小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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内訌

一・観音寺騒動(上)

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 永禄六年。

 懐妊中のお鍋は、佐久良城に帰ってきていた。

 嫁いでしばらく後に、懐妊したお鍋。ずっと高野館にいて、一度も佐久良城に遊びに来たことはなかったが。

「女は実家で出産するものだ」

 などと、実隆が時代錯誤なことを何度も言って、お鍋を招こうとするので、さすがの右京亮も苦笑して、

「ご本家は本当に、兄としておもとを可愛いがっておられるのだなあ。あんまり無視するのもかわいそうだ、一度遊びに行ってきたらどうだ?」

と言ってくれた。

 於巳さえ遠ざけさせてしまった右京亮なのである。この心境の変化は、お鍋には嬉しく、ありがたいことだった。

 お鍋はそれで、大きくなったお腹と共に、久しぶりに佐久良城に帰ったわけである。

「ひゃあ!巨大な腹!」

 開口一番に実隆は吹き出しつつも悪口したが、お鍋はつんと澄まして、

「まあ、照れ隠し?兄上、素直に会えて嬉しいと言えば宜しいの!」

と返したから、実隆も一瞬返す言葉が見つからず。だが、すぐに負けじと応酬してくるのが相変わらずだった。

「何ヶ月だ?生まれるのはもう明日か?俺、こんな巨大化した腹は初めて見たぞ」

 実隆ももう子持ちだ。

 彼の妻は腹の目立たない質だったのか、実隆、どこまで本気か知らないが、物珍しげにお鍋のお腹を眺めやった。

「右京亮が可愛い可愛いと、めいっぱい食わせてるんだろう?」

「ああら、兄上。姉上にはあんまり食べさせてあげなかったのね。栄養不足で、おかわいそう」

「何を?がはははは!」

 実隆は大声で笑うと、上がれ上がれと、手振り付きで促した。

 お鍋がそっと廊下に立った時、向こうの廊下をとぼとぼ行く童男が目に入った。

 実隆の瞳の光が陰る。

「あれは、確か──?」

「鶴千代だ」

 実隆は呟くように口にしたが、すぐに表情を元に戻すと、

「ほら、疲れただろう?そんなに大きな腹で、重いのに、よく来たな。中に入ってゆっくり休め」

と、お鍋を部屋に入れた。

 それが、向こうの童にも見えたようで、律儀で礼儀正しい彼は、すすとこちらにやって来て、廊下になお立っている実隆の前に、片膝をついた。

「叔父上」

 所作の完璧さに比して、喋ると存外幼い。だが、もうこの叔父を「さくら様」などとは呼ばなくなっていた。

 きっとそう呼んでいた記憶すらないだろう。そして、かつて自分がそう呼んでいたと知れば、そのような己を恥じるであろう。

「鶴千代、高野の妹が遊びに来た」

「では、ご挨拶を」

「うむ」

 実隆が先に立って、部屋の中に入って行く。

「鍋、ちょっといいか?」

 お鍋は部屋でくつろぎながら、廊下での二人のやりとりを聞いていた。

「どうぞ」

 お鍋は朗らかに挨拶を受けると返事した。

 すぐに、実隆に導かれて、その背後から暗い表情の男の子が現れた。

 お鍋からやや離れた場所に腰を下ろすと、またしても見事な所作で手をつく。

「蒲生賢秀が嫡男、鶴千代にございまする」

 かつ舌が幼い。お鍋は自然に笑顔になった。

 鶴千代は、身重で移動してきたお鍋を気遣ったのであろう。二つ三ついたわりを口にすると、すぐに退出しようとした。

 お鍋は確かにちょっと疲れてはいたが、この子の様子が気になり、昔のことを口にして引き留めた。

「私、以前も若君と会ったことあるのよ。私に会った時のこと、覚えてる?」

 え、という顔した彼。すぐに考え込む表情になる。

 顔はなおやや大きめだが、すっかり体がその大きさに追いついた。その顔の中の目が利発そうで、力強い。

 お鍋はふふふと笑って、

「そこの桜の大木の下よ。若君はまだとても小さかったわ。葉桜を愛でて。何してるのかと思ったら、脚力をつけているのだと。紫の麻紐で、あれは何してたのかしら?」

「……は」

「覚えてないのも無理ないわ、小さかったもの」

 くすくす笑うお鍋に、鶴千代は困ったような顔をした。

「……すみません」

「いいのよ。でも、また会えて嬉しいわ。大きくなりましたね。健やかに、すくすくと育って」

 鶴千代にとっては、四年も前のことなど、よほど衝撃的なことでもなければ覚えていない。

 お鍋に会ったことも、その時の紫の紐なるもののことも、記憶にはなかった。

 あの頃、紫の紐状の布は、幼い彼にとっては何故かちょっと大事な物だったようで。洗ってしばらく持っていたようだが。

 怪我をした時、止血のために包帯代わりに使ったものだし、洗っても血は消えなかった。

 汚いからと、知らぬ間に町野あたりが捨ててしまったのかもしれない。あるいは鶴千代本人がいつしかそんな塵のことは失念して、どこかにやってしまったのだろう。

 今、彼の目につく所には見当たらなかった。

 そもそも、彼はもう桜の枝で負傷したことさえ覚えていない。

 お鍋の言う紫の紐が、鶴千代が負傷した時の包帯だと知れば、実隆には、それが信長がくれた物だとわかる筈なのだが。

 実隆はお鍋が鶴千代を気にかけている様子なのを察して、

「鶴千代。うちの子と遊んでやってくれないか?さっきからそなたと遊ぶんだと、そなたを探しておってな。むずかって、乳母の手を焼かせて困っている」

と退席させようとした。

 実隆の子は幼児で、鶴千代の遊び相手にはならない。

 子供は年下の方は年上を好いて、なんとかして遊んでもらおうとするものだが、年上の方はいやいや付き合ってやることが多い。しかし、今日初めて鶴千代は心から喜ぶ顔を見せた。

「はい!では」

 鶴千代はきちんとお辞儀をすると、飛ぶように去って行く。

 鶴千代には妹ばかりで、周りに男子がいないから、幼児であっても、従兄弟と遊べるのは嬉しいのかもしれない。

 鶴千代がいなくなってしまうと、お鍋は脇息にもたれかかりながら、ため息をついた。

「あの子はとても聡明で、鋭いのでしょう?」

「うん?」

「何か察しているのだと思います」

「──ああ、そうだな」

 実隆もまた暗い顔になった。

「蒲生家で、今、重要な決断を?」

 実隆は頷いた。そして、お鍋を惚れ惚れと眺めた。

「さすが鍋だな」

 侍女が数名入ってきて、お鍋の前に白湯や日野菜漬などを置いていった。

「鶴千代が持ってきた。よかったら食べてくつろげ。懐妊すると、味の好みが変わるらしいな。それで平気か?」

 日野菜を顎で指す実隆。彼の妻は懐妊中、甘い物ばかり所望するようになって困った。

「全然!まあ嬉しい。いただきます!」

 お鍋は好みが変わることもないし、悪阻もほとんどなく、やたら空腹で食べまくっていた。日野菜は相変わらず好物だ。

 日野菜を口にするお鍋に目を細めながら、実隆はさっきの話を続ける。

「父と兄が決断する。鶴千代にとって、よからぬ結果となるかもしれぬ。あの子は賢い。日野に置いておいたら、隠していても、きっと察知してしまうだろう。故に、預かってくれと頼まれてな。だが、そなたの言う通り、あの子はもう何か感づいている」

 お鍋は身ごもって母となったことで、鶴千代のような子供へ向ける思いが変わった。

 日野菜を飲み込むと、またため息をこぼす。

「やはり、あの子にとって気の毒な結果に?……いえ、それはお屋形様のお力を維持することにもなり、私は最近までそれを望んではいたけれど……いえいえ、まさか、お屋形様があんな暴挙に及ぶとは思わなかったから──」

 お鍋は六角四郎義弼に落胆した。

 お鍋は六角家に力があれば、これ以上浅井に靡く者もいなくなり、家中は安泰だと思っていた。小倉家を一つにまとめ、六角家中最大級の家となって、義弼を支えれば、蒲生家も同志となり、他の人々さえ義弼を支えるようになる。そうなれば、義弼は盤石。

 そう思っていたのだ。

 だから、最近のお鍋は、小倉家の結束に尽力していた。

 なのに──。

「後藤家は浅井に走ったとか?」

「そうなのだ。だが、仕方あるまい。浅井家中の上坂兵庫亮殿は後藤家から養子に入られた方。若い甥御だ、叔父御を頼る他あるまいよ」

 実は今、六角家中は存亡の危機と言えるほど、揺れに揺れていた。

 六角家中最大の重臣・後藤賢豊は、家中でも人望厚い立派な男であった。

 六角義弼は若く、家督を継いでからまだ日も浅い。その上、祖父や父ほど能力があるわけでもなかった。

 家臣達は、義弼に相談したり頼み事をすることはなく、専ら後藤賢豊を頼った。

 しかし、後藤家のしていることを専横と見る者は一人もいなかったのである。後藤家が率先して万事押し進めるおかげで、何事も円滑に進んでいた。

 しかし、そのことを主君である義弼は妬み、恨みに思った。主君である自分が蔑ろにされている。

 だから、義弼はある日突然、後藤賢豊父子を殺害してしまったのである。

 賢豊と嫡男は殺され、まだ若い次男だけが遺された。

 父も兄もなく、若過ぎる身で為す術もない次男・高治。

 復讐もできないし、だからといって、恭順する心などない。ひょっとしたら、さらに自分まで殺されるかもしれない。

 山崎宗家など、手を差しのべる人は多かったが、心配だ。だから、高治は叔父の上坂兵庫亮を頼ったのだ。

 上坂家は北近江の国人で、その地の守護・京極家に被官化しており、最初は同僚の浅井家の専横を認めなかったが、今はその家臣として従っている。

 上坂兵庫亮はその家に養子に入った。彼にとって、義弼に理由なく殺された後藤賢豊は実兄であり、頼ってきた高治は甥である。

 上坂家は六角家に当然激怒した。

 浅井家の若き当主・長政が、これを見逃すはずがない。上坂家と後藤高治の復讐心に便乗して、

「よし!六角家中を調略しろ。そして、六角領を攻め取ろう」

と、次々に六角の家臣たちを引き入れはじめた。

 後藤賢豊は人望厚かったし、六角義弼の暴挙に怒る者ばかりで、家中で義弼に従う者など、ほとんどなかった。

 浅井に誘われるままに、次々に六角から離れ、浅井に走る者が続出中なのである。

 浅井に靡かぬ者でも、義弼を許そうという者はなく、義弼は恐らく、家臣たちに捕らえられて幽閉されるか、追放されるだろう。

「時間の問題だな」

 実隆はそう呟いた。

 お鍋は目の前の日野菜を全て平らげてしまっていたが、ふと義兄に尋ねた。

「小倉家はどうするのですか?」

 小倉家とて、身の振り方については喧々囂々、鼎が沸くような騒ぎになっている。

 だが、実隆がはっきり決断せぬままに今日に至っているのだ。

 右近大夫などは、妻がその後藤賢豊の妹なだけに、

「浅井につくべし!」

と喚いて六角家から離反することを決めているし、右京亮は実隆の決定次第としている。

 懐妊中のお鍋と談笑しているような場合ではないはずだが、実隆がこう悠長なのは、きっと彼の意識がなお「蒲生実隆」であるためだ。

 お鍋は思った。

(我が殿が私を佐久良城に里帰りさせたのは、きっとわざとよね)

 単なる遊びに行って来いという意味ではないと、彼女は理解している。

「兄上!私が遊びに参りました理由はおわかりでしょうね?」

 お鍋はやや眉をつりあげ、凄んだ。実隆は少し困ったような顔になる。

「……わかってるよ。俺に浅井につけと言いたいんだろう?」

 お鍋は盛大にため息をついた。

「違います!兄上のご決断を促しに参ったのです」

 実隆はますます困惑していた。

「俺の決断だと?」

 実隆の意見なんぞ、小倉一門全てが聞き従うであろうか。

 浅井につくべしという右近大夫に賛同する者ばかりだし。

「浅井につくよう説得してこいとは右京亮殿は言いませんでした。右京亮殿は何も私に命じなかった」

(つまり、私の意見を好きに訴えて良いということよね?あるいは、兄上に決断を促せ、その決断に従うからという意味よ)

 いずれにせよ、実隆自身の意見を、決定を早く出せという意味なのに違いない。

「兄上は馬鹿じゃないのに、どうしてなの?」

「何っ?」

「どうしていつまでも蒲生家の言いなりなのです?兄上にはちゃんとご自分のご意見がおありではないですか。それなのに。兄上は小倉家の当主なんですよ!」

 実隆の態度が不甲斐なく思えた。きっと今回も、蒲生の父と兄の決定に従うつもりなのだ。

 彼はいつまでたっても小倉を蒲生の下風に立たせようとする。

「小倉は蒲生に属しているのではありません!」

 お鍋の言動に、実隆の表情が珍しく険しくなる。

「鍋、そなた偉くなったな」

 はっとした。実隆がそんな言い方をするとは思わなかった。

 だが、お鍋はそれでも怯まず続けた。

「父上──先代の三河守様のことで、小倉家が蒲生家を恨んでいたことは事実です。その蒲生家から来て当主になられた兄上を、小倉一門は確かに最初は受け付けなかった。でも、そんなの兄上次第でどうにでもなったはずなのに。未だに兄上を心底慕う者がいないのは、兄上がいつまでも蒲生家に従っておられるからよ!兄上のその態度、まるで小倉を蒲生に売り渡してしまうように見えるわ!兄上は蒲生実隆ではないんです。小倉家第一に考えて下さい!意見が合わねば、蒲生家と敵対して戦になるくらいの覚悟はないんですか?兄上さえ変われば、小倉の皆も兄上に従うのに。どうしてこんな単純なことにも気づかないのですか!」
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