七絃灌頂血脉──琴の琴ものがたり

国香

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乱声

十拍・述懐(弐)

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 とりのこ御前は娘の才能を信じていた。娘が幼い頃から、「この子はただ人でない。偉大なる管絃者になる」と確信していた。だから、自分なぞがついていては娘の出世の妨げになると思い、泣く泣くではあったが、自ら娘を手放した。

 とりのこ御前は、夫の頼時には都に嫡妻がいて、自分は田舎の妾に過ぎないことをわきまえていた。だから、妾腹の我が子が異母(まま)兄弟達に劣り、彼等より格下として扱われることを分かっていた。そこで、彼女は頼時の両親に頼み込んで、娘を養女にしてもらったのである。

 それで、民部卿局は祖父・公頼卿の娘となり、母もとりのこ御前ではなく、東寺の顕明の妹(公頼室)ということになった。これにより、民部卿局は実の兄弟達よりも地位が上になった。

 民部卿局は生母の安易さとは違い、己の能力には疑問を感じていた。幼い頃から何度も挫折を繰り返し、その度に踏みとどまって、意地と根性で今日まで琴を続けてきた。

 だが、それでも気弱になり、将来への不安を感じた頃もあったのであり、安定思考に傾いていたほんの一時、民部卿局とて、宮中に出仕していたこともある。とはいえ、宮中の忙しさは彼女を不安にさせるばかりであった。満足に練習時間が確保できない。ようやくできた空き時間も、疲れて眠ってしまうことが多かった。そして、明らかに以前よりも実力が落ちていることが自分自身でわかった。

 それで、このままではまずいとの危機感から、実父の頼時の反対を押し切って宮中を辞し、何もしないで琴だけ弾く生活に入ったのである。

 生母はそれに賛成だった。だが、実父には全く理解できない。女が人妻にもならず、独身を貫き、女房仕えもせずにふらふらしている。出家するわけでもない。実父には信じられないことであった。

 彼女はいつも、実父に結婚しろと言われていた。それをどうにか押しのけ、今日まで過ごしてきたのだ。

 だが、もう頼時はしびれをきらしていた。今度、女院の御前で演奏すると聞いて、

「いい加減にしろ!」

と怒った。

 だが、生母はそれを楽しみにして田舎から出てきているし、頼時も娘のこれまでの無駄な頑張りは見てきているから、余り無慈悲な言い様もできなかった。

「わかった。今回だけだ。だが、これが最後だぞ。泣いても笑っても。その後は婿をとるか、女院にお願いしてその女房にして頂くかだ。よいな」

 結婚結婚うるさいと思った。何で親が勝手に決めた者と、添い寝しなければならないのだ。どんな醜男でも、どんなもの狂いでも、親の決めた人の妻にならなければならない。虫螻だって、自分の自由で相手を決められるのに。何故、人間の自分にはその自由がないのだろう。

 民部卿局はそう思い、ただがむしゃらに練習した。もしも大成功し、有名になれれば、道も拓けてくるかもしれない。琴人として世間が認めれば、実父も、普通の女のあり方、幸せとやらを強制しなくなるかもしれない。

 並みの女でありたくない。民部卿局は強く祈り、念じて練習に励んだ。

 当日のこと。

 養父の邸から牛車で六条西洞院第に向かう民部卿局に、とりのこ御前は同乗して侍いていた。到着すると、民部卿局は生母を車宿に置いて、迎えの女房とともに寝殿に行った。

 寝殿の御簾に入る。

 奥のおましに、なおまだ絶世の美しさを損なわない女院が、神々しいばかりに鎮座していた。

 女院、

「こなたが大進敏平の一の弟子か。実は今日は主上より、威神の御琴を拝借してきたのです。この御琴で一曲弾いて給れ。この御琴はもともとは、南唐流の何参が唐より来朝せし折、持ってきたもの。その後、何参より清花の准后に伝えられ、生前、准后はこの邸でいつもこの御琴を愛で、その美しい音色で私を魅了していた。准后死去するに及び、宮中に献上され、今では主上の御物となっている。だが、もとは准后がこの家で弾いていたもの。今日は准后の流であるこなたに、この邸でこの御琴で弾いてもらいたい」

と、人なつこい笑顔を見せながらも、大層恐ろしい要望をする。

 御簾の外の大進敏平も冷や汗をかいている。まして本人は……気が動転して、天井と床も分からぬ。

 目の前に威神が置かれた。

 民部卿局、えいっと勇気を出して『長清』の第一声を弾き始める。が、暗示にかかったように、体調を崩した程の不安が全て露わになった演奏だった。こわいと思えば思う程、どつぼに嵌る。

 ひどい。

 ひどいまま終わってしまった。

 民部卿局は逃げるように御前を退出する。

 何をやっているのだろう。

 民部卿局はがんっと頭を殴られた後のように、ただ放心していた。脳は確かに「何をやっているのだろう」と言っているが、心に感情は宿らない。

 他人の目には、特別なことは何も起こっていない平静の人に映っていることだろう。

 ひどく重心が低く、脱力している。無表情な面に眉一つ動かさず、茫然と歩いていた。御前を退出し、廊を進んで車宿の前まで来る。そこの隅に、実母とりのこ御前の姿もあった。

 実母は娘の姿を見つけると、跳び寄ってきて、

「どうでした?」

と、問う。

 民部卿局は実母の顔を見た。今は一番会いたくない人だった。だが、仕方ない。しばし沈黙したが、

「駄目だった……」

と、答えていた。

 一言の後には、続けて言葉が出てくる。

「全然駄目。これが最後の機会だったのに、どうしてあんなふうになってしまったのだろう」

 まだ感情は伴わない。放心したまま、口だけは如何にも悲痛そうに、作り声で言う。

「いつもそう。いつもいつも、人前できちんとできたことがない」

「なんだ!」

 実母は一言、がっかりとも憤りともとれる口調で非難した。

「とうとうできなかった……」

「そう……いつかできるのではないかと思っていましたが……仕方ありませんね」

「どうして、いつもこうなってしまうのだろう。皆、きちんとやるのに。どうして私だけ、この歳になってもまだできないのだろう。とうとうできないままなのだろう……」

 言っているうちに、なんだかじわじわと涙が滲み出てきた。心はまだ空のままなのに。感情もないまま、涙だけ涌いてくる。

「あんなに練習したのに。せっかくやったのに。どうして肝心な時にできないのだろう。もう、嫌。もう、いい。やめる。実父との約束通りにする」

 感情はなかったのではない。氷っていたのだ。その欠片が心の中に砕け散る。

 涙が湧く度、その散った欠片は涙によって沸かされ、解けて心にへばり付く。

「……ごめんなさい。ずっと応援してくれていたのに。もう、やめて仕事するから」

「──そうですね。あまり期待してしまっても、かわいそうですし」

「期待してくれるのは、とても嬉しいことよ。期待されて、ずっと長い間応援してもらえて、嬉しかった……幸せ……」

 この言葉を口にすると、途端に悲しく、とても苦しくなった。

 自分が失敗したのは、勿論くやしいが、それは自業自得だから、別に堪えられないこともない。けれど、母は……。ずっと自分を応援し、期待し、夢を託してくれていた母に、一度も喜ばせてあげることができなかった。それどころか、いつもがっかりさせてしまっている。いつもいつも落胆させて、とうとう一度も喜ばせられなくて……。それが辛いのだ。それに母は、期待されて重荷に感じていると思い込んでいる。母にそんな思いを、誤解をさせてしまう、この不甲斐ない自分がたまらなく厭だ。母がかわいそうでならない。

「ごめんなさい」

 民部卿局はそれしか言えなかった。

「ごめんなさい」

「はい、はい」

 母の声に暗さはない。

「まあ、過ぎてしまったことは仕方がないのですから、また頑張ればよいでしょう。本当にあなたは誰よりも才能がある。色々苦労をしてきて、全てがわかっている。あなたの弟子となる人は、とても幸せだと思いますよ。あなた程弾けなくても、師となっている人は沢山いるでしょう。あなたは、奏者としても本当に素晴らしく、この頃は一皮剥けて数段上がりました。今日の曲も物凄くよく仕上がっていて。本当にとてもよくできていて、素晴らしかった。今後、御前では弾けないかもしれませんが、まあ先の長い人生なのですから、これからも地道に続けてゆけばよいのです。これで終わりではないのですから。音楽は御前で奏でるだけが能ではありませんよ。後ろを見ていても仕方がない、いつまでもくよくよしていないで、頑張りなさいませよ」

 母の励ましに、堪えられなくなってきた。沢山の男女の目もあるのに、気にせずぼろぼろ涙を零し始める。

 人前では決して涙は見せぬ、強い心の強い女の民部卿局が、己の意志を、制止を振り切って泣いている。こんな自分が信じられないが、もう見栄などどうでもよかった。

「ごめんなさい……」

 ただそれしか言えない。

 期待してくれた母を喜ばせたいのに、また落胆させた。そして、そんな母に逆に励まされている。

 こんな失敗、気にもしていないと、母に強気の自分を見せて、安心させたいのに……自分よりがっかりしているであろう母に、逆に励ましの言葉を口にさせるなんて……

 ただただ情けなかった。

「ごめんなさい……」

 母に申し訳ない。

 逃げるように牛車に乗り込んだ。乗った途端、わっと泣き伏した。

 涙はとめどなく湧き、拭えど拭えど間に合わず、化粧が全て落ちてしまってもまだ泣き足りない。泣くと顎に力が入るのか、ひどく顎が痛むが、痛いからもう泣きたくないのに、それでも涙は止まらない。

 もう終わってしまったのだ。奏者としての琴人生は終わってしまった。これからは女房仕えするか、人妻となるかしかない。琴は細々教える程度。灌頂もなければ、秘曲伝授もない。

 終わってしまった。

 この歳まで、母にずっとずっと期待させ、支援だけさせたまま終わってしまった。結果を出せなかった。充分にやりきって評価されなかったならば、こんなに悔しくはないのだろう。まともにできなかったから、たまらく悔しいのだ。

 どうして自分はこうなのだ。何がおかしいのだ。

 民部卿局は、今死んでもよかった。このままで死ねるかという思いが、脳の隅のかすかな所にないこともないが、「くだらない。こんなくだらないろくでもない私なぞ、くたばってしまえ」と、強く思った。

 牛車がゆっくりゆっくり進んでゆく。

 今、薙刀や太刀を持った盗賊がこの車に押し入ってきて、自分に太刀を振り下ろせばよいのに。

「気の狂った者よ。そこから出てきて、私を斬れ!」

 狂者の餌食にこの身を差し出してやろうというのに、何故、血に飢えた賊徒は現れぬ?人を殺すことに快楽を見いだす狂者が、今日に限って何故現れぬ?




 三日経つと、民部卿局は馬鹿なのか、もう苦しみから抜け出せていた。そして、やる気だけが異常にわいている。

 このままで終われるものか。

「自分が惨めだろう、頑張れ」

 養父がそう言ってくれた。

 生母も毎日激励し続けている。

 終われない。きちんとやれるまでは、やめられない。

 民部卿局は実父の頼時に懇願した。

「一年、一年だけ待って下さい。この一年、常に本番十日前のようなつもりで練習を続けます。その上で、ものにならなかったならば諦めます。女の人並みの生活を選びますから、もう一年だけやらせて下さい」

 期限付きで修業するというので、頼時もただの分からず屋というわけではないから、不承不承に許可した。

「一年だけだぞ。後は絶対許さん。あと半年、いや一と月と泣きついても、決して許さんからな。ずるずると引きずり、とうとう一生涯、死ぬまでやり続けるなぞということにもなりかねない。できなくとも、必ず一年でやめさせる。あと一歩のところだとても、認めぬ」

 頼時はそう付け足した。

「はい。有難うございます」

 民部卿局は一年間だけ琴を続けることになった。
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