馬車がいつもの通りに差しかかる。ナタリーが窓の外をきょろきょろと見回した。
「あれ……?」
視線の先に、見慣れたはずの鉄の門がない。
石造りの塀も壊され、そこには広々とした道ができていた。
入り口付近には、見慣れぬ立て札が立っている。
『王立歴史博物館 ネイル侯爵家旧邸 改装工事中』
「……ここではないのですか?」
戸惑うナタリーの声を聞きながら、俺は勢いよく馬車の扉を開け、飛び降りた。
「……どういうことだ……?」
敷地内には足場が組まれ、作業員たちが忙しなく動いている。
監督らしき男が、怪訝そうにこちらを見た。
「ここは立ち入り禁止だ。あんたたち、誰だ?」
「俺はこの屋敷の主人だ。ネイル侯爵家の、ライアン・ネイルだ!」
男は眉をひそめ、訝しげに言った。
「ここはもう国の所有物だ。売却されたって聞いてるぜ。正式な許可も出てる」
「売却、だと……?そんな話は聞いてない!」
「侯爵様はもうここには住んでいない。新しい屋敷に移ったって話だ」
驚いて、言葉が出なかった。
この状況に、心配してナタリーも俺の腕にしがみつく。
「なにが……起きているんですか……?」
「……わからない」
俺は監督に詰め寄り、詳しい事情を求めた。
「何度も言うが、ここはもう侯爵家の屋敷じゃない。国が正式に買い取っている。信じられないなら登記所で確認してみな。使用人も皆、引っ越したよ」
「……そんな、馬鹿な……」
周囲を見回しても、作業員ばかりで、知った顔はいなかった。
馬車に戻ってからも、沈黙が続いた。
俺は思わず呟いた。
「……どこへ行けばいいんだ……行く場所がない」
まずはルビーに会って、話を聞かねばならない。
だが彼女は今、どこにいる?
何が起きた?
なぜ、俺には何の連絡もなかった?
作業員は「街の中心に新しい屋敷がある」と言っていたが、場所の詳細はわからない。
なぜ、何も知らせてくれなかった?
「……あの、私の実家なら……」
ナタリーの言葉に、俺は顔を上げた。
「父も母も、きっと歓迎してくれると思います……いえ、今までライアン様に支援していただいておりましたし……」
ほかに選択肢はなかった。
旅行の荷物もあったため、とりあえずナタリーの実家を目指すことにした。
馬車の揺れに身を任せながら、俺の頭の中では同じ問いがぐるぐると渦巻いていた。
いったい何が起きているんだ。
考えれば考えるほど、思考が濁っていく。
王都を離れていたのは、ほんの一ヶ月。
ナタリーとの新婚旅行は、もちろんルビーも了承していた。
あの日、彼女は笑顔で俺たちを送り出してくれたじゃないか。
何も不自然なことなんてなかったのに。
それに、屋敷の売却には多くの手続きと時間が必要だろう。
となれば、あれは俺が旅立った後すぐに始められていたことになる。
……ルビーに何かあったのか?
そう思った瞬間、胸がざわついた。
まずは状況を整理しよう。
だが、せっかく戻ってきたというのに、人の屋敷に泊まる羽目になるとは……
疲れているんだ。自分の部屋でゆっくり休みたかった。
……なのに。
次第に怒りがこみ上げてきた。
もしすべてルビーがひとりで決めたのなら、いくらなんでも勝手すぎる。
相談の手紙を送るくらいできたはずだ。
何か事情があったにせよ、俺への連絡手段はいくらでもある。
ルビーはいったい何を考えているんだ……
いや、もしかして俺は、彼女を甘やかしすぎたのかもしれない。
「……ルビーに会ったら、侯爵夫人だからと言って、相談もなく勝手なことをするなと釘を刺しておかなければな」
「何か事情があったのかもしれませんが……それでも、ライアン様の奥方なのですから、ご主人に一言もなく行動するのはよくありませんわ。赤ちゃんも生まれるというのに、屋敷が整っていなければ困りますもの」
「……そうだな。もしかしたら、あの古びた邸を処分して、新しい屋敷を用意してくれたのかもしれない。あの屋敷の維持費は毎年莫大だったから……」
ルビーのことだ。
もしかするとナタリーと、これから生まれてくる子のために、新しい屋敷を準備してくれたのかもしれない。
そう考えた瞬間、なぜかみぞおちのあたりが冷たく痺れた。
ずっと気づかないふりをしていた“何か”が、意識の底からじわじわと浮かび上がってくる。
けれど、それが何なのか、今の俺にはまだはっきりしなかった。
今はとにかく、また移動を余儀なくされる現実にうんざりした。
そして男爵の屋敷で夜を明かすのかと思うと、背中に染みた疲れがいっそう重たくなった。
王都に戻る頃には、すっかり秋になっていた。
馬車の窓から見える街路樹は紅く染まり、石畳には陽の光が長い影を落としている。
ナタリーは窓から身を乗り出し、嬉しそうに笑った。
「王都の空気、久しぶりですわね……」
「……ああ。やっぱり落ち着くな」
浮かれたような自分の声に、苦笑が漏れる。旅の余韻が残っているせいだろう。
それに、久しぶりにルビーに会えるという期待が、心を軽くしていた。
結婚して以来、彼女の顔をこれほど長く見ないでいたのは初めてだ。
日焼けした頬に、乾いた風が心地よく吹きつける。
「君が楽しんでくれたようで何よりだ。お腹の子も元気そうで安心したよ」
ナタリーはお腹にそっと手を添え、小さく頷いた。
「何もかも……奥様のおかげですわ」
その言葉に、俺は思わず視線を逸らした。
ルビーには少なからず、申し訳ない気持ちがあった。
出発前、あまりに唐突にナタリーの存在を明かしてしまった。
あの日、彼女が黙って差し出した二通の書類。
離婚届と婚姻届。
すでに記入済みのそれは、俺たちを受け入れるという、彼女なりの答えだった。
きっと覚悟を持って準備したのだろう。
彼女の強さと優しさを改めて感じた。
本当は、胸が張り裂けそうなほど辛かったに違いない。
それでも、彼女は黙ってすべてを受け入れてくれた。
あのときの彼女は、まさに侯爵夫人としての誇りを体現していた。
正直、まさかナタリーが妊娠するとは、思ってなかった。
だが、俺には男としての責任がある。それを果たすのは当然のことだった。
愛しているのは、ルビーだ。
聡明で従順な、完璧な妻。
彼女と共に歩む人生こそ、俺が望んだ未来だった。
だがナタリーもまた、俺の子を宿している。
彼女を見捨てるわけにはいかない。
結果的に共に暮らすことができ、侯爵家の未来も安泰だ。
何もかもがうまくいっている。
「……そろそろ、屋敷が見えてくる頃だ」
久しぶりにルビーに会えるのが、ただ嬉しかった。
きっと寂しがっているだろう。土産も忘れていない。
早く、顔が見たい。
そんな思いが胸を熱くする。
馬車がいつもの通りに差しかかる。ナタリーが窓の外をきょろきょろと見回した。
「あれ……?」
視線の先に、見慣れたはずの鉄の門がない。
石造りの塀も壊され、そこには広々とした道ができていた。
入り口付近には、見慣れぬ立て札が立っている。
『王立歴史博物館 ネイル侯爵家旧邸 改装工事中』
「……ここではないのですか?」
戸惑うナタリーの声を聞きながら、俺は勢いよく馬車の扉を開け、飛び降りた。
「……どういうことだ……?」
敷地内には足場が組まれ、作業員たちが忙しなく動いている。
監督らしき男が、怪訝そうにこちらを見た。
「ここは立ち入り禁止だ。あんたたち、誰だ?」
「俺はこの屋敷の主人だ。ネイル侯爵家の、ライアン・ネイルだ!」
男は眉をひそめ、訝しげに言った。
「ここはもう国の所有物だ。売却されたって聞いてるぜ。正式な許可も出てる」
「売却、だと……?そんな話は聞いてない!」
「侯爵様はもうここには住んでいない。新しい屋敷に移ったって話だ」
驚いて、言葉が出なかった。
この状況に、心配してナタリーも俺の腕にしがみつく。
「なにが……起きているんですか……?」
「……わからない」
俺は監督に詰め寄り、詳しい事情を求めた。
「何度も言うが、ここはもう侯爵家の屋敷じゃない。国が正式に買い取っている。信じられないなら登記所で確認してみな。使用人も皆、引っ越したよ」
「……そんな、馬鹿な……」
周囲を見回しても、作業員ばかりで、知った顔はいなかった。
馬車に戻ってからも、沈黙が続いた。
俺は思わず呟いた。
「……どこへ行けばいいんだ……行く場所がない」
まずはルビーに会って、話を聞かねばならない。
だが彼女は今、どこにいる?
何が起きた?
なぜ、俺には何の連絡もなかった?
作業員は「街の中心に新しい屋敷がある」と言っていたが、場所の詳細はわからない。
なぜ、何も知らせてくれなかった?
「……あの、私の実家なら……」
ナタリーの言葉に、俺は顔を上げた。
「父も母も、きっと歓迎してくれると思います……いえ、今までライアン様に支援していただいておりましたし……」
ほかに選択肢はなかった。
旅行の荷物もあったため、とりあえずナタリーの実家を目指すことにした。
馬車の揺れに身を任せながら、俺の頭の中では同じ問いがぐるぐると渦巻いていた。
いったい何が起きているんだ。
考えれば考えるほど、思考が濁っていく。
王都を離れていたのは、ほんの一ヶ月。
ナタリーとの新婚旅行は、もちろんルビーも了承していた。
あの日、彼女は笑顔で俺たちを送り出してくれたじゃないか。
何も不自然なことなんてなかったのに。
それに、屋敷の売却には多くの手続きと時間が必要だろう。
となれば、あれは俺が旅立った後すぐに始められていたことになる。
……ルビーに何かあったのか?
そう思った瞬間、胸がざわついた。
まずは状況を整理しよう。
だが、せっかく戻ってきたというのに、人の屋敷に泊まる羽目になるとは……
疲れているんだ。自分の部屋でゆっくり休みたかった。
……なのに。
次第に怒りがこみ上げてきた。
もしすべてルビーがひとりで決めたのなら、いくらなんでも勝手すぎる。
相談の手紙を送るくらいできたはずだ。
何か事情があったにせよ、俺への連絡手段はいくらでもある。
ルビーはいったい何を考えているんだ……
いや、もしかして俺は、彼女を甘やかしすぎたのかもしれない。
「……ルビーに会ったら、侯爵夫人だからと言って、相談もなく勝手なことをするなと釘を刺しておかなければな」
「何か事情があったのかもしれませんが……それでも、ライアン様の奥方なのですから、ご主人に一言もなく行動するのはよくありませんわ。赤ちゃんも生まれるというのに、屋敷が整っていなければ困りますもの」
「……そうだな。もしかしたら、あの古びた邸を処分して、新しい屋敷を用意してくれたのかもしれない。あの屋敷の維持費は毎年莫大だったから……」
ルビーのことだ。
もしかするとナタリーと、これから生まれてくる子のために、新しい屋敷を準備してくれたのかもしれない。
そう考えた瞬間、なぜかみぞおちのあたりが冷たく痺れた。
ずっと気づかないふりをしていた“何か”が、意識の底からじわじわと浮かび上がってくる。
けれど、それが何なのか、今の俺にはまだはっきりしなかった。
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