小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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内訌

二・観音寺騒動(下)

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 夕方になり、お鍋は気分転換に外に出た。

 昼間、むっとして出て行ったまま、実隆は戻ってこない。夕食を一緒にとも言って寄越さなかった。

「ふう……」

(言い過ぎちゃったかしら……)

 広縁の、軒近くまで出てため息をつく。

 その時、しゅっとすぐ目の前を物体が掠め通った。

「ひっ!」

 お鍋は心臓を押さえながら、廊下にひっくり返った。

 どた、どんっと尻餅つくと、しゅっと庭の土に着地したそれは、驚いて振り返った。

 鶴千代だった。

 鶴千代は慌てて、

「わっ、すみません!」

と、お鍋に手を伸ばしてきた。

「びっびっくりした……突然、すぐ目の前に物が落ちてくるんだもの……」

「すみません……お腹、大丈夫ですか?」

 鶴千代の方も相当動転している様子で。びっくりしてひっくり返った拍子に、お腹の子に何かあったらどうしようと、青ざめている。

 お鍋は鶴千代の手を借りながら立ち上がると、自身の体を見回した。

 怪我もないし、どこも痛くない。その時、胎児にお腹を蹴られた。

「大丈夫よ。何ともないわ……」

 不意に背中から笑いがこみ上げてくる。

「若君、あなた、屋根から飛び降りたの?」

「はい」

 安心したのか、鶴千代の頬に赤みが戻ってきた。

「屋根を伝ってきたの?」

 屋根の上を歩いてきたにしては、全く音がしなかった。それに、まだ小さいのに、ひらりと容易に飛び降りるとは。

「猫みたいね」

 敏捷なのにも程がある。

「えへ」

 鶴千代が無邪気に笑った。

「将来、どんな武将になるのかしら?きっと一騎当千の猛者ね」

 目を爛々と輝かせ、素直に喜ぶ鶴千代は、子供らしい子供だ。

(よかった)

 お鍋はそう思った。だが、母になったが故か、目の前の子の母の心境を思わずにはいられない。

(この子と母上。可哀相なことにならないと良いのだけど……)

 蒲生賢秀の妻である、この鶴千代の母は、よりによって後藤賢豊の実妹なのである。

 兄と甥を主君に殺され、残された甥は浅井に走り。浅井家中にいるもう一人の兄が、殺された兄の報復をしようとしている。姉は婚家と常に一触即発の小倉右近大夫の妻で、右近大夫は浅井に走ろうとしていて。

 こんな状況に置かれているこの子の母なのだ。今は日野の蒲生家の中野城にいるはずである。

(日野で、いったいどんな思いでおられるやら)

 鶴千代の悪戯っ子の笑みが、お鍋には痛々しかった。




*****************************

 佐久良城に預けられていた鶴千代が、お鍋を驚かせていた頃、日野の中野城では、蒲生賢秀が父の定秀の来訪を受けていた。二人は、この事態をどう対処すべきかと、相談中である。

「馬渕家はさっさと浅井に寝返ったぞ。そちの母の実家や。さて、そちは何とする?」

 隠居の身。定秀は一応当主である息子の意見を聞いてみようと思ったらしい。

「主家に従いまする。それでは当家に得にならないと、反対でございますか?」

 賢秀は無愛想に言った。

「ふっふっふっ。わしが損得勘定しかできぬ人間みたいな言い種やなあ」

「お得意の損得を勘定なさっても、主家に従うべきと出るはずでござる。主が暗愚でも極悪でも、結局は主に逆らう者の方に、世間の風当たりは冷たいもの。返り忠者は好かれませぬ。世間さえ抑圧し得る圧倒的な力がなければ、下克上など成りませぬ。仮に下克上は成功しても、不忠者よと嫌われ、人々の支持は得られず、結局は忠義者を名乗る輩に討たれて自滅するだけです。主家にかなり不利な状況でも、余程の場合を除いては、主家側に立つ方が宜しゅうござる。主家から離れるは、主家滅ぶる時のみ」

「一理ある」

 定秀は苦笑した。だが、この慎重さは機を逃すことにもなりかねない。

(まあよいわい。これで六角家が滅亡するとも思われぬ。だが、今後、大きく衰退するはずや。ここは大恩売って──その後はわし一人で屋形を傀儡にできる、これは絶好の機会というものよ。大後藤を消してくれて、屋形には感謝せねばならぬしの。当家大躍進の好機だわい)

 定秀は笑って頷いた。

「よいよい。腐っても錦の御旗。錦の御旗は必ず常に手にしていなければならぬ。ふふふ、屋形を掌中にせよとは、息子よ、そちもなかなか狸よの」

 そう言われて、賢秀は密かに眉をひそめた。

(そんな理由で主家に従うなど、武士ではない)

 実直な彼にとって、父は時折、不気味な得体の知れない生き物だ。

 だが、定秀の心の奥底の憧憬を、息子は知らないだけである。

 定秀の心のどこかに、六角定頼の息子と孫を守ってやりたい気持ちがあるのだ。

(お屋形様、悲しいことですなあ……)

 定秀が心の中で屋形と呼びかける相手は、今でも先々代の六角定頼(江雲寺殿)だけである。

 六角の先々代は、定秀がこれまでに見た人間の中で最も優れた人物であり、彼以上の人間にはもはや出会えまい。唯一仕えたいと思える人物だ。

 その昔、内紛していた頃の蒲生は、幕府寄りの家だった。その当主を殺し、定秀が当主となれたのは、六角定頼の援護があったため。

 もともと定秀は六角家に、定頼に仕えたかった。幕府より、将軍より、定頼を尊敬していたからだ。

 近江の守護は北と南に分かれており、南は六角家、北はその分家の京極家が務めていた。しかし、京極家は専横著しい家臣達によって、力を失っていた。

 それを好機と見た定頼は北近江に侵攻、京極に取って代わった浅井を従わせ、版図を拡張させた。

 さらに、その身をおびやかされる将軍を匿い、支援し、幕府内で大きな力も持った。

 六角家の観音寺城は難攻不落の名城であり。その城下に楽市令を布いた。日本初の楽市は、商業を大きく発展させ、城下は賑わい、国は大変豊かになったのである。

 商業の発展こそ国の発展。そのような発想の為政者は少なかった。

 何もかもがそれまでと違っていた。定頼の発案、政策、力は定秀の憧れであり、その手足となって働けることが、若き日の定秀にとっての喜びだった。

 定秀が日野に中野城を築いた時、城下を商業都市にするべく楽市令を布いたのも、いち早く鉄砲の重要性に気づき、生産を思いついたのも、定頼の側にいて影響を受けていたからなのである。

 だから、未だに定頼が忘れられないし、その頃の六角家の繁栄と現状を比べると、悲しいばかりなのだ。それでも、全盛期の六角の名残にしがみつき、なお定頼の息子や孫を支えている。

 だが、定頼の子孫の不甲斐なさが腹立たしく、叫びたい気持ちもある。どうして承禎(義賢)も義弼も定頼の直系の孫子なのに、こんなにも愚かなのか。

「浅井が介入してきておるな。家中の多くが屋形に背いておる。浅井を観音寺城に導き入れるつもりか。これや危機的状況よの。何とかせにゃならんて」

 悠長な口調で、まるで他人事みたいに定秀は言った。

「はい」

「で?そちは嫁御に何と言い訳する気や?」

「言い訳とは──」

 賢秀があからさまに眉をしかめた。




 その時、お鍋不在の高野館には右近大夫が来ていて、自分の意見を右京亮に訴えていた。

「実隆の奴は蒲生の決定に従う気なのであろうが、わしはそれでよいと思うぞ」

 右京亮は右近大夫が珍しいことを言うものだと思った。

「何故そう思われる?」

 思わず問い返すと、右近大夫は当然のように言った。

「実隆の実兄の蒲生賢秀は、わしと同じで、後藤殿の妹君を妻としているではないか。蒲生は後藤殿に味方し、屋形に背くであろう」

 右近大夫は蒲生の離反を疑わない。

「それに、我らは地理的にも、後藤殿に同調しないと、危ない」

 右近大夫は部屋の壁を顎で指した。その壁の向こう、遥か彼方には伊勢がある。

「浅井家が介入してくるかもしれぬ。それや上坂殿が後藤殿の弟だからであろう。だが、忘れてはならぬ。伊勢にも後藤殿の身内はおる」

 千種家のことである。

 千種家は六角家によって攻め込まれた折、すぐに降伏して後藤家から養子を迎え、以降、六角家によく臣従していた。

 伊勢の千種家は、北近江の上坂家と血統的には同じなのである。千種家当主、上坂兵庫亮、小倉右近大夫の妻、蒲生賢秀の妻、後藤賢豊は実の兄弟だ。

「千種家も上坂殿と同じであろう。おそらく六角に怒り、出陣の支度さえしているやもしれぬ。万が一、我らが屋形に従うようなことになれば──真っ先に千種家の刃の餌食になるのは、我ら小倉よ」

 小倉家の所領は伊勢への交通の要所。しかも、所領の先にあるのは八風越だけではない、千草越もあるのである。小倉家は八風越と千草越、どちらの道も押さえているのだ。

「千草越から伊勢の面々が攻めてきたら、真っ先にこの小倉がやられる」

 伊勢から千草越え、または八風越えして近江に入れば、六角家中で最初に現れるのが小倉家である。

 そうした地理的理由からも、小倉は後藤に加勢し、六角に反抗するべきなのである。

「此度ばかりは、不本意だが、実隆に、いや、相婿の蒲生に同調するしかない」

「ふむ」

 右京亮も頷いた。

(さて、お鍋よ。佐久良はどんな様子だ?さだめし日野では紛糾していような。その勢い、佐久良にも伝染していようか)

 産み月まで二ヶ月強と迫った妻の身を、右京亮は案じた。




 後藤賢豊父子が殺されてから七日。

 十月八日のことだった。

 その未明、観音寺の城下に火の手が上がった。

 火は瞬く間に広がり、麓の大変に豊かな町を焼き、寺の中を燃やし尽くした。

 浅井方の軍勢による攻撃であった。

 その火が巨大な観音寺城にまで燃え広がるのは難しかろうが、軍勢は麓からどんどん城のある上へ上へと迫ってくる。

 後藤、永田、三上、池田の諸氏による攻撃である。彼らは六角家の重臣たちだが、浅井の力を頼み、決起したのだ。

 まさか、彼らが軍を動かすとは思ってもみなかった六角義弼は大いに慌てて逃げ惑い、

「種村種村!ひいい、どうすればよい!」

と、近くにいた種村という猛者に泣きついた。

「お任せを」

 種村は胸を張った。

 さすがに六角家である。種村の采配で瞬時に兵二千を集めると、速やかに観音寺城を落ち、日野へと逃亡した。

 種村に先導され、日野へ落ちる六角義弼。その父・先代の承禎入道義賢も観音寺城から逃げ出すしかなかった。

 義弼は蒲生定秀・賢秀父子を大変頼りにしていたし、日野は六角領内のはずれの方。謀反人達からは距離も離れていて安全だ。

 だが、義弼には不安と憤りがある。

「種村よ、蒲生の室は後藤の妹ぞ」

 そもそも、義弼にしてみたら、悪いのは後藤賢豊なのであって、自分ではない。賢豊は殺さなければならないほど悪いから、無礼討ちにしたのだ。

「それを逆恨みして、倅めが謀反した!よりによって兵を動かしよった!後藤の倅の罪は、親の数倍重い!」

 義弼は謀反人どもの兵によって拠城を追われ、地団駄踏んで袖を引きちぎって悔しがった。

「さような極悪の後藤の身内の蒲生なぞ──!」

 頼って行ったら、逆に義弼は生け捕りにされはしまいか。

 いやいや、それ以上にどうあっても許せぬ憎っき後藤の身内の顔を見たら、義弼は暴れてしまいそうだ。

「どうしても蒲生の室が許せぬ!日野へ行ったら、その女、斬り捨ててくれる!その首、槍の先に立てて、謀反人どもの奪いし我が城の門前に突き立ててくれるわ!」

「まあまあ」

 種村は宥めにかかる。

「左様なこと遊ばせば、蒲生殿に助けて頂けませぬぞ」

「しかし、後藤の二重の罪、とうてい許せぬ!その女の顔を見たら、わしは必ず斬らずにいられまい。生かしておけぬ、謀反人の女ぞ!」

 義弼は逆上しているので、手がつけられない。だが、種村は冷静だ。

「なに、ご心配遊ばすことなどございませぬよ」

 そう言っている間に日野に着き、二千の軍は中野城に迎え入れられた。

「これはこれは──」

 迎えた蒲生定秀・賢秀父子は頗る驚いたような様子を見せたが、

「我が蒲生を頼って下さるとは……」

と、やがて定秀は感激したように目を潤ませた。

「世話になる」

 そうは言ったが、義弼は不機嫌そのものであり。疑惑の眼差しを隠そうとはしなかった。

「賢秀、そちの妻は?」

 そう訊くと、賢秀は無表情を繕う頬に僅かに動揺を覗かせた。だが、傍らの定秀がすかさず、

「おりませぬ」

と答える。

「倅に妻はおりませぬ」

「む?」

 義弼が首を傾げると、定秀はもう涙の跡さえない目に、笑みをのせて言った。

「倅は独り身にござれば」

 そして、種村と目を合わせた。

(いないとな?いれば、斬り捨てるか、人質にして、謀叛人どもを嚇し、城を取り戻す駆け引きにも使えたがな……蒲生めはわしへの忠義のために、妻を離縁したのだろうから、ううむ……)

 義弼としては、世話になる以上、蒲生家の忠義を良しとするしかない。悩ましいところだが。
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