小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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出会い

十二・祝言

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 間もなく、小倉家の内紛は収束した。

 実隆のものとして、実隆の口から述べられた定秀の提案は、小倉の分家に受け入れられ、和睦の証として、お鍋と右京亮の結婚が決まった。

 もともと決まっていた結婚であり、分家の面々としては、ようやくかと嘆息したくらいで、相変わらず本家への好感は無い。

 一時の休戦にはなろうが、まだまだこれで終われるとは思えなかった。

 そして、自分の意志など全くなく、それも、他家の蒲生定秀の都合で政略の道具にされるお鍋は、それでも黙って結婚を受け入れた。

(これでいい。私はもとから右京亮殿に嫁ぐことになっていたのだから。おかしな男と出逢って、一時心に迷いが生じたけれど、これで全て元通りだわ。そして、この結婚が、兄上と小倉家とを結び、兄上をちゃんと当主にしてあげられる。分家もこれで、お屋形様に睨まれることもなく、浅井との内通も疑われることはない。皆が幸せになれるんだもの)

 お鍋は文句一つ自分の心の中でさえ言わず、右京亮の妻となる運命を受け入れた。

(信長。さようなら)

 右京亮だけを見て、全ての小倉家のためだけに生きていく。

 翌年の永禄四年(1561)にお鍋は小倉右京亮実房のもとへと嫁ぐ。

 その日、支度を整えたお鍋は、於巳を連れて実隆を訪ねた。

 白の綸子の花嫁姿。綺麗に化粧されたお鍋は、常とは違っていた。

 この場合、見とれてほめるのが普通なのであろうが、実隆は照れくさく、また涙の場となるのも嫌で、照れ笑いの末に言ったものである。

「全然別人だな。いつものすっぴんが見慣れて佳いから、ううむ」

 花嫁姿が変な顔だと言われたみたいで、お鍋はついいつもの調子でむっとした。

「今日くらい真面目に挨拶を受けたらどうなんですか、兄上は!」

 恋を封印したお鍋にとっても、己の実家のために彼女を政略の駒とする後ろめたさのある実隆にとっても、暗いはずのこの結婚が、何だか全く深刻みのないものになっている。

「睨むな。まるで白蛇じゃないか」

 げらげら笑う実隆が、あまりにも日常的過ぎて、お鍋の気負いもすっかり落ちた。

「ま、夜の灯火の下ではそのくらい白い方が栄える。常の顔を知らぬ者の度肝を抜くには充分だ」

「どういう意味ですこと?小倉庶家の人々が白蛇に怯えると?」

 本家から来た白大蛇に圧倒されて、分家の面々が本家に服従するという意味かと、お鍋が立腹すると、実隆は手を振った。

「違うよ。綺麗な嫁御寮だと、皆が感動するという意味さ。いやだね、そなたは何でもかんでも悪意に取って」

 降参降参と繰り返す実隆を見やって、この義兄は信長に似ているかもしれないと、ふと思った。

 気を取り直し、改めて花嫁の体裁で挨拶をしようとすると。

「待て!俺そういう冗長に過ぎるやつは嫌いだ!挨拶なんていい。俺は面倒見なかったし、鍋は一人で大きくなった。立派に成長したから、幸せにな!」

 実隆はさっと立ち上がってしまった。

(はっ?本当にまるで信長じゃないの!)

 お鍋も立ち上がって、

「時間まで向こうで休んでます!もう、兄上は!」

と、踵を返して、衣擦れの音もわさわさと、廊下を行ってしまった。

 後に従おうとした於巳に、実隆が言った。

「本当に鍋について行くのか?」

「殿……」

 於巳は振り返って、その場に座り直した。実隆は立ったまま、柱にもたれかかり。

「右京亮はそなたを邪険にし、絶えずそなたを疑い、監視するだろう。高野の者たち皆がそなたを間者と見る。針のむしろだぞ?」

「覚悟はできております」

「それでも、鍋の友として、鍋の傍らにいてくれるか」

「はい」

「しかし、俺の父はそなたを利用する。そなたは鍋の友ではいられなくなるかもしれぬ。鍋を裏切り、心に傷を負う。鍋への友情と間者の役目と。苦しいぞ?」

 於巳は一度そこで黙ったが。やがて意を決して両手をついた。

「殿の御ために──」

「……そなたなら必ずできると信じてはいるが……於巳」

 彼女の心を案じる実隆に、於巳は顔を上げて笑みを作った。

「私はそんなにいい人ではありませんから。罪悪感なぞさほどに感じることもないと存じます。お気遣い、勿体無く存じます」

 実隆は何も言わずに微笑んだ。




 夜になり、お鍋の花嫁行列は佐久良城を出た。

 高野館まではさほどに遠くはない道のり。

 近所の、しかも親戚に嫁ぐのだからと、結局実隆はいい加減な挨拶で、お鍋を送り出した。

 確かに、別離の悲しみもない、また、毎日でも逢えるような結婚だが。

 家を出て、別な家に入るというのに。女のそのほろ苦さ、寂しさを察せぬ実隆である。

(兄上だって、生家を出て余所の家の籍に入っているのに!鈍感!)

 輿の中でぶつくさ言っている間に、高野に着いた。

 輿から降ろされ、祝言の支度が整えられている広間へ導かれて行く。不思議と緊張も、まして悲愴感もなかった。

(まあ、兄上のおかげかもね)

 義兄が阿呆でよかったとお鍋は思った。平常心は実隆がもたらしてくれたもの。

 花婿の席には右京亮が座って待っていた。次の間には小倉家一門衆や家臣達、さらには六角家の家臣達などの列席者がずらりと居並んでいる。

 実隆の言った通り、皆、灯火の下で輝くお鍋の姿に度肝を抜かれ、どよめいていた。

「なんと美しい花嫁であろ」

「こんな綺麗な花嫁とはなあ。右京亮にはもったいない」

「近江一の花嫁よ」

 人々が口々に囁きあっている。

 それを耳に快げに聞きながら、お鍋は花嫁の席に着いた。

 つい右京亮を見る視線が上目遣いになる。

 右京亮は真っ直ぐお鍋を見つめていた。その顔には微塵の動揺もなかった。

 お鍋の美しさに見とれるでも驚くでもなく。当然のものが目の前にあるというように、真っ直ぐ見つめてくる右京亮。

 それがかえって凛々しく映る。

(なに……やだ……)

 お鍋の方が伏し目になり、堪えきれずに俯いてしまった。

 祝言の儀は粛々と進む。契りの杯に、あとは退屈な宴に。

 お鍋もさすがに疲れて、頭がずうんと重くなってきた。鈍痛さえする。

 欠伸を噛み殺す。緊張どころか、平常心を通り越して退屈だ。

(こんなに寛いで、って、全く寛げないけど、緊張の欠片もなくのんびりしてるのは、兄上のせいでもなんでもないわね)

 お鍋はすっかり、この後の最大の儀式を忘れていた。

 それにしても、隣の右京亮は相変わらずずっと凛と澄まして黙っている。無表情で凛々しいのだが、何を考えているのかさっぱりわからない。

 そうしているうちにも夜は更け、いつしか老女に退席を促されていた。

 そこで急に思い出した。最大最強のこの後の儀式を。

(あっ!いよいよ?)

 急に緊張に襲われる。これから右京亮と二人きりになり、彼の肌に触れるどころか──

 そこまで考え。

(無理!無理無理きゃあ!於巳、助けて!)

 凄まじい速度で自身の中だけで喋っているうちに、気付けば寝所の内だった。

 もうすっかり信長のことなんか完全に抜け落ちた。それくらい次に訪れる時間はお鍋にとって一大事だった。

 ひょっとしたら、先程まで床入りのことを忘れていたのは、潜在的な現実逃避だったのかもしれない。

 右京亮の顔、手を思い出す。

(あの、あの手が?)

 自分を。

 侍女が髪を梳いていた。こんなふうに間もなく右京亮の手が、自分の髪を。

 祝言の席で凛々しかった彼の顔。その下の首。その肌の妙な男のなまめかしさを思い出して、お鍋は顔を真っ赤にした。

 間もなくあの肌に自分が溶け込むことを、感触も感覚もどんなものかさっぱり想像もつかないが、それでも自分なりに想像しただけで、頭が吹っ飛びそうだ。

 あの首筋のしっとりとした感じが、お鍋の肌全身にまとわりつくのである。そして、しまいには──!

 衣擦れの音に気付けば、侍女たちが下がって行くところだった。すでにお鍋の髪は梳き終わり、床入りの支度は全て終わっている。あとは右京亮を迎えるだけの状態。

(ど、どうしよう?どうして床入りなんてものがあるの?夫婦の契りってものが、何でこれなの?私、右京亮殿に一切触らなくても、小倉家のために尽くせるし、右京亮殿のことも大切にできるし。慕う心だって──!)

 祝言を迎えるにあたり、そこのところは乳母にしっかり教育されたはずだが、やはり体が一つになったのが夫婦というものなのだという、夫婦の定義に、今更疑問を持った。

 何故、恥ずかしいとか怖いとか、避けて通りたいという気持ちが自然に湧き出してくるのか、それさえわからない。

 わけもなく顔じゅうを火照らせていると、すっと於巳が入ってきた。

「間もなく婿君がお越しです」

 それを告げに、於巳が来てくれた。他の侍女でもよい役目を、わざわざ於巳が買って出たのだ。

「於巳!」

 目を潤ませ、だが、お鍋は於巳の顔を見て安心した。

 於巳はそっと頷いた。

(お鍋様、人の心と運命とはかみ合わぬものでございますね。けれど、そのことを私は不幸とは思いません。お鍋様もきっとそうでしょう?運命の中で、そこから幸せを見つけて行く、それが人生なのでしょう)

 於巳は意志の強い目でお鍋を微笑みながら見つめると、平伏して次の間に下がった。

(幸せを感じて生きられますように、お鍋様)

 於巳と入れ替わるように、すぐに右京亮が入ってきた。於巳に少し安心したお鍋だったが、やはり身を硬くする。

 於巳は襖を閉めて、さらにその先の部屋まで下がって行く。

(……けれど、お鍋様。私は生涯独り身を通します。信長殿への捨てた恋を、私が背負いましょう。私も心のままに生きられない身でございますから)




 右京亮を閨の内に迎え入れたお鍋は、そっと両手をついて平伏した。その礼を右京亮は黙って受けた。

 右京亮はきっとまだ信長とお鍋の仲を疑っている。

 お鍋に惚れているという彼だが、ようやく祝言にこぎ着け、好きな女を手に入れたというのに、相変わらず無表情だ。この男、本当にお鍋を好いているのだろうか。

 平生の平常心なら、お鍋も鋭く心に疑問を抱いたであろう。しかし、今はそれどころではない。とにかく必死である。

 閨は戦場だ。これから決戦だ。お鍋は力む腕をしっかと動かし、面を上げた。

 だが、彼の瞳は見られなかった。それでも、彼がやはり凛々しく居るのはわかる。

 無言で、右京亮がひとつ大きく息を吐いた。

「……今宵より、何卒宜しゅうお願い申し上げます……」

 震える声でお鍋が言うと、すっと右京亮の手が伸びた。

 彼女の腰紐を解く。

 不思議なぬくみであった。

 右京亮も緊張しているのか、彼の指先は冷たい。だが、手のひらはあたたかく、お鍋のものより高温なのだろう。その厚みのせいもあろう、ほっとする気持ち良さ。

 彼の触れる胸元は、今まで味わったことのない感覚で満たされていた。

(この厚みがあったかくて落ち着く──)

 これまで、自分でも胸に触れることはよくあったはずだ。着替える時や何気なく触れた時もあろう。眠っている時には、その上に手を置いていたこともあったろうが。

 自分の手では味わったことのない、決して味わえない心地よさ。

 右京亮はそこに手を置くだけで、揉みしだいたり擦ったりはしないのだが、次第に息があがってきた。

(や、やだ!どうにかして、私!)

 右京亮の息づかいにつられて、お鍋まで妖しくなってしまうのだ。

(こんな私を知られてしまった!こんなの!こんなの!)

 いつしか彼は彼女自身さえ知らない所へ触れた。そのあまりに素敵な感覚に、お鍋は目が覚めるようだ。

「姫!鍋……」

 やっと甘くも動物的な声でお鍋を呼んだ彼。

(こんなこの人はじめて。こんな私もはじめて。私にこんな神秘な幸せをくれるなんて)

 未知の感覚を唯一与えてくれるのが夫。夫婦の契り。

 やっと祝言の日の契りのわけがわかった。それだけ夫が大切な理由も。

 こんな自分を知っている他人。だから、夫は特別な存在で。

 弱みも何もかも、親よりも全て知っているのが夫なのだ。

(夫婦がどれだけ特別なものかよくわかったわ)

 夫婦の間に、親子の絆さえ超越する愛が存在する理由もよくわかった。

「殿……」

 お鍋は初夜の儀に感激しながら、やがて眠りについた。




 翌朝、お鍋の顔を見て、於巳は安心した。

「おめでとうございます」

 初めて祝いの言葉を口にできたのである。

 お鍋も素直に、

「ありがとう」

と微笑んだ。

 そして、右京亮からまた昨夜の感覚を贈られたいと思った。

 平安の昔。夜に忍び会うことしかなかった男女。

 女が男の来訪を待ち、男を慕い、想い募らせたのがよくわかる。もっと会いたい、そう願う彼女たちと、今のお鍋は一緒だ。

 一度の契りでこうも心が変われる。お鍋は右京亮を慕い、彼に尽くすであろう。

 他の男なんて、思い出しもしない。

 お鍋は一日中、初夜の思い出に浸り、今夜も昨夜と同じ感覚を味わいたいと思った。

 そして、その願いは叶えられ、結婚二日目もお鍋は幸福に包まれた。

 お鍋が自分を慕っているのか、単なる彼女の生理かは、右京亮にもわからなかったが、それでも、結婚三日目辺りからは彼の態度もほぐれて行った。

 閨では躊躇わなくなったし、昼間、その辺でお鍋を見かければ、その呼びかけに応じる。一緒に食事する時も、お鍋が一生懸命話しかければ、微笑みもするし、むっつり黙っている時間も少なくなった。

(ただの新婚の緊張だったのならば、よいのだけれど──)

 二人の様子を見ていた於巳は、右京亮の祝言での態度が、悋気でないことを祈り、二人の仲が深まるようにと願っていた。

 そんな於巳を見る目だけは、しばらく経って夫婦がだいぶ慣れてきても、相変わらずな彼だった。

「……殿、あの、於巳を帰しますか?」

 お鍋は勇気を持って右京亮に訊いてみた。

「私は本家と分家の和議の証として、嫁いで参りました。もはや両者の間に溝や疑惑はないものと思って、於巳を連れて参りましたが。お目障りなら──」

「溝はない、確かにその通り。しかし、おもとに一つ問いたいことがござる」

 右京亮は信長を八風越に案内するようお鍋に乞われた時と、同じような目をした。

「小倉は分家をいくつも抱え、随分大きくなった。血筋の上では、ご本家とはもう全く他人、それほどに遠い。それでも、根元は同じ、一族には違いない。本家の分家のといがみ合うべきではなかろう。おもとが嫁いできたことは、喜ばしきこと」

 お鍋はもともと分家筋の出。本家の先代に養女として迎えられ、本家の人となったのも、小倉一族結束のためだった。先代・実光の時代以前から、既に力を持っていた分家諸家が本家に対抗していたからだ。

 本家の娘のお鍋が、右京亮に嫁ぐのは、小倉一族が纏まるためには大事なことである。

「しかし、ご本家は蒲生の人である。これを我々は克服できるであろうか?みどもはご本家の義弟となった。だから、ご本家とは親しく致すが、この高野以外の小倉の面々がどう出るか。いざという時、ご本家に従うはみどもだけかもしれぬ」

「そんな!それでは、私は何のために嫁いできたのですか?私は──」

「おもとの意識を問いたい。おもとはどこの家の人のおつもりか?」

 お鍋は非常に驚いた。こんなに小倉家の人々は、それぞれの家の血にこだわりを持っているのだろうか。

「おもとは先代のご本家の姫だが、蒲生から来た今のご本家の妹として、その意向で我がもとに嫁いできた。当家は血筋の上では右近大夫殿が一番近いが、左近助(良秀)殿の養子という扱いになった。左近助殿は、少し前まで右近大夫殿とはあまり仲が良くなかったからな。当家のこの扱いは両家結束のためよ」

 右近大夫の城のうちの幾つかは、今は左近助良秀や右京亮らが有しているのだ。小倉家はそれぞれが勝手気ままに振る舞い、対抗しては、親しくなることを繰り返してきたのだ。

 今、分家全てが団結しているのは、実隆が本家に入ったからで、それ以前は親しかったわけではない。

 お鍋の実父は高畠殿と呼ばれ、本家の佐久良城脇を流れる桜川(日野川支流)の下流に領地がある。高畠殿は本家の分家だ。子がなかった先代・実光は、分家と縁戚を結ぶために、お鍋を養女にしたのだ。

 一方、右近大夫家から左近助家の養子になった右京亮は、なお実家との関わりも強い。だから、お鍋が嫁いだことで、その生家の高畠殿の近親者達の中には、右近大夫に与力することになった者もいる。

 かつての浅井家との戦いで、高畠殿は討ち死にしており、赤子だったお鍋は実父の顔を全く覚えていない。

 先代の実光は、強力で反骨の強い分家の右近大夫家に嫁がせるために、お鍋を養女にしたのである。

 高畠殿の娘として生まれ、実光に育てられ、蒲生から来た兄によって今、右近大夫家から左近助家の人間となった右京亮に嫁いだお鍋にとって、小倉のどの家の人間のつもりでいるのかと問われても、答えようがない。自分で答えを持ち合わせていない。

「……私は、小倉の血を引く小倉一門という集合体の人間としか思ったことはありません。小倉のどこの家の人間かなど、考えたこともないし、考えてもわかりません……でも──」

 お鍋は夫にはっきり言った。

「私は右京亮実房の妻でございますから、あなた様の御為に生きて参ります。あなた様が於巳を目障りに思われるなら、蒲生家を疑われるなら、私もそう致しましょう」

 右京亮はやや驚いたような顔をして、お鍋を見つめた。

「みどものために生きると?では、ご本家とは?」

「右近大夫殿と左近助殿の和のために養子となられたあなた様ならば、おわかりになると思いますが――勿論、本家と分家の和議の証として嫁いできた私です。本家と他の皆様が敵になることは望みません。でも、確かに父・先代三河守様(実光)は、蒲生に殺されたに違いなく……兄は良い人なので、慕ってはいましたが、蒲生の人ですもの。だから、私は今の本家を利用したいと存じます」

 お鍋は微笑んで、きっぱり言った。

「お屋形様が浅井との関係を疑っておられるとか。ならば、本家を利用して下さい」

「ご本家を利用か」

 右京亮がはじめて笑った。

「私が小倉家を危険にさらしたのです……私を利用して下さい。お屋形様は数ある小倉諸家の中で、兄を最も信頼、いえ、贔屓しておられますので。その兄の意向で嫁いだ私ですから」

 右京亮は素知らぬ顔で言った。

「織田殿が今川を討った。小倉は頼もしい人と誼を通じることができた。おもとの先見の明よ。屋形に何かあっても、小倉はどうにか保てそうだ」

「お屋形様に何かあるまでの間は、小倉家は六角家の下、神妙にしておかなくては」

「そうだの。だが──」

 右京亮は、織田と誼を通じた小倉を、このまま浅井が放っておくはずがないと思った。

(屋形に従うは時間稼ぎよ。地理的理由からも、小倉は浅井に従うことも、屋形に謀反することもできる。実隆との和睦は、機が熟すまでのこと。わしはともかく、右近大夫殿はそのつもりだろうな。お鍋には気の毒だが、実隆とはいずれ戦になりそうだ)

 実隆の義弟として、なるべく実隆に従うつもりではいるが、右京亮以外の小倉一門が実隆に背くようなら、勝ち目はない。生き残るためには、有利な方に味方することになる。

「全ては屋形次第だ。屋形が強く賢くなってくれれば、浅井に靡く者もいなくなる」

(ま、屋形にべったりの実隆と蒲生。ご先代三河守様の敵だとお鍋も思っているようだし。他の一門衆は、わしに嫁いだことで、捕らわれの身の三河守様の姫が、ようやく蒲生から解放され、自由になったと思っておるし。実隆と敵になっても、お鍋もやむなしと思ってくれるだろう)

 右京亮がそんなことを思っていると、お鍋は手を打って笑った。

「わかりました!お屋形様さえ立派におなり下さればよいのですね。私、ご家中の強化改革に尽力致します!」

「はあ?」

 まさか、お鍋が六角義弼の尻を叩いて教育でもするつもりなのかと、右京亮は目を丸くした。

 だが、お鍋が目を輝かせてはりきっているのを見て、たまらず吹き出した。

「お、おもとが?」

 こんな彼は結婚後、初めてのことなので、お鍋は嬉しくて、益々胸を張った。

「はい!」

「そ、そうか。はははっ。頑張って下され」




 それからしばらく経って、お鍋は右京亮の前に、高畠家の人間を連れてきた。

「右近大夫殿から頂いてきました。これからは、こちらでお召し抱え下さい」

 右近大夫に与力していた者たちである。

「構わぬが、何故?」

 右京亮は驚いた。

「お屋形様を強化させるためです」

「は?」

 わけがわからなかった。

「それと、於巳は交換で右近大夫殿に譲りました」

「何だって?」

「和南城に送られたそうでございますよ」

 右京亮にはお鍋のしようとしていることがさっぱりわからなかったが、目障りな於巳がいなくなったことには、素直に喜んだ。於巳は実隆が送り込んだ間者だからである。

(実隆が──ん?)

 何かひっかかる。

 だが、とりあえず右京亮は、高畠家の面々を八尾城に入れることにしたのである。




 蒲生側の間者には違いないが、お鍋の友として、侍女として、その傍らにいることを願っていた於巳。お鍋から暇を出されたわけだが、決してくじけたり嘆いたりしてはいなかった。

 まして、お鍋に捨てられたと恨む気持ちもない。

(お鍋様は鋭い方。私が間者だということはご存知のはず。その上で、私を信頼して下さっていた。ご夫君のために、私を遠ざけようとなさったなら──)

 右京亮のためにそうするお鍋が、於巳にはかえって嬉しいくらいだったのだ。

(それに、お鍋様はお屋形様を強化するために、私に力を貸して欲しいと仰有って下さった)

 於巳を信頼して、お鍋のなさんとすることのために、於巳を手放したのだから。於巳はお鍋の期待に応えなければならない。

(六角家の強化には、小倉一門が殿と親しくなるのが一番。その余地が全くない右近大夫殿については、力を削ぐのが良い。そして、殿の下に団結した小倉は、蒲生に侮られることも付け入られることもなくなる。小倉は蒲生の最大の同志となれる)

 右近大夫のもとに、お鍋の間者として送られた於巳は、しかし、蒲生の間者と見た右近大夫によって、和南城にやられてしまった。右近大夫は蒲生賢秀と相婿だが、蒲生とはどうあっても相容れない。

 和南城を任されているのは小倉源兵衛。右近大夫を心から慕っている人間だが、右京亮と血は近い。

 源兵衛なら、どうにかできるかもしれないと於巳は思った。右近大夫が於巳を和南城にやってしまったのは、失策だったかもしれない。

(頑張らなくては!)

 張り切る於巳だった。

 ところが、和南城のすぐ近くの甲津畑には、速水が住んでいるのである。

 速水勘六左衛門。実隆に仕える速水である。

 彼が、和南城に来た於巳を放っておくわけがなかった。蒲生定秀からの指示を、こっそり藪から忍んで、於巳に伝えるようになる。

 定秀はやはり小倉を討ちたいらしい。

 小倉が蒲生と共存する道と、小倉を蒲生に討たせる道と。於巳は板挟みになってしまうのである。




 お鍋は於巳の動静を知らない。夢中で小倉家のことを考え、右京亮の妻として生きるために一生懸命だった。

 恋なんて。もはや過去のもの。

 お鍋は信長のことは思い出さなくなった。

(右京亮殿にもっと愛されたい……)

 夜を重ねる度に右京亮との絆は強くなっていった。




*****************************

 お鍋が思い出しもしなくなった頃、信長の方は、ぼうっと庭の桜を眺めながら、近江での出来事を思い出していた。

 腕に紫の麻布に包んだ赤子を抱いている。

(三年か……)

 紫草の布は端が破けている。

「三年前の今頃だった。冬姫、そなたのこの布を近江の小童に裂いてやったのだよ。あやつももう随分大きくなって、こまっしゃくれているのだろうなあ」

 桜の花を取ろうと、必死に飛び跳ねていた童子を思い出す。が、もうその顔は忘れた。

 そして、その顔立ちもしっかりして、余裕で枝に手が届くようになっているだろう。

「姫。そなたの姉上が生まれた日のことだったのだ。姉上のことは、この蒲生野の紫染めで包んでやれなかったからな。そなたが姉上の分まで健やかに、長生きするんだぞ」

 そよ風が吹いて、生まれて半年にも満たない赤子の姫の、これ以上ない柔らかい頬に、ひとひらの桜の花びらが舞い落ちてきた。

 眠りながらも、くすぐったそうに頬を動かす姫に、信長はふっと笑って、花びらを取ってやった。それを庭に捨てると、風が空高く舞い上げていく。

 永禄五年のあたたかな春のことであった。
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川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる …はずだった。 まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか? 敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。 文治系藩主は頼りなし? 暴れん坊藩主がまさかの活躍? 参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。 更新は週5~6予定です。 ※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。

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