木曜日のスイッチ

seitennosei

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木曜日のスイッチ。

凍り付く程の満面の笑み。

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教室よりも少し狭い空間で四方の壁を埋め尽くす棚。
天井まで伸びるそれには隙間なくビッシリと美術用品や道具が詰め込まれている。
埃と塗料を混ぜた独特の匂い。
そこにひとつの大きな絵が置かれていた。
カラフルで可愛らしい絵。
俺はこのキャンバスが真っ白な所から段々と色付いていく過程を見てきた。
自分の作品でないのに愛着を覚えるくらいずっと見守っていた。
一つ一つ丁寧に乗せられた色。
初めての道具に苦戦しながらも、肉厚で大きな手を器用に操って立花亜樹はこれを生み出していた。
細谷咲はこれを見てどう思ったのだろう。
立花亜樹は思うような反応を貰えなかったと落ち込んでいたけれど、これ程までに愛情のこもった物を貰って本当に彼女は喜ばなかったのだろうか。
今更気になるくらいなら、逃げずに彼女が絵と対面する所を見れば良かったんだ。
本当に俺は臆病だな。
隣の美術室から部員たちの談笑する声が響いてくる。
けれどその中に立花亜樹の声はない。
今日の授業では普通の様子だったけれど…。
夏休みのような深い話をするタイミングがなかったので今彼がどう思っているのかは分からない。
それに細谷咲とも会っていないから、彼等の交際がどうなったのかも知らないままだ。
椅子のない美術準備室内。
俺は絵の前辺りの床に座った。
絵の中の細谷咲を見つめる。
今更彼等の関係を気にしても仕方がない。
もう彼女と俺は校内で偶然見かける以上に関わる事はないのだから。
深く息を吐く。
先々週の木曜日に初めてすっぽかした。
そして先週の木曜日も。
今日も勿論、来週もそうするだろう。
これから全ての木曜日を。
こうやって訪れる度に俺はカウントするんだ。
もうとっくに彼女は木曜日を約束の日だと思わなくなっているのかもしれないのに。
俺から行くのを止めたくせに。
俺はずっと木曜日を後悔して、それを数えて生きていくんだ。
ふと壁の時計を見る。
16時少し前。

コンコン

扉がノックされた。
部員だろうか?
深く考えないで返事をする。
「どうぞ。」
ガラッと音を立て扉が開く。
「山崎先生。」
「…。」
呼吸が止まった。
会いたくて会いたくてどうしようもないのに、絶対に会ってはならない人物だったから…。
立っていたのは細谷咲だった。
「山崎先生。」
室内に足を踏み入れ彼女は扉を閉めた。
まだ数メートルの距離があるのに仄かに彼女の匂いがして既に懐かしく感じてしまう。
心臓が鳴る。
2人きりは不味い。
「細谷さん!扉は…扉は開けておいて下さい…。」
「…どうしてですか?」
「女生徒と2人の時…本来はそうしているんです…。」
「…。そうですか…分かりました。」
チラッと後ろを確認しながら閉めたばかりの扉を開けている横顔を凝視する。
やっぱり好きだ。
勝手に溢れ出てくる感情を無理矢理押し留め、俺は細谷咲から目を逸らしながら立ち上がり、立花亜樹の絵に布をかける。
そして彼女の方を見ないまま声を発した。
「どうしました?」
「どうして先週来なかったんですか?その前も…だし。今日も来る気ないですよね?」
「ああ…。そうですね…。」
まさか彼女が美術準備室にまで会いに来るとは思わなかった。
だから言葉が出てこない。
ちゃんと言わなくては。
もう会うのを止めようって。
「あの場所…来年から陸上部が使うそうです。だからもうすぐ業者が入るんです。他の先生方の出入りも増えますし。もうあそこに行く事は出来ません。」
「そうですか。ならそれを言ってくれれば良かったのに…。」
寂しげな声。
少しだけ怒りも孕んでいて。
そんな声を出す程傷付けてしまったんだと思いやるせない。
「すみません。でも丁度良いかとも思ったんですよ。今細谷さんは立花君と向き合っているんですよね?立花君から聞きました。彼との仲がどうなっていくのかは知りませんが、彼との仲を円滑にする為だったアレはもう必要無いんじゃないでしょうか?」
「先生。」
「立花君って良い子ですね。ちょっと調子に乗ってしまうところはありますが…。だけど今の彼なら細谷さんの悩みを蔑ろにしたり絶対しないですよ。2人でよく話し合って下さい。」
「先生!」
「教師に出来る事なんて…ホント限られていますからね…」
「先生!!!」
すぐ側で声がした。
そっぽを向いたまま一方的に捲し立てている間にすぐ近くに細谷咲が迫ってきている。
咄嗟に後ずさり距離を開けたが、それもまた詰められてしまう。
「本気で言ってますか?」
「…もちろん。」
「嘘だ。」
そう強く言い切る細谷咲。
だけど両目が潤んでいて、今にも泣き出してしまいそうな顔をしている。
抱きしめたい。
強い衝動に飲まれてしまいそうだ。
砂漠の中を数日間彷徨い歩いている最中、目の前に突如現れたオアシスの泉。
飛び込まずにいられるだろうか。
そのくらいの欲求を今必死に無いものとしている。
「本気です。僕が細谷さんに出来る事はもうありません。」
揺れる瞳。
涙を零すまいと瞬きをせずに俺を見ている。
ぐっと噛み締められた唇。
嗚咽を始めてしまいそうなのを抑えているみたいに肩が上がってきた。
そんな姿を見せられると、森本先生とか教師とか生徒とか。
もう全てどうでも良いような気がしてしまう。
今すぐ抱きしめて連れ帰りたい。
「ずっと嫌でした?ホントは。私の事…。」
「細谷さん?」
「本当はずっと迷惑でしたか?私のお願いは…。」
「いや、ほ…」
「私の事…嫌いですか?」
「それはない!」
無意識に発していた大声。
開いている扉から飛び出し廊下まで響いた。
ハッとし慌てて自身を落ち着け静かに続ける。
「あるわけない。そんな事。細谷さん俺は…」
あ、俺って言ってしまった。
先程から我を忘れ過ぎだ。
目の前の細谷咲は動かない。
だけど驚いたように大きく開かれている瞳から一筋の涙を流している。
その意味も分からないまま、柔らかな頬を伝い小さな顎の先端から流れ落ちてしまいそうな雫を目で追った。
「先生?」
掠れた声で呼ばれ視線を目に戻した。
キラキラと光る瞳が俺を捕らえている。
それは縋るような弱々しさと甘えるような愛らしさを持っており、求められていると思わせるには十分で。
「先生…。」
吸い寄せられるように魅入っていると不意に細谷咲が俺の胸元に両手を置いた。
ぐっと距離が近くなる。
そうして至近距離で見つめ合う内にいつの間に彼女の顔に両手を添えていた。
彼女の表情は変わらない。
驚きも期待もしていない。
ただ俺を見ているだけだ。
もしも今彼女が瞳を閉じようものなら当たり前に口を付けていただろうけれど。
そんな欲求が引き下がるくらいに永遠に眺めていたいと思わせる瞳。
そこから零れる雫を親指で掬う。
ただの涙でさえも美しい。
そのまま乾いて空気にくれてやるのが勿体なくて。
涙を乗せた親指を口に運んで舐めとった。
途端に彼女の顔が赤くなる。
あれ?
その反応で初めて自分がとんでもなく気持ちの悪い行動をとった事に気が付いた。
「え、あ、いや、ご、ごめんなさい!」
慌てて彼女から離れる。
なんて事だ。
完全に変態ではないか。
細谷咲を見ると無言で赤い顔に両手を充てて俯いていた。
嫌悪感を持っているようには見えないけれど…。
なんとか謝罪をしなくては。
「ちょっ、あれ?何でだ?あの、自分でも意味分かりません。あの、とにかく本当に申し訳ないです。」
「あ、違うんです。ビックリしただけで…。あの、私が泣いたからなので…。先生は悪くないです。すみません。」
「いや、どう考えても僕が…」

コンコン

お互い取り乱し、謝罪合戦を繰り広げているとノックの音が響いた。
2人で入口の方を振り返る。
そこには開いている扉に手を掛けている森本先生が立っていた。
いつから見ていた?
脚が震える。
森本先生が口を開いた。
「丁度良かった。2人に用事があったんです。」
態とらしい程に明るい声が耳に届き。
目に映るのは凍り付く程の満面の笑み。
今日はやけに訪問者が多いなぁと俺は頭の片隅で現実逃避した。
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