双花 夏の露

月岡 朝海

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 その夜の道中を境に、広年はぱたりと姿を見せなくなった。描いていたはずの稲尾の浮世絵も、一向に出回らない。風の噂によると、駆け出しの頃から懇意にして貰っていた版元の逆鱗に触れて、仕事が回って来なくなったらしい。横柄な口を利いたとか、酒を呑み過ぎて暴れたとか、以前出したものとと全く同じ構図を描いたとか、色々言われていたが何が真実か定かではない。けれどどれも有り得そうに思えて、悪いと感じつつも稲尾の口許は緩んでしまうのだった。
 見世の中には頻繁にうろついていた広年が顔を出さなくなったことを心配する女郎もちらほら居たが、稲尾はさして悪く捉えてはいなかった。きっとまた現れる。裏付けなど無いが、何故か勘がそう告げるのだった。




 その日は昼前から俄かに曇り出し、雷鳴と共に大粒の雨が降り注いだ。空はもう夜と見紛うほどに暗く、夏の終わりを思わせる。
 花魁は昼見世には出ないので、稲尾は自室で妹の新造や禿らと時を過ごすことにした。
「稲妻紋の花魁とご一緒だと、守ってもらえるような気がしんす」
 暗い空を見上げる新造の言葉に、幼い禿も頷く。平稲妻の紋は稲尾という名に因んで見世から宛がわれたもので雷避けの効果があるかどうか分からぬが、そうやって慕ってくれる心は嬉しいと思うのだった。この吉原という苦海で知り合ったのも何かの縁、自分が姉花魁からして貰ったように、自分も妹たちに色々教えていきたいと、稲尾は常日頃考えている。
「花魁」
 見世の若い衆の亮芳あきよしが、障子を開けて呼び掛ける。顔を向けると、稲尾は驚きに眸を見開いた。
 そこには、驟雨に濡れた広年が立っていたのだった。


「随分お久し振りでありんすな」
 屏風を立て人払いした部屋で、箪笥から出した単衣の着物を濡れ鼠の広年に手渡す。牡丹柄のそれは男の白い肌に妙に映えて、可笑しかった。
 広年は正座から足を崩さぬまま、俯きがちに黙る。ふた月ほど姿を見ぬ間に、少し頬がこけたように思えた。仕事が回って来なくなったという噂は本当のようだ。その証拠に、見世は酒も出さない。金も取らずに見世に上げたのが、散々絵を依頼した最後の義理なのだろう。
「どうしんした?」
 脇に置かれた徳利に手を付けぬ広年に、猪口を差し出す。おずおずと受け取ったそれに、稲尾は酒を注いでやる。ふた月前はあんな気軽に強請っていた花魁からの奢り物だというのに。
「ああ駄目だ、全部失くなっちまった」
 猪口の酒を一気に呑み干した広年は、大きな溜め息と共にそう吐いた。
「罰が当たったんでありんしょう」
 稲尾は煙管を咥えて、煙草盆から火種を取る。広年はせやな、と口の端に自嘲を浮かべた。
「……今更詫びても、あの花魁は許してくれねえよな」
 長い睫毛を伏せたまま、重い声がぼそりと呟いた。


 今この見世の番付最上位は二人で、その内の一人が稲尾である。もう一人は津村つむら花魁という。津村は口八丁でのし上がった花魁だと専らの評判だが、その印象を知らしめた事件があった。長年面倒を見て貰っていた姉女郎である浜風はまかぜ花魁の馴染み客を寝取ったと、浮世絵に描かれたのだ。それを描いた絵師が、他でもない広年である。けれどそれは絵師として名を上げたかった広年が、面白おかしく描き立てたにすぎない。本人に尋ねた訳でも、褥に聞き耳を立てていた訳でもないのだから。
 そしてこの男は、吉原の前代未聞の醜聞を絵にしてから、売れっ子と呼ばれるようになった。
「……あれは、浜風花魁に頼まれた話か? 何も聞いてねえのか、お前も同部屋だったんだろ」
 正座を崩さぬ広年が、上目遣いで慎重に尋ねる。窓の外は雷光で俄かに瞬き、遅れて轟きが耳を裂いた。稲尾は身動ぎもせず、男の顔をじっと見詰め返す。
 浜風花魁は津村の姉であり、また稲尾の姉でもある。二人は禿の時分から同じ部屋で花魁の薫陶を受けて育った、言わば朋輩だ。
「さぁ」
 稲尾は素知らぬ貌で、ふうっと煙管を燻らした。

「浜風花魁は、あの検校と懇意だったな」
「あい、それは」
 浜風花魁には長年の馴染みである松本まつもとという検校がおり、傍目から見ても花魁は検校に一番気を許しているように感じられた。けれど花魁には当然ながら他にも大尽と呼ばれる上客が何人もおり、その中でも一番羽振りが良かったのが、津村が『寝取った』と言われる客だ。登楼の度に「身請けしたい」と口説きながら、花魁の手を握っていた。当然ながら吉原の女郎は「売り物」で、当人の心よりも詰まれた金が行く末を決める。あの客さえ片付けば――妹である稲尾は、歯痒く思ったこともある。けれどそんな話を誰かとしたかなど、最早思い出すこともない。
「俺のことなんて言えねえじゃねぇか」
 手酌で注いだ酒に口を付けながら、広年は口の端に薄い笑いを浮かべる。

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