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うちの夫がやらかしたので、侯爵邸を売り飛ばします
13 最終話
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視点三人称――――
新しい屋敷の窓から、朝の光がやさしく差し込んでいる。カップに注がれた紅茶から立ち上る香りが心地よい。
ルビーは静かに椅子に腰をおろし、本のページをめくった。グレイの毛色の猫が足元で丸まり、時折、小さな喉を鳴らしている。
庭では、年若い庭師が春の草花を整えている最中だった。以前の庭に比べればやや狭いものの、シンメトリーで人工的なその造りは近代的で美しかった。
前の屋敷から移動してきた使用人たちも、新しい屋敷に満足しているようだ。
ここには不思議な心地よさがあった。
無駄な贅沢も、誰かの顔色をうかがう必要もない。ただ、自分の呼吸に耳を澄ませながら暮らす時間がある。
ルビーはネイル侯爵として、そのまま家督を守っていた。
表向きの縁談話もあったが、どれも受けなかった。
今のところ、誰かと再婚する予定はない。けれど、彼女はそれを寂しいと思ったことはなかった。
生活は充実しているし、無駄なことを考えずに済むので、ストレスがない生活だった。
午前中は書類の整理と領地管理の報告書に目を通し、午後は教養の時間と、若い令嬢たちの相談に乗ることもあった。
かつての彼女を見習いたいと訪ねてくる令嬢たちに、ルビーは優しく、けれど過度な期待を持たせないように気を配りながら助言していた。
あの頃は、もっと騒がしかった。夫を支え、使用人に目を配り、社交界の視線を受け、立派に妻としての役目も果たさなければならなかった。
けれど今は、自分の歩幅で歩くことができる。
侯爵邸の門前を通る人々は、口をそろえてこう言う。
「やはりネイル侯爵は、美しさと気品を失わない」
「離婚されたとは思えないほどお美しく、そして凛としてお強い方だ」
どのように噂さされても、彼女の心に波紋を投げかけることはなかった。
彼女は何も失ってはいなかった。
むしろようやく、自分だけの時間を得たのだ。
心を乱すものが何もないというのは、こんなにも静かで、幸福なことだったのかと。
その穏やかな横顔に、かつての夫の影は、どこにも映っていなかった。
春の終わり、宮殿からの公式使者が屋敷にやってきた。
「ネイル侯爵様、博物館の運営に関するご相談で、王弟殿下がこの屋敷にお越しになります」
急な知らせに、ルビーは少しだけ眉をひそめた。
王家との付き合いは昔からあったが、今の自分は“侯爵”とはいえ、かつてのように大きな屋敷もなければ、夫もいない。
それでも、過去に住んでいた侯爵邸の話なのだから、断る理由はなかった。
数日後、整えられた応接間に彼は現れた。
王弟、セドリックは、王の弟でありながら政務に距離を置き、長らく外交任務に従事していた人物だった。
貴族社会では“風変わりな王族”として知られていた。
けれど、目の前に立つ彼は、噂とはまるで違っていた。
飾り気のない上質な服、落ち着いた物腰、そして穏やかな眼差し。
彼はルビーを見て、紳士的に挨拶した。
「噂はかねがね。まさか、このように静かな館に、素晴らしく気品のある方がいらっしゃるとは」
「お褒めにあずかり光栄です、殿下。ですが、ここでは、質素こそが美徳にございます」
ルビーが笑うと、セドリックはふっと目を細めた。
その日から、彼は理由をつけて何度も訪ねてくるようになった。
博物館の収蔵品の確認、来館者の動向調査。今後の方針について。
どれもが博物館経営のための相談という名目ではあったが、ルビーには、それらがただの口実にすぎないことが分かっていた。
彼は遠回しな言葉の中に、好意を散りばめていた。
過去を掘り返さず、未来を押しつけず、ただルビーの目を見て話す。
それがどれほど心地よいものか、彼女は日ごとに知っていく。
ある日、彼は白い薔薇の鉢を持って屋敷に現れた。
「これは、あなたの庭に似合いそうだと思って持ってきた。花言葉、ご存知ですか?」
ルビーは笑って頷いた。
「尊敬と新たな始まり……だったかしら」
「そうです。もし良ければ、今度は私の屋敷の庭に合う花を、あなたが選んでほしい」
一瞬、どういう意味かと考えた。
けれど、ルビーはすぐに微笑んで答えた。
「その時が来たら、ええ、きっと」
彼の声には焦りはなく、大人の余裕が感じられた。
ルビーは気づかぬうちに彼のことが気になり始めているのかもしれない。
彼女はふとした瞬間に思う。「こんなにも穏やかに、心を揺らす人がいたかしら」と。
かつての婚姻は、義務と役割に縛られていた。ライアンは自由な人だった。領地経営や、家政などの執務はもちろん、貴族としての付き合いや侯爵家の親戚との会合もルビーひとりでこなしていた。
今、目の前にあるのは、自分の意志で選ぶ自分だけの未来である。
白い薔薇が咲き誇る庭の奥、午後の陽だまりの中で、ルビーはそっと微笑んだ。
過去は静かに幕を下ろし、未来は穏やかに始まりつつある。
ある午後、陽の傾き始めた庭で、ルビーは小さなシャベルを手にしていた。
隣には、袖をまくり上げたセドリックが、軽く土を掘り返している。
午後の光の中、彼らは白い薔薇をひと株そっと庭に植えた。
土に触れた手がふと重なり、ふたりの間に小さなぬくもりが生まれる。
静かに揺れる花びらのそばで、重なる影がひとつになっていった。
新しい季節が、静かに始まろうとしていた。
一方その頃、かつてネイル侯爵家に名を連ねた男は、村外れの畑で土にまみれて働いていた。
横には、赤子を背負ったナタリーの姿があった。彼女は収穫したじゃがいもが詰まった袋を抱えている。
誇りも、地位も、そして呼ばれるべき姓すら失い、自分の影を振り返る暇もなく、ただ今日の糧を得るために必死に働いていた。
ルビーが歩むのは、選び取った愛と尊厳に満ちた道。
ライアンがいるのは、選び損ねた代償の、何も変わらない田舎の畑。
かつて交わったふたりの道は、もう、二度と交わることはない。
そしてそれこそが、ふたりが選んだ結末だった。
「ライアンさん、今日もじゃがいもですか?」
「毎日じゃがいもばかり、飽きませんか?」
通りがかった子どもに笑われ、ライアンは曖昧に笑い返した。
それでも、人生は続いていく。誰に何を言われようとも、土だけは裏切らない。
そう信じて、彼は今日もまた、重たい鍬を振り上げた。
――おわり――
新しい屋敷の窓から、朝の光がやさしく差し込んでいる。カップに注がれた紅茶から立ち上る香りが心地よい。
ルビーは静かに椅子に腰をおろし、本のページをめくった。グレイの毛色の猫が足元で丸まり、時折、小さな喉を鳴らしている。
庭では、年若い庭師が春の草花を整えている最中だった。以前の庭に比べればやや狭いものの、シンメトリーで人工的なその造りは近代的で美しかった。
前の屋敷から移動してきた使用人たちも、新しい屋敷に満足しているようだ。
ここには不思議な心地よさがあった。
無駄な贅沢も、誰かの顔色をうかがう必要もない。ただ、自分の呼吸に耳を澄ませながら暮らす時間がある。
ルビーはネイル侯爵として、そのまま家督を守っていた。
表向きの縁談話もあったが、どれも受けなかった。
今のところ、誰かと再婚する予定はない。けれど、彼女はそれを寂しいと思ったことはなかった。
生活は充実しているし、無駄なことを考えずに済むので、ストレスがない生活だった。
午前中は書類の整理と領地管理の報告書に目を通し、午後は教養の時間と、若い令嬢たちの相談に乗ることもあった。
かつての彼女を見習いたいと訪ねてくる令嬢たちに、ルビーは優しく、けれど過度な期待を持たせないように気を配りながら助言していた。
あの頃は、もっと騒がしかった。夫を支え、使用人に目を配り、社交界の視線を受け、立派に妻としての役目も果たさなければならなかった。
けれど今は、自分の歩幅で歩くことができる。
侯爵邸の門前を通る人々は、口をそろえてこう言う。
「やはりネイル侯爵は、美しさと気品を失わない」
「離婚されたとは思えないほどお美しく、そして凛としてお強い方だ」
どのように噂さされても、彼女の心に波紋を投げかけることはなかった。
彼女は何も失ってはいなかった。
むしろようやく、自分だけの時間を得たのだ。
心を乱すものが何もないというのは、こんなにも静かで、幸福なことだったのかと。
その穏やかな横顔に、かつての夫の影は、どこにも映っていなかった。
春の終わり、宮殿からの公式使者が屋敷にやってきた。
「ネイル侯爵様、博物館の運営に関するご相談で、王弟殿下がこの屋敷にお越しになります」
急な知らせに、ルビーは少しだけ眉をひそめた。
王家との付き合いは昔からあったが、今の自分は“侯爵”とはいえ、かつてのように大きな屋敷もなければ、夫もいない。
それでも、過去に住んでいた侯爵邸の話なのだから、断る理由はなかった。
数日後、整えられた応接間に彼は現れた。
王弟、セドリックは、王の弟でありながら政務に距離を置き、長らく外交任務に従事していた人物だった。
貴族社会では“風変わりな王族”として知られていた。
けれど、目の前に立つ彼は、噂とはまるで違っていた。
飾り気のない上質な服、落ち着いた物腰、そして穏やかな眼差し。
彼はルビーを見て、紳士的に挨拶した。
「噂はかねがね。まさか、このように静かな館に、素晴らしく気品のある方がいらっしゃるとは」
「お褒めにあずかり光栄です、殿下。ですが、ここでは、質素こそが美徳にございます」
ルビーが笑うと、セドリックはふっと目を細めた。
その日から、彼は理由をつけて何度も訪ねてくるようになった。
博物館の収蔵品の確認、来館者の動向調査。今後の方針について。
どれもが博物館経営のための相談という名目ではあったが、ルビーには、それらがただの口実にすぎないことが分かっていた。
彼は遠回しな言葉の中に、好意を散りばめていた。
過去を掘り返さず、未来を押しつけず、ただルビーの目を見て話す。
それがどれほど心地よいものか、彼女は日ごとに知っていく。
ある日、彼は白い薔薇の鉢を持って屋敷に現れた。
「これは、あなたの庭に似合いそうだと思って持ってきた。花言葉、ご存知ですか?」
ルビーは笑って頷いた。
「尊敬と新たな始まり……だったかしら」
「そうです。もし良ければ、今度は私の屋敷の庭に合う花を、あなたが選んでほしい」
一瞬、どういう意味かと考えた。
けれど、ルビーはすぐに微笑んで答えた。
「その時が来たら、ええ、きっと」
彼の声には焦りはなく、大人の余裕が感じられた。
ルビーは気づかぬうちに彼のことが気になり始めているのかもしれない。
彼女はふとした瞬間に思う。「こんなにも穏やかに、心を揺らす人がいたかしら」と。
かつての婚姻は、義務と役割に縛られていた。ライアンは自由な人だった。領地経営や、家政などの執務はもちろん、貴族としての付き合いや侯爵家の親戚との会合もルビーひとりでこなしていた。
今、目の前にあるのは、自分の意志で選ぶ自分だけの未来である。
白い薔薇が咲き誇る庭の奥、午後の陽だまりの中で、ルビーはそっと微笑んだ。
過去は静かに幕を下ろし、未来は穏やかに始まりつつある。
ある午後、陽の傾き始めた庭で、ルビーは小さなシャベルを手にしていた。
隣には、袖をまくり上げたセドリックが、軽く土を掘り返している。
午後の光の中、彼らは白い薔薇をひと株そっと庭に植えた。
土に触れた手がふと重なり、ふたりの間に小さなぬくもりが生まれる。
静かに揺れる花びらのそばで、重なる影がひとつになっていった。
新しい季節が、静かに始まろうとしていた。
一方その頃、かつてネイル侯爵家に名を連ねた男は、村外れの畑で土にまみれて働いていた。
横には、赤子を背負ったナタリーの姿があった。彼女は収穫したじゃがいもが詰まった袋を抱えている。
誇りも、地位も、そして呼ばれるべき姓すら失い、自分の影を振り返る暇もなく、ただ今日の糧を得るために必死に働いていた。
ルビーが歩むのは、選び取った愛と尊厳に満ちた道。
ライアンがいるのは、選び損ねた代償の、何も変わらない田舎の畑。
かつて交わったふたりの道は、もう、二度と交わることはない。
そしてそれこそが、ふたりが選んだ結末だった。
「ライアンさん、今日もじゃがいもですか?」
「毎日じゃがいもばかり、飽きませんか?」
通りがかった子どもに笑われ、ライアンは曖昧に笑い返した。
それでも、人生は続いていく。誰に何を言われようとも、土だけは裏切らない。
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――おわり――
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