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19_涙
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目を開けると、何時もより目線が低いことに気付いた。祈里が周囲を見渡すと、周囲が広い草原であることが分かる。ああ、これは何時もの夢だと、祈里は思った。
悪夢にうなされなくなった夜から見るようになったこの夢は、祈里が神帝になる前の子供の頃の記憶だった。最初は一体何なのか分からなかったが、何度も見るうちに自然にこの夢が過去の自分の事なのだと受け入れるようになった。覚えていないはずなのにどこか懐かしいこの夢を見ることが、祈里の密かな楽しみになっていた。
だが今日の夢は何やら何時もと違うようだ。何時もの夢は優しい母親と軍人の父親と過ごす幸せな場面ばかりだったが、今日は何か悲痛な雰囲気が漂っている。今にも雨が降り出しそうな曇天のもと、黒い服を着た母親が草原に立っている。その足元には大きな箱の様なものが置かれていた。
少年姿の祈里がその木箱に近づこうとした時、その光景を少年の中で眺めることしか出来ない祈里は気付いた。あの木箱は、戦場に立っていた祈里には見慣れたものだった。
少年が箱を覗くと、中にはボロボロになった刀と軍服が入っていた。刀は傷だらけで、軍服は所々焼け焦げてなくなっている。そして、軍服の首元には赤黒い大きなシミがべったりと染み付いていた。木箱の中には刀と軍服の他にもいくつか私物と思われる小物も入っていた。煙草や懐中時計等が綺麗に並べられており、一番端には皺が伸ばされた痕がある家族写真が置かれていた。
「お母さん、これ何?」
子供らしい敏感さで、この木箱に入っているものが父親のものだと少年は気付いていた。だが、少年は母親に聞かずにはいられなかった。
記憶を追想しているだけで身体の無いはずの祈里も、その光景に血の気が引く様な眩暈を覚えた。
「お父さんが帰ってきたのよ」
そう言った母親は、木箱に向かって少しの間祈るような姿勢をとると、スカートのポケットからマッチ箱を取り出した。そして、火をつけたマッチを躊躇なく木箱に投げ入れる。途端に火が木箱の中を包み込み、二人の目の前にごうごうと火の手が上がった。母親は特に涙を流す様子もなく、ただ無表情にその炎を見詰めている。
その光景に、祈里は思わず息を呑んだ。そして、自分の横に立っている母親を見詰める。
この帝国では火葬が一般的な葬儀方法だった。何かしらの理由で死体が遺族に引き渡せない場合は、こうやって遺留品を詰めた木箱を代わりに燃やす。死体が行方不明になったり破損状態が酷いことが多々ある前線では、この木箱が使われることは少なくなかった。
「お母さんは悲しくないの?」
父親が亡くなったという実感よりも、母親が迷いなく父親だったものを燃やしたという事実に打ちひしがれている少年は、涙を流す間もなく、呆然と母親に尋ねた。
「ええ」
母親の答えに、少年はただただ信じられない思いでその場に立ち尽くした。母親は不気味なほど何時もと変わらない様子だった。
「だって、お父さんは神帝さまの導いた戦場で死んだのよ」
ごうごうと爆ぜる炎の音に交じって、母親の声が聞こえる。
「その戦場でお父さんが死ぬことは、神様が定めた正しいことだったのよ」
母親の言葉を、少年は理解出来なかった。
炎が上がって暫く経った頃、母親は木箱に蓋をして火を消した。木箱は真っ黒になっており、もう中に入っていたものは燃え尽きてしまったことが分かる。
「明日また取りに来ましょう」と、母親が少年の手を取って家のある方向に歩き出す。煤によって真っ黒になった少年の頬には、くっきりと涙の痕が残されていた。すっかり放心している少年は、引きずられるように家の前まで連れてこられる。
母親が家のドアを開けようとした時、人形のようだった少年が口を開いた。
「神様のせいでお父さんが死んじゃったなら、僕は神様なんていらない」
少年の言葉に、母親はピタリと動きを止めるとその場でゆっくりと振り返った。その表情は、少年が今まで一度も見たことが無い形相だった。
母親は少年を暫くの間見下ろすと、不意に少年に向かって大きく手を振り上げた。
***
「―っ!」
がばっとベッドから身を起こす。子供より大きくなった自分の手を見て、祈里は自分が夢から目が覚めたことに気付いた。先ほど見た夢のショックで呆然としていると、不意に水滴が手の甲に落ちてきた。頬に手を当てると、そこにはまるで夢の中の少年のように涙が伝った痕がはっきりと残っていた。
自分が泣いていることを自覚した途端、祈里は身を屈めて嗚咽を漏らした。感情が整理できず、ただただ涙が流れる。父親が亡くなった悲しみも、母親に頬を打たれた痛みも、そして自分が神帝になっている虚しさも、全てが濁流のように押し寄せた。
どうして、どうして今まで自分は忘れていたんだろう。こんなにも、自分は神の事を憎んでいたことを。
どうして、自分は今神帝なのだろう。
どうして、神帝である自分は生きているんだろう……。
***
「よく眠れなかったようですね」
隣に座っているルイゼオの言葉に、祈里は出来るだけ青い顔色が目立たないように微笑みを返した。
祝賀パーティーの翌日、神前試合が行われる決闘場にルイゼオと共にやってきた祈里は、特別席で試合の開会式を眺めていた。決闘場と呼ばれるこの場所は、帝都の近くにある森の中に作られたもので、神前試合を行うために作られた建物である。建物と言っても戦う場所である舞台と、その周囲に来賓用の簡易的な天蓋があるだけの質素なものである。
「ええ……少し、夢見が悪くて」
ルイゼオが「無理をなさらないで下さい」と気遣ってくれたが、祈里の気持ちは一向に晴れることが無かった。祈里の心残りは今朝の夢だけではなく、試合が始まる前に柊から受けた報告のせいでもある。
『申し訳ありません。主犯を取り逃しました』
そう言って頭を下げる柊を「気にするな」と労いながら、祈里は残念に思う気持ちを拭えなかった。柊と朝日のお陰でパーティー中の襲撃を防ぐことは出来たが、主犯が捕まらなかったとなるとまた近いうちに何か仕掛けて来る可能性が高い。調印式が三日後というこの慎重にならざるをおえない状況で、この不安を抱き続けなくてはいけないのは避けたかった。
そして、主犯の正体も分からなかったのは致命的なミスだった。せめて、正体さえ分かれば手の打ちようもあったのだが、分からなければ祈里にはどうしようも出来ない。それに、柊の報告にどこか違和感があったことも気にかかる。捕まえた実行犯たちが主犯について何も覚えていなかったこともおかしい。記憶を操作する異能が使われた可能性が高いが、余程の異能者でない限りあの人数に一斉に異能を使うなど出来ることではない。それこそ、言葉通り神業である。
「私としては身内贔屓で申し訳ないですが、やはりクリスティアナを応援したいところですね。陛下は誰か応援されますか」
「ああ……そうですね」
ルイゼオの言葉に、思考に沈んでいた祈里は現実に引き戻された。舞台では出場する帝国の軍人や聖国の騎士が並んで正々堂々戦うことを誓っている。その中にはもちろんクリスの姿もあった。相変わらず青い騎士服がよく似合うその姿は、絵本に出て来る理想の王子様のようだ。クリスの陽の光を反射して輝く黄金の髪を、澄み渡る青空の様な瞳を、祈里はじっと見詰めた。
「私も、クリスティアナ皇子に優勝して欲しいです」
そして、母国に帰って幸せに生きて欲しい。ずきりと胸が痛んだが、それでもその言葉は祈里の本心であった。
「陛下、宣誓を」
その時、傍に控えていた夜月が祈里に向かって舞台を示した。祈里は軽く頷くと、立ち上がって舞台に上がった。舞台に並んでいた戦士たちが祈里に向かって一斉に跪く。彼らを一瞥し、祈里は舞台の端に置かれている小さな鳥居に向かった。鳥居の向こうには古い大木が立っている。神を模ることを許されていないこの国では、神の像などは存在しない。その代りに、神代からある古い自然のものに神は宿っているという考えからこのような大木を祀るのだ。鳥居の前に跪き、祈里は首を垂れる。
神前試合であるこの大会は、勝者に祝福が与えられる。神帝は神の代行者として、勝者のどんな願いも叶えなければならない。それ故に、試合前にこうして神帝も神に対して宣誓を行わなければならないのだ。
「偉大なる我らが守護者、無窮神よ」
視線を下げたまま、祈里は言葉を紡ぐ。まるでその言葉に応えるように、一陣の風が吹いて大木の枝を揺らした。神に対して跪く神帝の姿を、人々は滅多に見ることが出来ない。大木に跪く祈里の姿は、神話に語られる神の降臨を待つ祈り子そのものだ。美しく幻想的なその光景に、その場にいた人々は息を呑んだ。
「神の代行者として、桜持祈里はこの試合の勝者を見届ける」
だが、そんな人々のうっとりするような眼差しとは正反対に、祈里はまるで首を絞められているような苦しさを覚えていた。
「我らは貴方様の庇護の翼に在る者」
言葉を紡ぐ自分の口が、機械的に動く。口から出ている言葉は、祈里の心を虚しさで埋め尽くした。祈里の脳裏に浮かんでいたのは、今朝見た夢の少年の姿だった。神の存在を否定したあの少年の気持ちは、今の祈里にも残っている。記憶そのものは覚えていなくとも、感情だけは自分の奥底に残り、夢で見たことをきっかけに蘇ったのだ。
「どうか、我らを」
祈里の胸にあるのは、神への疑問ばかりだ。どうして自分がこうして神に跪いているのか。どうして神の庇護を受けなければならないのか。
「愛し、お守りください」
どうして、父の死を悲しむことさえ神は奪ったのか。
***
「愛し、お守りください」
そう言った祈里の声に、舞台上にいたクリスは僅かに視線を上げた。誰も気づいていないようだったが、クリスだけは祈里の僅かな変化に気付いていた。祈里の声が何時もより冷たいことに。
宣誓を終えた祈里は立ち上がり、元いた特別席へと戻って行く。式典用の服である長い裾を翻して歩くその姿は、神の代行者と言われても納得できるほど人間離れした神々しさと美しさである。その場にいる全員が、祈里の姿に釘付けだった。その美しさを間近で見てきたクリスでさえ、今日の祈里の姿は光を纏っているかの如く輝いていた。神帝の式典服である真っ白な着物に身を包んだ祈里の姿は、この世の潔白さと清廉さを全て集めたかのような清純さを醸し出していた。
だが、クリスはその真っ白な服とは正反対に、硬い表情をしている祈里に気付いた。恐らく周囲にいる誰も気付いていないだろう。きっと本人さえも気付いていない。今まで誰よりも近くで祈里の様々な表情を知っているクリスだからこそ分かる表情だった。
あれは、まるで家族の仇を見つけたような、そんな激情を隠している表情だ。
クリスは自身の腰に差している聖剣にそっと触れた。クリスは知っている。祈里さえ忘れてしまった祈里の悲しみを。そして、祈里の望みを叶えられるのはこの世界で自分だけだということも、クリスはずっと昔から分かっていた。
悪夢にうなされなくなった夜から見るようになったこの夢は、祈里が神帝になる前の子供の頃の記憶だった。最初は一体何なのか分からなかったが、何度も見るうちに自然にこの夢が過去の自分の事なのだと受け入れるようになった。覚えていないはずなのにどこか懐かしいこの夢を見ることが、祈里の密かな楽しみになっていた。
だが今日の夢は何やら何時もと違うようだ。何時もの夢は優しい母親と軍人の父親と過ごす幸せな場面ばかりだったが、今日は何か悲痛な雰囲気が漂っている。今にも雨が降り出しそうな曇天のもと、黒い服を着た母親が草原に立っている。その足元には大きな箱の様なものが置かれていた。
少年姿の祈里がその木箱に近づこうとした時、その光景を少年の中で眺めることしか出来ない祈里は気付いた。あの木箱は、戦場に立っていた祈里には見慣れたものだった。
少年が箱を覗くと、中にはボロボロになった刀と軍服が入っていた。刀は傷だらけで、軍服は所々焼け焦げてなくなっている。そして、軍服の首元には赤黒い大きなシミがべったりと染み付いていた。木箱の中には刀と軍服の他にもいくつか私物と思われる小物も入っていた。煙草や懐中時計等が綺麗に並べられており、一番端には皺が伸ばされた痕がある家族写真が置かれていた。
「お母さん、これ何?」
子供らしい敏感さで、この木箱に入っているものが父親のものだと少年は気付いていた。だが、少年は母親に聞かずにはいられなかった。
記憶を追想しているだけで身体の無いはずの祈里も、その光景に血の気が引く様な眩暈を覚えた。
「お父さんが帰ってきたのよ」
そう言った母親は、木箱に向かって少しの間祈るような姿勢をとると、スカートのポケットからマッチ箱を取り出した。そして、火をつけたマッチを躊躇なく木箱に投げ入れる。途端に火が木箱の中を包み込み、二人の目の前にごうごうと火の手が上がった。母親は特に涙を流す様子もなく、ただ無表情にその炎を見詰めている。
その光景に、祈里は思わず息を呑んだ。そして、自分の横に立っている母親を見詰める。
この帝国では火葬が一般的な葬儀方法だった。何かしらの理由で死体が遺族に引き渡せない場合は、こうやって遺留品を詰めた木箱を代わりに燃やす。死体が行方不明になったり破損状態が酷いことが多々ある前線では、この木箱が使われることは少なくなかった。
「お母さんは悲しくないの?」
父親が亡くなったという実感よりも、母親が迷いなく父親だったものを燃やしたという事実に打ちひしがれている少年は、涙を流す間もなく、呆然と母親に尋ねた。
「ええ」
母親の答えに、少年はただただ信じられない思いでその場に立ち尽くした。母親は不気味なほど何時もと変わらない様子だった。
「だって、お父さんは神帝さまの導いた戦場で死んだのよ」
ごうごうと爆ぜる炎の音に交じって、母親の声が聞こえる。
「その戦場でお父さんが死ぬことは、神様が定めた正しいことだったのよ」
母親の言葉を、少年は理解出来なかった。
炎が上がって暫く経った頃、母親は木箱に蓋をして火を消した。木箱は真っ黒になっており、もう中に入っていたものは燃え尽きてしまったことが分かる。
「明日また取りに来ましょう」と、母親が少年の手を取って家のある方向に歩き出す。煤によって真っ黒になった少年の頬には、くっきりと涙の痕が残されていた。すっかり放心している少年は、引きずられるように家の前まで連れてこられる。
母親が家のドアを開けようとした時、人形のようだった少年が口を開いた。
「神様のせいでお父さんが死んじゃったなら、僕は神様なんていらない」
少年の言葉に、母親はピタリと動きを止めるとその場でゆっくりと振り返った。その表情は、少年が今まで一度も見たことが無い形相だった。
母親は少年を暫くの間見下ろすと、不意に少年に向かって大きく手を振り上げた。
***
「―っ!」
がばっとベッドから身を起こす。子供より大きくなった自分の手を見て、祈里は自分が夢から目が覚めたことに気付いた。先ほど見た夢のショックで呆然としていると、不意に水滴が手の甲に落ちてきた。頬に手を当てると、そこにはまるで夢の中の少年のように涙が伝った痕がはっきりと残っていた。
自分が泣いていることを自覚した途端、祈里は身を屈めて嗚咽を漏らした。感情が整理できず、ただただ涙が流れる。父親が亡くなった悲しみも、母親に頬を打たれた痛みも、そして自分が神帝になっている虚しさも、全てが濁流のように押し寄せた。
どうして、どうして今まで自分は忘れていたんだろう。こんなにも、自分は神の事を憎んでいたことを。
どうして、自分は今神帝なのだろう。
どうして、神帝である自分は生きているんだろう……。
***
「よく眠れなかったようですね」
隣に座っているルイゼオの言葉に、祈里は出来るだけ青い顔色が目立たないように微笑みを返した。
祝賀パーティーの翌日、神前試合が行われる決闘場にルイゼオと共にやってきた祈里は、特別席で試合の開会式を眺めていた。決闘場と呼ばれるこの場所は、帝都の近くにある森の中に作られたもので、神前試合を行うために作られた建物である。建物と言っても戦う場所である舞台と、その周囲に来賓用の簡易的な天蓋があるだけの質素なものである。
「ええ……少し、夢見が悪くて」
ルイゼオが「無理をなさらないで下さい」と気遣ってくれたが、祈里の気持ちは一向に晴れることが無かった。祈里の心残りは今朝の夢だけではなく、試合が始まる前に柊から受けた報告のせいでもある。
『申し訳ありません。主犯を取り逃しました』
そう言って頭を下げる柊を「気にするな」と労いながら、祈里は残念に思う気持ちを拭えなかった。柊と朝日のお陰でパーティー中の襲撃を防ぐことは出来たが、主犯が捕まらなかったとなるとまた近いうちに何か仕掛けて来る可能性が高い。調印式が三日後というこの慎重にならざるをおえない状況で、この不安を抱き続けなくてはいけないのは避けたかった。
そして、主犯の正体も分からなかったのは致命的なミスだった。せめて、正体さえ分かれば手の打ちようもあったのだが、分からなければ祈里にはどうしようも出来ない。それに、柊の報告にどこか違和感があったことも気にかかる。捕まえた実行犯たちが主犯について何も覚えていなかったこともおかしい。記憶を操作する異能が使われた可能性が高いが、余程の異能者でない限りあの人数に一斉に異能を使うなど出来ることではない。それこそ、言葉通り神業である。
「私としては身内贔屓で申し訳ないですが、やはりクリスティアナを応援したいところですね。陛下は誰か応援されますか」
「ああ……そうですね」
ルイゼオの言葉に、思考に沈んでいた祈里は現実に引き戻された。舞台では出場する帝国の軍人や聖国の騎士が並んで正々堂々戦うことを誓っている。その中にはもちろんクリスの姿もあった。相変わらず青い騎士服がよく似合うその姿は、絵本に出て来る理想の王子様のようだ。クリスの陽の光を反射して輝く黄金の髪を、澄み渡る青空の様な瞳を、祈里はじっと見詰めた。
「私も、クリスティアナ皇子に優勝して欲しいです」
そして、母国に帰って幸せに生きて欲しい。ずきりと胸が痛んだが、それでもその言葉は祈里の本心であった。
「陛下、宣誓を」
その時、傍に控えていた夜月が祈里に向かって舞台を示した。祈里は軽く頷くと、立ち上がって舞台に上がった。舞台に並んでいた戦士たちが祈里に向かって一斉に跪く。彼らを一瞥し、祈里は舞台の端に置かれている小さな鳥居に向かった。鳥居の向こうには古い大木が立っている。神を模ることを許されていないこの国では、神の像などは存在しない。その代りに、神代からある古い自然のものに神は宿っているという考えからこのような大木を祀るのだ。鳥居の前に跪き、祈里は首を垂れる。
神前試合であるこの大会は、勝者に祝福が与えられる。神帝は神の代行者として、勝者のどんな願いも叶えなければならない。それ故に、試合前にこうして神帝も神に対して宣誓を行わなければならないのだ。
「偉大なる我らが守護者、無窮神よ」
視線を下げたまま、祈里は言葉を紡ぐ。まるでその言葉に応えるように、一陣の風が吹いて大木の枝を揺らした。神に対して跪く神帝の姿を、人々は滅多に見ることが出来ない。大木に跪く祈里の姿は、神話に語られる神の降臨を待つ祈り子そのものだ。美しく幻想的なその光景に、その場にいた人々は息を呑んだ。
「神の代行者として、桜持祈里はこの試合の勝者を見届ける」
だが、そんな人々のうっとりするような眼差しとは正反対に、祈里はまるで首を絞められているような苦しさを覚えていた。
「我らは貴方様の庇護の翼に在る者」
言葉を紡ぐ自分の口が、機械的に動く。口から出ている言葉は、祈里の心を虚しさで埋め尽くした。祈里の脳裏に浮かんでいたのは、今朝見た夢の少年の姿だった。神の存在を否定したあの少年の気持ちは、今の祈里にも残っている。記憶そのものは覚えていなくとも、感情だけは自分の奥底に残り、夢で見たことをきっかけに蘇ったのだ。
「どうか、我らを」
祈里の胸にあるのは、神への疑問ばかりだ。どうして自分がこうして神に跪いているのか。どうして神の庇護を受けなければならないのか。
「愛し、お守りください」
どうして、父の死を悲しむことさえ神は奪ったのか。
***
「愛し、お守りください」
そう言った祈里の声に、舞台上にいたクリスは僅かに視線を上げた。誰も気づいていないようだったが、クリスだけは祈里の僅かな変化に気付いていた。祈里の声が何時もより冷たいことに。
宣誓を終えた祈里は立ち上がり、元いた特別席へと戻って行く。式典用の服である長い裾を翻して歩くその姿は、神の代行者と言われても納得できるほど人間離れした神々しさと美しさである。その場にいる全員が、祈里の姿に釘付けだった。その美しさを間近で見てきたクリスでさえ、今日の祈里の姿は光を纏っているかの如く輝いていた。神帝の式典服である真っ白な着物に身を包んだ祈里の姿は、この世の潔白さと清廉さを全て集めたかのような清純さを醸し出していた。
だが、クリスはその真っ白な服とは正反対に、硬い表情をしている祈里に気付いた。恐らく周囲にいる誰も気付いていないだろう。きっと本人さえも気付いていない。今まで誰よりも近くで祈里の様々な表情を知っているクリスだからこそ分かる表情だった。
あれは、まるで家族の仇を見つけたような、そんな激情を隠している表情だ。
クリスは自身の腰に差している聖剣にそっと触れた。クリスは知っている。祈里さえ忘れてしまった祈里の悲しみを。そして、祈里の望みを叶えられるのはこの世界で自分だけだということも、クリスはずっと昔から分かっていた。
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