木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

けじめ。

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ジメジメと暑いのに、雨で濡れた指先が冷えている。
「はいどうぞ。」
目の前に差し出されたマグカップを受け取って覗き込むと迫り来る湯気にムワッと顔が包まれた。
深く呼吸をすると甘いカカオの香り。
「ありがとうございます。」
「どういたしまして。ココアちょっと濃いめに入れたから、途中で氷入れてアイスにも出来るからね。」
ここに来るまでもずっと気を遣ってくれている森本先生。
優しい笑顔。
それにいい匂い。
大人で美人なのに可愛いし…。
微笑まれると同じ女なのにちょっとキュンとしてしまう。
物凄く単純で自分でも呆れるけれど、この些細なやり取りでもう警戒心は解けてきている。
「はい、立花君。」
「ありがと…。」
覇気のない亜樹は氷たっぷりのアイスティーを受け取ると枯れた喉から声を絞り出して弱く礼を言う。
森本先生は向かい合う私達から少し離れた場所に椅子を置いて座ると自分用に淹れたコーヒーに口を付け話し始めた。
「私はあなた達が羨ましいよ。ちゃんと二人で始められたから今があるんだもんね…。」
「もりもっちゃん…?」
「私ね初めて彼氏が出来たのは大学院に入ってからだったの。23歳の頃かな?おかしくはないけど…ちょっと遅いよね?…それまではずーっと片思いしか知らないの。」
「「え?」」
二人同時に声を上げた。
「マジで?何で?子供の頃だって森もっちゃんならモテたでしょ?」
亜樹の言葉に私も大きく頷く。
それを受け森本先生は少し困ったような顔をして笑っている。
「ありがとう。でも私大学院に入るまでメイクとか女性としての立ち居振る舞い?とか…全然頑張ってなくてね。大人しい女の子だけのグループで、毎日図書室で本読んでたの。だから男の子と話した事も殆どなかったし、私の事を覚えてないクラスメイトも居たと思う。それくらい地味だったの。」
「えー、でもさ。森もっちゃんくらい可愛かったら、どんなに地味にしてても好きになっちゃう男居たんじゃないの?」
「ふふ、ありがとう。うーん、そうね…。」
一呼吸置いてから膝の上で持っていたマグカップをゆっくりと口に運ぶ。
そのままスーっと微かな吸音をたてコーヒーを啜った。
マグカップに隠れて見えない筈なのに、すぼめられた唇が容易に想像出来て。
それが何だか色っぽくて、そして少しだけ可愛いくもあって。
コーヒーを飲む仕草ひとつとってもこんなに魅力的なのに、その学生時代の話が信じられない。
「高校生の時は細谷さんや立花君みたいなキラキラした子達が怖かった…。ダサいとか暗いと思われるって勝手に勘繰って関わるのが怖くて。」
「キラキラしてないです!」
静かな室内にガタッと椅子が鳴る。
私は立ち上がり大声で否定した。
「亜樹は…そうだと思うけど。私はパッとしないし。それにもし森本先生が同級生でもダサいなんて絶対に思わないです!」
つられて亜樹も立ち上がる。
「はー?咲は完全にキラキラ女子だろ?お前どんだけ自分可愛いか分かってねんだよ。俺は…まあ、そこそこモテるけど…。俺全然勉強出来ないし。口だけってよく馬鹿にされるし…。真面目女子は逆にこっちが馬鹿と思われそうで接し方が分かんねぇのはあるけど。」
「ふふふ。そうなの。キラキラしている人って自分がキラキラしている自覚ないんだよね。」
森本先生は心底楽しそうに笑い出した。
そして私達にまた座るよう促す。
「それにね。今二人が言ってくれたみたいに、傍から見てキラキラしている人も本人にしか分からないコンプレックスとか悩みがあるよね。本当は皆自分の事で一生懸命で、今思えば地味だからって私を馬鹿にする子達なんて居なかったんだろうなって思う。自分が相手からどう思われてるのか勝手に想像して関係を断つなんて、随分自意識過剰だったなって今なら思うよ。」
森本先生は少し遠くを見たまま、またコーヒーに口を付ける。
つられて私もココアを啜った。
前を見ると亜樹もアイスティーを飲んでいて。
その同時にとる行動で3人に一体感が生まれ始めたのを感じる。
「そんな当時の私が好きになったのは安心出来る…自分と似ている、クラスでは大人しいタイプの人だったの。図書室でお互いよく顔を合わせて。教室でもよく目が合って…。お互いに奥手だったからちゃんと話した事も殆どなかったけどね。多分向こうも私の事良く思ってくれてたと思う。それこそ自意識過剰かもしれないけど…。」
ふっと息を吐いて自虐する言い方。
胸がキュッとなった。
境遇は重ならないから共感とは違うのかもしれないけれど。
こんなに大人で素敵な森本先生にもキラキラしていない時期があったと知って、急に親近感が湧いて好きになってしまった。
その好きになった森本先生が自虐的になっているから。
引っ張られて私も苦しくなったんだ。
「その人は、真面目で几帳面な雰囲気なのにね。実際は寝癖そのままとか、靴下が左右違ってたりとか…ふふっ、結構抜けている人でね…。なのに図書室の本は大切に扱うし、人の置いていったゴミまで片付けたり…、丁寧に音がたたないように椅子を戻す仕草とか…。好きだったな。」
膝の上のマグカップに視線を落とし伏せられた瞼。
私は惹き込まれるようにそれを見詰める。
「一回だけその人が私に話し掛けてくれた事があったんだけど…。リスニングの授業が終わって視聴覚室から教室に帰る時、いつも一緒に行動しているグループの子達に先に戻っててって言われたの。だから一番仲の良かった子と二人だけで視聴覚室を出たのね。だけど途中でペンケースを忘れた事に気付いてしまって、私だけ視聴覚室に戻ったら…。ありがちと言うか、案の定と言うか、その時グループの子達が私と先に戻った友人の陰口を言っていたんだよね…。私は入口の前で…中に入れなくて固まっちゃって。そしたら中から急に好きな人が出て来たから、お互いに驚いて一瞬固まっちゃって。その人はサッと目を逸らして廊下を行ってしまったんだ…。残された私は恥ずかしかった。消えたくなった。好きな人に友達たちから悪口言われているのを聞かれて。しかもどうして良いのか分からなくて何も言い返せない所まで見られて。」
伏せたままの目が微かに震えていた。
これは何年も前の思い出話なのに。
森本先生にとっては今でも簡単に笑って話せないくらい大きな出来事だったんだ。
「でもね。そのまま泣きそうになりながら立っていたら『森本さん、ちょっと相談があるんだけど。』って後ろから声がして。振り返ったら一回通り過ぎたはずの好きな人だった。私の為に戻って来てくれたんだよ。それなのに大丈夫?とか気にしないでとかあからさまな言い方じゃなくて。知らない振りして全然別の話題振ってくれて…。『教室戻りながら聞いてくれる?』って、さりげなくその場から離れるようにもしてくれて。しかもね、私の忘れたペンケースも持って来てくれていたの。」
「なんだそれ!めちゃくちゃ良い奴じゃん!」
亜樹が目を輝かせて言った。
会った事のない、名前も知らないその人。
話を聞いているだけなのに、当時の森本先生に優しさをくれた彼を私もちょっと好きになった。
森本先生はふわっと笑うと「ね、ほんとにね。」とそれに同意する。
「…相談なんてきっと嘘で『最近妹に嫌われてるんだけど女の子ってどうしたら喜ぶ?』なんて聞いてきてね。私が誰でも思い付くような浅いアドバイスしかできなくても『へー。』とか『なるほど。』とか返してくれて…。もっと男の子って自慢とか相手を小馬鹿にした話し方をするものだと思っていたのに、その人は敢えて自分の情けない話で私を落ち着けてくれてね。最後には『ありがとう。森本さんが同じクラスで良かった。』って言ってくれたの。そんなの益々好きになっちゃうよね?だって私は直前までグループの子達に良く思われてないって目の当たりにしてて、自分なんかここに居ない方が良いんだって感じていたのに。その人は私が同じクラスで良かったって言ってくれて、私にここに居て良いんだって思わせてくれた。」
その時の森本先生に救いがあって本当に良かった。
だけどそれと同時にこの想いが成就しない事を私は知っている。
さっき森本先生は大学院に入るまで恋人が出来なかったと言っていた。
それに彼女の口振りで、何となくだけれど後にできる恋人というのはきっと今熱く語っているこの人物ではないのだろうと察しが着く。
この時点で2人はこんなに想い合っているのに。
その後の展開を思うと胸が苦しい。
「それからずっとその人の事見てたんだ。話し掛ける勇気はなくて見てるだけだったけどね。それでもその人がどんな人なのかをずっと見て私は知っていって…。知っていたんだけどね…。」
「…何かあったの?」
不穏な空気に耐えきれない様子で亜樹は疑問を口にする。
「クラスでね、ちょっとした騒ぎが起きた時に、その人が問題の犯人だってクラス中から疑われてしまったの。でも絶対にその人じゃないって私は分かっていたから、きっと疑いはすぐに晴れて元通りになるって思って黙ってた。だって私がここで出て行ってその人を庇ったら皆に私がその人を好きだってバレちゃうし。騒ぎの中心が苦手なキラキラしているグループの子達だったていうのもあって、私は何もしなかった…。その時、責められているその人と一回だけ目が合ったんだけど、凄く悲しそうな顔をしてた。私は違う!その人じゃない!って本当は皆に向かって叫びたかったのに、喉が詰まって声が出なかった。その後、やっぱりその人は犯人じゃなくて、それが直ぐに皆も分かって疑いは晴れたの。だけど、誰もその人に謝らなかった。『疑われる行動とってたお前が悪い』なんて酷い悪態吐く子までいて。」
「何それ!酷い!そいつら全員今から殴りたい!」
私は堪えきれず怒りを露わにした。
そんな良い人を、森本先生の大切な人を槍玉にあげて、更には非を認めてまでも謝らないなんて許せない。
隣で亜樹も大きく頷いている。
「細谷さん…。私も細谷さんみたいに怒れば良かったな。その時の私はね…。最後にその人ともう一回目が合った時、怖くなって逸らしちゃったんだ…。その人は私が辛かった時に助けてくれたのに、私は自分の保身ばかりで声をあげなかった。それを失望されている気がして、それが苦しくて。それからもうその人の顔が見られなくなっちゃった。」
「…。その後その人はどうなったんですか?」
森本先生は顔を上げ私達を見た。
そして眉尻を下げ悲しそうに微笑むと「全く感情を見せなくなっちゃった…。」と呟く。
「そんな…。誰も助けなかったんですか?」
「うん。もともと大人しい人だったし、親しい人もクラスには居なかったみたいで。普段から俯いて本を読んでいる姿ばかりだったけど、特にその後は図書室でも会わなくなったし、授業中以外はクラスでも見かけなくなった。用事があって誰かが話しかけても黙って頷くだけだし、本当に一切人と関わらなくなってしまったの。当然だよね。その中の誰も信用出来ないんだから。休まずに卒業まで来ただけでも凄い事だと思う。だから私は腐らないで一人で戦っているその人を益々好きになったんだ。もう今更どうしようもなかったけどね。多分嫌われていただろうし。だからね…」
またここで大きく息を吐く森本先生。
つられて私と亜樹も深呼吸をした。
「細谷さんと立花君は後悔がないようにして欲しいな。言うのが怖い事があっても聞いて欲しいなら、知って欲しい気持ちがあるなら相手にそれを言わないと。言いたくない事は言わなくていいよ。だけど怖いからとかで我慢して言わない事は言って欲しい。例えそれで今の関係が変わってしまうんだとしてもね。」
「もりもっちゃん…。」
「あなた達は始まったんだから今があるんだよ。私は始められてすらなかった…。始まっている二人はどんな問題も二人で解決出来る。もしかしたらこれで終わるかもしれないし、希望通りの結果にはならないかもしれないけどね。それでもちゃんと向かい合って二人で出した答えには後悔は生まれないから。」
亜樹は少し考えた後、森本先生を見て決意したように頷いた。
そして真剣な顔を私に向ける。
「咲。咲の話全部ちゃんと聞きたい。絶対逆ギレしたり言い訳したりしない。ちゃんと受け止める。だから、俺に聞かせて下さい。そんでその後、出来れば俺にも少し時間頂戴?一緒に着いて来て欲しい所がある。」
畏まった態度。
今日話す気なんてなくて何の準備もしていないけれど、森本先生の話を聞いて包み隠さずに本当の事を亜樹に語ろうと思い始めた。
亜樹への気持ちが変化している事。
立場上人物は明かせないけれど、相談に乗ってくれている山崎先生へ芽生えた気持ちの事。
それを正直に話して謝って。
そしてけじめをつけようと思った。
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