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 水鐘琴音みかねことねは類いまれなる美貌を持っている。
 明晰な頭脳を持ち、天使のような歌声を持ち、画才にも恵まれており、強運に恵まれた、旧家で裕福な家の令嬢である。
 ただ、異常なまでに非力で脆弱で、何かをするための気力と言うものが著しく欠如している。

「はぁ、お茶が美味しいですわ」
「琴音様、お茶はいいのだけれども、夏季休暇前のサマーパーティーの予算企画書の作成は」
「もう出来てそちらのデスクに置いておりますわ、美波お姉様」
「あら、いつもこのぐらいやる気を出してくれるといいのだけれど」
「遠慮しますわ。こうして学園に来てSAとしてサロンに顔を出しているだけ褒めていただきたいですわ」
「ええそうね。けれども琴音様がいなければSAの仕事に著しく支障が出てしまうのよ」
「はあ」
「琴音お姉様、このオランジェットも召し上がってくださいな」
「ありがとう、桐子様」

 薔薇学園そうびがくえん、それは旧家や名家を始めとする政財界の子女が多く通う中高一貫教育の場であり、同時に優秀な成績を収めた生徒も受け入れるというまさに将来の為への学問と社交に特化した学園である。
 この学園には生徒会と言うものは存在せず、特に成績優秀な者による統治運営が行われており、彼らはSAスペシャルエーと呼ばれ全校生徒の注目を集める存在である。
 しかし、性能が優秀であることと性質が優秀であることはイコールではない。
 今代のSAが誰もが曲者揃いという事を知っているのはSAに所属している者だけである。
 各学年から一名ずつが集められた全六名、その全員がその見た目と成績にそぐわず一癖も二癖もある事はうまいこと隠されている。
 もちろん、今琴音と一緒に居る美波も桐子も、そして黙って紅茶を飲んでいる汐里もその性格に難点がある。

「それにしても、高等部に編入してきたえっと」
佐伯蘭子さえきらんこ様よ」
「そう、その蘭子様は編入してから随分やらかしてくれていますよね。中等部の私の所まで噂が流れて来ていますよ」
「そうねえ、学生IDによるランク分けされている施設への立ち入り制限を無視しての出入り、それだけではなくその施設内における秩序を乱す行為、再三における注意にも耳を貸さず、高位の子息を誑かしてやりたい放題。琴音様も何度も注意していたわよね」
「ええ、注意したら『あたしをそうやって虐めるんですか』『あたしが皆から注目を集めているから嫉妬しているんですね』『あたし、何も悪い事なんてしていないのに、酷い』等々、小学低学年の子供を相手にした方がまだまともな話し合いができるのではないかと思えるほどですわ」
「大変ですね、琴音お姉様。中等部の私に出来ることがあれば協力しますよ」
「ありがとう。問題は、悠人様達もその蘭子様に随分ご執心という事ですわね」
「琴音様の婚約者だというのに悠人様にも困ったものね。彼ってば、SAの仕事も疎かにして蘭子様にかまけているのだもの、こちらの仕事が増えてしまって困ってしまうわ」
「浮気を理由に婚約破棄をしてしまえばよろしいのでは?」
「汐里様、そう簡単に婚約破棄出来るのならしておりましてよ。婚約破棄というのはそう簡単に出来るものではございませんのよ」
「大変よね」
「全くですわ」

 今この場に居るのはSAに所属する女性ばかり四名。
 高等部二年柳雪美波やなぎゆきみなみ、高等部一年水鐘琴音、中等部二年二条院桐子にじょういんきりこ、中等部一年生馬汐里いくましおり
 そしてこの場にいない高等部三年六角悠人ろっかくゆうと、中等部三年諏訪雅也すわまさやは蘭子にご執心と言われている子息の中に含まれている。
 彼らがSAの仕事をさぼっているため、本来仕事をさぼってだらだらとしていたい琴音も働かなくてはいけないのだ。
 オランジェットを咀嚼した琴音は見ているのが美波達とこのサロン付きの職員だけだという事もあり、アンティークのソファーに一人で座りだらりと体を崩している。
 とてもではないがSAに憧れている他の生徒に見せられる姿ではない。
 それにしても、と琴音は今頃自分達に仕事を押し付けて蘭子のご機嫌取りをしているであろう悠人達の事を考えて一つため息を吐き出す。

「あら、ため息なんて幸せが逃げてしまうわよ」
「今のこの状況が不幸以外の何ものでもありませんよ、美波お姉様」
「琴音お姉様は仕事なんてしたくないのですよね。でも、高等部一年の学年トップという成績は変えられませんし、SAの中でも最も家格が高いのですし、SAから抜けたかったら来年の成績を下げるしかないですね」
「それは無理ね。家から何を言われるかわからないし、今以上にお稽古事を増やされたらかなわないわ」
「旧家のご令嬢も大変ですね、琴音お姉様」
「汐里さんだって特別特待生の地位を確保し続けるために毎月行われる定期テストで三位以内から落ちるわけにはいかないのでしょう? それはそれで大変だと思うわ」
「私には勉強だけが取り柄ですから。それに、小さなころからこの学園に通う事に憧れていたんです。夢がかなって嬉しいですよ」
「汐里さんは偉いわね」

 琴音は手を組んで前にぐっと手を伸ばすとそのままその手を上に持っていく。
 そのタイミングで職員が紅茶を淹れなおしたので、琴音は組んでいた手を解くと紅茶の注がれたティーカップに薔薇ジャムを落としてティースプーンでかき混ぜてから口をつける。

「そうそう、サマーパーティーの時はSAの私達は主催者として運営する予定だけれど、彼らはちゃんと働いてくれるかしら?」
「働いてくれるといいですよね。でも、蘭子様に夢中で運営どころじゃなくなってしまうのではないでしょうか?」
「いやね、わたくしの仕事が増えてしまうわ」
「私はサマーパーティーなんておしゃれな催し物は初めてなんですが、どういうものなんですか?」
「入学してすぐに上級生達による歓迎会のパーティーがあったでしょう、あれのちょっと豪華版という所よ。立食形式のダンスパーティーね」
「ダンスの心得なんてありませんよ」
「別に社交ダンスを踊れなんて言わないわ。まあ、フォークダンスはあるけど雰囲気に合わせていればいいのよ。ダンスに無理に参加することもないわ」
「そんなものですか」
「そうよ、だって旧家や名家の子女ならまだしも一般家庭の子女がいきなりダンスを踊れと言っても無理な話でしょう」
「小学校の時にフォークダンスやらはしましたけど、社交ダンスなんてしませんからね」
「やっていたらむしろ驚きね」

 美波はデスクに腰を掛けて、いつの間にか確保していたフィナンシェを口にすると口の端についたカスを指で取りながら笑う。
 琴音の向かいのソファーに並んで座っている桐子と汐里は自分に用意された紅茶を飲みながら、蘭子のせいで増えている仕事に関して想いを馳せて、密やかに日を追うごとに不機嫌になっていく上級生達がこれ以上機嫌が悪くならないことを祈るばかりだ。
 その時、ノックもなくサロンの扉が開き、数日ぶりに悠人と雅也が顔を見せる。

「あら、悠人様に雅也様、ごきげんよう。なんだか久しく顔を見ておりませんでしたけれども、どこぞの雌猫を追いかけるのにさぞかし忙しいのでしょうね」
「蘭子を雌猫なんて言わないでもらおうか、美波様」
「あら、私は別に蘭子様の事を言ったつもりはないのだけれど、思い当たる節があるのかしら」
「美波様、お言葉ですが蘭子さんほど素晴らしい娘はいません」
「そうなの? そのような意見を持っているのは少数派のようだけど、SAのメンバーともあろうものがその少数派なんて嘆かわしい事ね」
「美波様、何が言いたいのかな」
「まあ驚いた。どの口がそのような事を言うのかしら、私も琴音様も再三注意していると思うのだけれど」

 はっきりと不機嫌だとわかる声で美波が言うと、琴音は我関せずという感じにフロランタンに手を伸ばす。
 桐子と汐里は明らかに自分達に向けられていないとわかっているにも関わらず、普段は温厚な美波の怒りに触れて居たたまれない気分になってしまい、このようなことになるのならむしろ悠人と雅也がサロンに顔を出してくれない方がいいのではないかと思ってしまうほどだ。

「身分にそぐわぬ施設に自分勝手な都合で生徒を出入りさせた挙句に秩序を乱し他の生徒へ迷惑をかけている。注意をしても馬の耳に念仏どころか注意をするこちらが悪いという始末。歴史ある六角家や諏訪家の子息がする事とは思えないわね」
「蘭子を貶めるような発言をしている美波様達が悪いと何度言えばわかる。蘭子は旧家や名家出身の令嬢じゃない、一般家庭の娘だ。多少のことに目をつぶるのも上位に立つ者の余裕と言うものだろう」
「多少? 各施設を利用している各生徒の九割以上から文句が出ていることが多少というのかしら」

 美波が冷たい視線を向けて言うと悠人達は気まずそうに視線をそらしたが、すぐに悠人は琴音に視線を向ける。

「そんな事よりも琴音、蘭子から聞いているぞ」
「あら、何を聞いていらっしゃるのですか?」
「蘭子の持ち物をボロボロに壊したり、いわれなき責め苦を浴びせているそうじゃないか」
「覚えがありませんわね」
「お前のような人前で猫を被った女なんかよりも蘭子の方がよほどできた女だという事が気に入らないのだろうが、蘭子にちょっかいをかけるのはやめてもらおうか」
「覚えがないと言ったのが聞こえませんでしたか? そもそもわたくしは悠人様達が抜けた分の仕事を嫌々やるのに忙しいのです、無駄な事に割く気力などありませんね」
「無駄だと! お前は蘭子が無駄だとでもいうのか」
「誰もそのような事を言っていませんが、言葉が通じなくなったのはその蘭子様の影響でしょうか? 悪影響鹿及ぼさない方とお付き合いするのは如何なものかと思いますわ。若気の至りというのにも限界と言うものがありましてよ」
「もう一度言ってみろ。如何に婚約者とはいえ看過できないぞ」
「あらやだ怖い。申し訳ありませんが、お話合いにならない方と話す気力はありませんの」

 琴音はつまらなさそうに言うとティーカップを傾けて底に残っていた薔薇ジャムを飲み込むとチラリと悠人を見て馬鹿にしたように口の端を持ち上げる。

「ああ、でもわたくしの迷惑になるので今行っているような慎みのない行動は控えていただけると助かりますわね」
「迷惑だと? 俺がいつお前に迷惑をかけたというんだ」
「蘭子さんに関する全てがわたくしに直接的及び間接的に迷惑をかけて下りますわよね」

 琴音はわざとらしくため息を吐き出すとティーカップをテーブルの上に戻し、今度はカヌレに手を伸ばす。

「ところで、今日このサロンに顔を出したという事は、これまでサボっていた仕事をするという事でいいのよね?」
「サボっているとは人聞きが悪いな」
「そうですよ美波様。僕達は学園に不慣れな編入生の蘭子さんの面倒を見るというSAとしての仕事を全うしています」
「学園に不慣れな編入生ね。別に蘭子様だけがそうではないと思うのだけれど、貴方達の取っている行動をどう言うかご存じ? 贔屓、というのよ」
「贔屓だと?」
「今まで何度もそう言ってきたはずだけれど、馬の耳に念仏とはこの事ね」

 美波がそう言った時、悠人のスマホが鳴りメッセージを確認した悠人の眉間にしわが寄る。

「おい琴音、どういうことだ」
「いきなりなんですか」
「蘭子の教科書が切り裂かれたそうだ。お前が蘭子の教室から出ていくのを見た生徒もいるそうだぞ」
「で、その目撃されたのはいつの事です?」
「俺達がここに来る前の話だそうだ」
「それで、ずっとここに居たわたくしをどうやって蘭子様の教室から出ていくのを目撃したというのでしょうか」
「仕事をさぼって蘭子の教室に行ったに決まっている」
「話を聞いていまして? わたくしはずっとここに居たと言っておりますのよ。誰かさん達がしない仕事をするために」
「ふん、だらけているだけに見えるがな」
「仕事を終えたのですからわたくしがどうしようと勝手だと思いましてよ」
「俺の婚約者にふさわしくない行動を取るんじゃない」
「では言わせていただきますが、わたくしの婚約者なのですから、他の女性のお尻を追いかけるような真似はおやめになったらいかがです? 他の子息と争ってまで追いかける価値がある娘さんだとは思えませんわ」
「お前のその一般市民を見下した態度はどうにかならないのか」
「勘違いされては困りますね。被害妄想まで伝染してしまうなんて、やはり蘭子様とのお付き合いはおやめになったほうがよろしいのではありませんか?」
「蘭子を馬鹿にするな!」
「でしたら行いを改めるように悠人様からもおっしゃっていただけますか」

 ウェットティッシュで指先をぬぐった琴音はそう言うと立ち上がって美波の横に行くと、まだ未処理の書類を持ち、悠人と雅也に向かってひらひらと差し出す。

「わたくし達はなすべきことをしております。悠人様達もなすべき事をなさったら如何?」
「ふん」

 悠人と雅也はそれぞれ書類を受け取ると個別のデスクに座り黙々とノートパソコンと向き合った。
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