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人質
六・毒婦(弐)
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しばらくして、お鍋は濃姫たちと出発した。
岐阜を出たら、途中柏原で一泊するという。成菩提院だろう。
近江を通るというのは、お鍋を含め、人質の彼女たちには望郷の念が掻き立てられ、少々辛い。
だが、故郷近くは通らない。それがせめてもの救いか。
成菩提院で休んだ後は、米原を通って、朝妻港から船で琵琶湖を渡り、対岸へ向かうからである。北近江だけを通ることになる。
女性達はそれなりの人数があり、また、それぞれの役目を分担する上でも、京の都では、幾つかの寺院、邸に分かれて滞在するのがよい。
お鍋は人質ということもあるのだろう、監視がきく必要があるからなのか、濃姫と同じ宿所になった。本能寺である。
(村井殿の所が良かったな……)
内心そう思ったお鍋だったが、重宝するからと、同行することを許可された於巳が傍にいてくれるのは、心強い。
ここで、於巳は本領を発揮した。公家衆の取り次ぎや接待に、驚くほどの能力を見せたのだ。
これには濃姫はもちろん、お鍋さえも驚いた。おかげで、濃姫の覚えもめでたい。
「於巳なら、大臣家の女房どころか、内裏仕えさえできそうね」
お鍋はそう言って笑った。
一方のお鍋といえば、濃姫が、訪ねて来た貴人と対面する時に、上臈に混じって澄まして座っているくらい。まあ、気のきいた会話を一言二言、客人と交わす役目を果たしていたが。
大事な折衝や接待は、次第に専ら於巳に任されるようになっていった。お鍋は客人との挨拶以外、することもない。時々、新御所の普請現場を濃姫と見に行くくらいだ。
信長は昼間はだいたい普請現場で指揮をとっており、そうでない時は帝や将軍の使者等の要人、町方の長との面会ばかり。さらには、訪ねてくる大寺院の僧侶や文化人と談笑せねばならない。
濃姫を呼んだ割に、彼女と会うことなどさほどなかった。
そうしているうちに、三月を過ぎて――。
ある日、お鍋は濃姫に呼ばれた。
「上洛した当初は、面会の方々でひっきりなしでしたが、挨拶なさりたい方は、大方皆様お済みでしょう。私も大事な方々とご挨拶し、何度かお会いして、親交を持つこともできましたので、いつまでも岐阜を留守にするわけには参りませんから、そろそろ帰り、お屋形様のお留守をしっかとお守りしたいと思います。これから訪ねて来る方も勿論いらっしゃるでしょうが、それは挨拶などではなく、何事かの依頼や折衝事だと思いますので、何人か都に残し、その人たちに任せたいと思います」
濃姫は伴った女性達の一部をなお都に置いて、残りの人々と共に岐阜に帰るという。お鍋が呼ばれたのは、一緒に岐阜へと告げられるのか、あるいは――。
「お鍋様には、都に残り、引き続きお屋形様を手伝って頂きたいのです」
於巳の能力は貴重だ。於巳は都にいた方がよい。その主であるから、お鍋も残ることになるのだろうが。
それでも言わずにはいられない。
「人質の私がですか?御台様ご不在の時に、そのような大事を――」
「大丈夫。お鍋様は公家衆とのやり取りが、一番お上手でした」
濃姫は屈託なく笑う。確かに、濃姫の上臈衆の中で、お鍋が最も公家衆との会話がうまかった。
「つきましては、残る者たちの責任者として、指導をして頂きたいのです」
濃姫はそう言うが、どうして人質の身でそんなことができよう。だいたい、皆が従ってはくれまい。以前の逃亡の件は、信長のおかげで、もう嫌味を言う者さえいなくなったが、それでも皆、内心では批難しているだろう。そんなお鍋が上に立つとなれば、濃姫が不在ならば、皆反発するに違いない。
だが、濃姫は最初からお鍋の杞憂を見越していた。
やたらと唾を飲み下しているのは、なかなか言う勇気がないからだ。
(言う決心はしたのに!いいえ、言わなければならないのに!)
濃姫はぎゅっと腕に力を込め、自身の掌を握った。そして、ようやく切り出したのは。
「お屋形様ご寵愛の側室が、病なのです。茶筅の母も亡くなり、三七の母は伊勢に行くと言っています」
咄嗟に回りくどい言い方になったことに、濃姫はため息をつき、お鍋には話が見えず、首を傾げてしまった。
「これは、お屋形様のご内意でもあります。南近江を治めるためでもあるのです。縁を結び――」
ここで、お鍋は一つのことに閃いた。急にどきりとし、頭の中が血流でざわつく。
「小倉家は、かつて六角家、蒲生家と共に南近江の三大勢力で、幕臣でありました。六角家が守護になり、小倉家は被官化しましたが、もともとは六角家と十分張り合える家。だからこそ、織田家は小倉家と結び、南近江を治めたいと――」
やはりと、お鍋は予感の的中に、益々動悸を強くした。
「失礼は承知で申します」
と、ここまで言ったら、濃姫でもあとは一気に言えてしまった。
「お鍋様に、お屋形様の閨室にお入り頂きたいのです」
(冗談じゃないわ!)
お鍋は危うく口に出して罵りそうになった。辛うじて、無言でいることはできた。だが、顔の表情までは余裕がなく、心のままを表していた。
「お屋形様のご側室として、都をまとめて下さい」
濃姫はお鍋の怒りを感じながらも、言ってしまうとすっきりした。
お鍋はどう言えばよいかわからない。
(殿が亡くなったばかりなのよ!何言ってるの、この人!?そんなに人質は蔑ろにされていい、虫けら同然な存在なわけ?ご正室がそんなに偉いの?側室は虫けらなの?――小倉家の室なんて、そこまで馬鹿にされる存在なわけ?ええ、そうよ、正室だった私に、側室となることが屈辱なのも事実よ)
お鍋は自身の本音や意地、自尊心をも認めた上で、なお思う。
(私は殿の妻よ!殿は亡くなったばかりなのに……殿……殿!)
危うく悔し涙を滲ませそうになり、喉に力を込め、歯を食いしばって、堪えた。
「お断り致します」
ようやく口にすると、お鍋はもう一度言った。
「人質の分際で、ご寛大な仰せに逆らうのは、誠に無礼であると心得ますが、お断り致します。私に権力を下さろうというお気持ち、誠に有難く、もしも御台様ご不在の都に残ることで、私への風当たりを気にしてのお気遣いならば、以前、笠松殿から頂いたお話、於次丸様の乳母のお話を、賜りとうございます」
(それで済むのなら、どんなにか……)
濃姫は目を伏せ、溜め息を我慢した。
(お屋形様のご本心を言うことは……)
できない。言ったところで、お鍋が意固地になるだけだろう。
(いいえ、私が、私が堪えられないだけなのだわ)
濃姫は自身の中にある黒い塊を自覚していた。それでも、やはり信長の心を告げるつもりになれない。
濃姫は頭を振った。
「駄目です……それは、あなたにとっても良い結果になりません」
「どうして、私が若様の乳母ではならないのですか?」
「このままだと、小倉家は本当に滅んでしまいますよ、宜しいのですか?」
濃姫は、脅すというより、悲しげに、大袈裟に溜め息をついた。
「私がお鍋様に初めてお目にかかった頃から、十年は経ちましたか。あの頃から、小倉家とお鍋様は蒲生家に苦しめられていましたね。それは今でも変わらない。お鍋様は、蒲生家の勝手で人質に差し出されたと聞いております。私はあの十年前のことを忘れていません。だから、小倉家のことはどうにか守りたいと思っているのですよ。でも……」
濃姫の口振りからは、信長はもう小倉家なんかどうとも思っていないことが窺えた。
「お屋形様は蒲生家をお気に召しておいでなのです」
確かに、信長は人質の鶴千代を常に傍に置いて可愛がっている。お鍋の目には、蒲生家ではなく鶴千代という一人の少年を、信長が気に入っているだけのように見えていた。
「小倉家を残すためには、蒲生家と同じ土俵の上に立たなければ駄目です」
「仰有る意味が――」
お鍋が首を傾げると、濃姫はふわりと微笑み、語気も改めて言った。
「覚えておいでですか?十年前、私の娘が亡くなった時のことは?」
その言葉に、お鍋がごくりと唾を飲み込み、固まった。
濃姫は気にもとめず続ける。
「あの時、お屋形様が右京亮殿に預けて行った紫草の産衣。右京亮殿から渡された時には、すでに娘は亡くなっていて、あの子に着せてやることはできなかったのです……」
(ああ、私が呪ったから……!)
お鍋は耳を塞ぎたいのを堪える。
「でもね、その産衣は無駄にはならなかったのですよ。その後生まれた姫を代わりに包みましたから。紫草の布はその子のものです」
そんな言葉も半分しか耳に入ってこない。
(そうだ!私はきっと、どんなことでも従わなくちゃいけないんだ!この人の要求には逆らっちゃいけない……姫を殺したから……)
それでも、無表情は作れていたのだろうか、濃姫はお鍋に異変は感じず、なお平然と喋っている。
「あれは蒲生野の紫草で染めた近江の麻布らしいです。だから、あれを故郷に戻すおつもりなのです、お屋形様は。つまり、姫ごと、蒲生野に――」
「へ?」
不意に濃姫の声が打ち沈んで、お鍋は我に返った。
「え、姫様が蒲生野?」
意味がわからない。
濃姫は眉根を強く寄せ、まるで西施のように眉間の皺を深くした。
「以前、お鍋様の好物だという日野菜を取り寄せた時、その桜色に見とれていた娘。あの子……」
先を言おうとして、はたと濃姫は気がついた。冬姫が日野菜にも魅せられたことに。
(あの子っ!……)
「御台様?――あの時の、たいそう愛らしい姫様のことでしたら、よく覚えております。姫様が――?」
「ああ、運命か……なれば、避けられぬ……」
濃姫はそこで、気持ちを切り替えたのか、眉を真っ直ぐにし、強い眼差しでお鍋を真っ正面から見た。
「あの子は冬姫。紫草の布の持ち主です。お屋形様は姫を蒲生家の鶴千代に賜るおつもりなのです」
「……?」
「六角家の代わりに、蒲生家を南近江の主とし、冬姫をそこに据え――。よいですか、お鍋様。織田家は蒲生家と縁を結ぶのですよ。となれば、小倉家がどうなるか、目に見えてますよね?」
はっとした。お鍋の脳裡に、蒲生定秀の黒い笑顔が浮かんだ。
「つ、つまり……蒲生殿がお屋形様のお身内となれば、それをよいことに、更なる専横、横暴に及び、小倉家を根こそぎ奪ってしまうというのですか?」
本家だけにとどまらず、分家一門眷属全て、我が物にしてしまうというのか。
「で、ですが。お屋形様は分家の所領安堵をお約束下さいました。蒲生家へも、分家に一切介入してはならないと――」
自分を納得させるように、お鍋は反論するが。濃姫は冷静に首を横に振った。
「蒲生家は五万石あるかないか。蒲生家が望めば――。お屋形様としても、可愛い姫の嫁ぎ先、ご祝儀として――。それに、理不尽なことであっても、蒲生家の望みは聞いてしまわれるであろうほどに、お屋形様は蒲生家を、鶴千代を盲目的にお気に召しておいでなのです」
濃姫の口振りでは、彼女は蒲生家が大きくなることを望んでいないようであった。
「御台様は、姫様を蒲生家に賜ることには、反対なのでしょうか?」
お鍋が恐る恐る尋ねると、やはり濃姫は首を左右に振り、けれど、きっぱり言った。
「お屋形様のお決めになったことに意見するなど、まして覆すなど、決して誰にもできません。冬を蒲生家にやることは決定してしまったこと。故に、対処方法が必要なのです。南近江を蒲生一人に任せられるとは思っていません。有力な家は他にもありますから。蒲生家だけ取り立てれば、対立が起きましょう」
進藤家はじめ、六角旧重臣層が黙ってはいるまい。蒲生家一家のみと、婚姻関係になるわけにはいかないのだ。
「わかりますね?だから、織田家は進藤家とも小倉家とも結ばねばならぬのですよ。お鍋様は於次丸の乳母などでは駄目なのです。お屋形様の側室でなければ。これは、小倉家が生き残る道でもあります。お屋形様の側室となって小倉家を守り、お屋形様のお子を産んで、小倉家と織田家との絆を深めなされ」
「や、それとこれとは――」
お鍋は濃姫の強い眼光にたじろいだ。
(私は、でも、殿を亡くしたばかりで……殿を……殿……)
「それに、お鍋様は私の味方。そうでしょう?」
何故か濃姫の口はそんなことを喋っていた。
「私だって味方が欲しいもの。お屋形様の側室は、私に近い人が望ましいのです。私は三十路の半ばを過ぎて、もう子を産むのも難しくなってきましたし――。私を裏切らず、織田家の中にあって私を支えて下さる側室が欲しいのです」
本当は、そんなことが言いたかったわけではない。だが、悪ぶる言い方しかできない自身を、濃姫は訝しく思う。
(お屋形様の目指される天下布武を、支えることができるのは、私と、そして、お鍋様だけなのだ。戦は摂理だとお屋形様に言ったお鍋様だけ)
本当は一緒に信長の天下布武を支えて行こうと言うべきなのに。
「私は以前お鍋様を、忍びを使って小倉城から助け出しました。お鍋様の以前の逃亡も不問にしました」
お鍋には濃姫に借りがある。
「だから、お鍋様は私の味方。そうでしょう?」
(ああ、この口はどうしてこんなことを言うのかしら!お屋形様のお心を言わないで、こんなことばかり勝手に!)
濃姫の口元を睨むお鍋同様、濃姫も見えぬ自身の口元を睨む思いだった。
岐阜を出たら、途中柏原で一泊するという。成菩提院だろう。
近江を通るというのは、お鍋を含め、人質の彼女たちには望郷の念が掻き立てられ、少々辛い。
だが、故郷近くは通らない。それがせめてもの救いか。
成菩提院で休んだ後は、米原を通って、朝妻港から船で琵琶湖を渡り、対岸へ向かうからである。北近江だけを通ることになる。
女性達はそれなりの人数があり、また、それぞれの役目を分担する上でも、京の都では、幾つかの寺院、邸に分かれて滞在するのがよい。
お鍋は人質ということもあるのだろう、監視がきく必要があるからなのか、濃姫と同じ宿所になった。本能寺である。
(村井殿の所が良かったな……)
内心そう思ったお鍋だったが、重宝するからと、同行することを許可された於巳が傍にいてくれるのは、心強い。
ここで、於巳は本領を発揮した。公家衆の取り次ぎや接待に、驚くほどの能力を見せたのだ。
これには濃姫はもちろん、お鍋さえも驚いた。おかげで、濃姫の覚えもめでたい。
「於巳なら、大臣家の女房どころか、内裏仕えさえできそうね」
お鍋はそう言って笑った。
一方のお鍋といえば、濃姫が、訪ねて来た貴人と対面する時に、上臈に混じって澄まして座っているくらい。まあ、気のきいた会話を一言二言、客人と交わす役目を果たしていたが。
大事な折衝や接待は、次第に専ら於巳に任されるようになっていった。お鍋は客人との挨拶以外、することもない。時々、新御所の普請現場を濃姫と見に行くくらいだ。
信長は昼間はだいたい普請現場で指揮をとっており、そうでない時は帝や将軍の使者等の要人、町方の長との面会ばかり。さらには、訪ねてくる大寺院の僧侶や文化人と談笑せねばならない。
濃姫を呼んだ割に、彼女と会うことなどさほどなかった。
そうしているうちに、三月を過ぎて――。
ある日、お鍋は濃姫に呼ばれた。
「上洛した当初は、面会の方々でひっきりなしでしたが、挨拶なさりたい方は、大方皆様お済みでしょう。私も大事な方々とご挨拶し、何度かお会いして、親交を持つこともできましたので、いつまでも岐阜を留守にするわけには参りませんから、そろそろ帰り、お屋形様のお留守をしっかとお守りしたいと思います。これから訪ねて来る方も勿論いらっしゃるでしょうが、それは挨拶などではなく、何事かの依頼や折衝事だと思いますので、何人か都に残し、その人たちに任せたいと思います」
濃姫は伴った女性達の一部をなお都に置いて、残りの人々と共に岐阜に帰るという。お鍋が呼ばれたのは、一緒に岐阜へと告げられるのか、あるいは――。
「お鍋様には、都に残り、引き続きお屋形様を手伝って頂きたいのです」
於巳の能力は貴重だ。於巳は都にいた方がよい。その主であるから、お鍋も残ることになるのだろうが。
それでも言わずにはいられない。
「人質の私がですか?御台様ご不在の時に、そのような大事を――」
「大丈夫。お鍋様は公家衆とのやり取りが、一番お上手でした」
濃姫は屈託なく笑う。確かに、濃姫の上臈衆の中で、お鍋が最も公家衆との会話がうまかった。
「つきましては、残る者たちの責任者として、指導をして頂きたいのです」
濃姫はそう言うが、どうして人質の身でそんなことができよう。だいたい、皆が従ってはくれまい。以前の逃亡の件は、信長のおかげで、もう嫌味を言う者さえいなくなったが、それでも皆、内心では批難しているだろう。そんなお鍋が上に立つとなれば、濃姫が不在ならば、皆反発するに違いない。
だが、濃姫は最初からお鍋の杞憂を見越していた。
やたらと唾を飲み下しているのは、なかなか言う勇気がないからだ。
(言う決心はしたのに!いいえ、言わなければならないのに!)
濃姫はぎゅっと腕に力を込め、自身の掌を握った。そして、ようやく切り出したのは。
「お屋形様ご寵愛の側室が、病なのです。茶筅の母も亡くなり、三七の母は伊勢に行くと言っています」
咄嗟に回りくどい言い方になったことに、濃姫はため息をつき、お鍋には話が見えず、首を傾げてしまった。
「これは、お屋形様のご内意でもあります。南近江を治めるためでもあるのです。縁を結び――」
ここで、お鍋は一つのことに閃いた。急にどきりとし、頭の中が血流でざわつく。
「小倉家は、かつて六角家、蒲生家と共に南近江の三大勢力で、幕臣でありました。六角家が守護になり、小倉家は被官化しましたが、もともとは六角家と十分張り合える家。だからこそ、織田家は小倉家と結び、南近江を治めたいと――」
やはりと、お鍋は予感の的中に、益々動悸を強くした。
「失礼は承知で申します」
と、ここまで言ったら、濃姫でもあとは一気に言えてしまった。
「お鍋様に、お屋形様の閨室にお入り頂きたいのです」
(冗談じゃないわ!)
お鍋は危うく口に出して罵りそうになった。辛うじて、無言でいることはできた。だが、顔の表情までは余裕がなく、心のままを表していた。
「お屋形様のご側室として、都をまとめて下さい」
濃姫はお鍋の怒りを感じながらも、言ってしまうとすっきりした。
お鍋はどう言えばよいかわからない。
(殿が亡くなったばかりなのよ!何言ってるの、この人!?そんなに人質は蔑ろにされていい、虫けら同然な存在なわけ?ご正室がそんなに偉いの?側室は虫けらなの?――小倉家の室なんて、そこまで馬鹿にされる存在なわけ?ええ、そうよ、正室だった私に、側室となることが屈辱なのも事実よ)
お鍋は自身の本音や意地、自尊心をも認めた上で、なお思う。
(私は殿の妻よ!殿は亡くなったばかりなのに……殿……殿!)
危うく悔し涙を滲ませそうになり、喉に力を込め、歯を食いしばって、堪えた。
「お断り致します」
ようやく口にすると、お鍋はもう一度言った。
「人質の分際で、ご寛大な仰せに逆らうのは、誠に無礼であると心得ますが、お断り致します。私に権力を下さろうというお気持ち、誠に有難く、もしも御台様ご不在の都に残ることで、私への風当たりを気にしてのお気遣いならば、以前、笠松殿から頂いたお話、於次丸様の乳母のお話を、賜りとうございます」
(それで済むのなら、どんなにか……)
濃姫は目を伏せ、溜め息を我慢した。
(お屋形様のご本心を言うことは……)
できない。言ったところで、お鍋が意固地になるだけだろう。
(いいえ、私が、私が堪えられないだけなのだわ)
濃姫は自身の中にある黒い塊を自覚していた。それでも、やはり信長の心を告げるつもりになれない。
濃姫は頭を振った。
「駄目です……それは、あなたにとっても良い結果になりません」
「どうして、私が若様の乳母ではならないのですか?」
「このままだと、小倉家は本当に滅んでしまいますよ、宜しいのですか?」
濃姫は、脅すというより、悲しげに、大袈裟に溜め息をついた。
「私がお鍋様に初めてお目にかかった頃から、十年は経ちましたか。あの頃から、小倉家とお鍋様は蒲生家に苦しめられていましたね。それは今でも変わらない。お鍋様は、蒲生家の勝手で人質に差し出されたと聞いております。私はあの十年前のことを忘れていません。だから、小倉家のことはどうにか守りたいと思っているのですよ。でも……」
濃姫の口振りからは、信長はもう小倉家なんかどうとも思っていないことが窺えた。
「お屋形様は蒲生家をお気に召しておいでなのです」
確かに、信長は人質の鶴千代を常に傍に置いて可愛がっている。お鍋の目には、蒲生家ではなく鶴千代という一人の少年を、信長が気に入っているだけのように見えていた。
「小倉家を残すためには、蒲生家と同じ土俵の上に立たなければ駄目です」
「仰有る意味が――」
お鍋が首を傾げると、濃姫はふわりと微笑み、語気も改めて言った。
「覚えておいでですか?十年前、私の娘が亡くなった時のことは?」
その言葉に、お鍋がごくりと唾を飲み込み、固まった。
濃姫は気にもとめず続ける。
「あの時、お屋形様が右京亮殿に預けて行った紫草の産衣。右京亮殿から渡された時には、すでに娘は亡くなっていて、あの子に着せてやることはできなかったのです……」
(ああ、私が呪ったから……!)
お鍋は耳を塞ぎたいのを堪える。
「でもね、その産衣は無駄にはならなかったのですよ。その後生まれた姫を代わりに包みましたから。紫草の布はその子のものです」
そんな言葉も半分しか耳に入ってこない。
(そうだ!私はきっと、どんなことでも従わなくちゃいけないんだ!この人の要求には逆らっちゃいけない……姫を殺したから……)
それでも、無表情は作れていたのだろうか、濃姫はお鍋に異変は感じず、なお平然と喋っている。
「あれは蒲生野の紫草で染めた近江の麻布らしいです。だから、あれを故郷に戻すおつもりなのです、お屋形様は。つまり、姫ごと、蒲生野に――」
「へ?」
不意に濃姫の声が打ち沈んで、お鍋は我に返った。
「え、姫様が蒲生野?」
意味がわからない。
濃姫は眉根を強く寄せ、まるで西施のように眉間の皺を深くした。
「以前、お鍋様の好物だという日野菜を取り寄せた時、その桜色に見とれていた娘。あの子……」
先を言おうとして、はたと濃姫は気がついた。冬姫が日野菜にも魅せられたことに。
(あの子っ!……)
「御台様?――あの時の、たいそう愛らしい姫様のことでしたら、よく覚えております。姫様が――?」
「ああ、運命か……なれば、避けられぬ……」
濃姫はそこで、気持ちを切り替えたのか、眉を真っ直ぐにし、強い眼差しでお鍋を真っ正面から見た。
「あの子は冬姫。紫草の布の持ち主です。お屋形様は姫を蒲生家の鶴千代に賜るおつもりなのです」
「……?」
「六角家の代わりに、蒲生家を南近江の主とし、冬姫をそこに据え――。よいですか、お鍋様。織田家は蒲生家と縁を結ぶのですよ。となれば、小倉家がどうなるか、目に見えてますよね?」
はっとした。お鍋の脳裡に、蒲生定秀の黒い笑顔が浮かんだ。
「つ、つまり……蒲生殿がお屋形様のお身内となれば、それをよいことに、更なる専横、横暴に及び、小倉家を根こそぎ奪ってしまうというのですか?」
本家だけにとどまらず、分家一門眷属全て、我が物にしてしまうというのか。
「で、ですが。お屋形様は分家の所領安堵をお約束下さいました。蒲生家へも、分家に一切介入してはならないと――」
自分を納得させるように、お鍋は反論するが。濃姫は冷静に首を横に振った。
「蒲生家は五万石あるかないか。蒲生家が望めば――。お屋形様としても、可愛い姫の嫁ぎ先、ご祝儀として――。それに、理不尽なことであっても、蒲生家の望みは聞いてしまわれるであろうほどに、お屋形様は蒲生家を、鶴千代を盲目的にお気に召しておいでなのです」
濃姫の口振りでは、彼女は蒲生家が大きくなることを望んでいないようであった。
「御台様は、姫様を蒲生家に賜ることには、反対なのでしょうか?」
お鍋が恐る恐る尋ねると、やはり濃姫は首を左右に振り、けれど、きっぱり言った。
「お屋形様のお決めになったことに意見するなど、まして覆すなど、決して誰にもできません。冬を蒲生家にやることは決定してしまったこと。故に、対処方法が必要なのです。南近江を蒲生一人に任せられるとは思っていません。有力な家は他にもありますから。蒲生家だけ取り立てれば、対立が起きましょう」
進藤家はじめ、六角旧重臣層が黙ってはいるまい。蒲生家一家のみと、婚姻関係になるわけにはいかないのだ。
「わかりますね?だから、織田家は進藤家とも小倉家とも結ばねばならぬのですよ。お鍋様は於次丸の乳母などでは駄目なのです。お屋形様の側室でなければ。これは、小倉家が生き残る道でもあります。お屋形様の側室となって小倉家を守り、お屋形様のお子を産んで、小倉家と織田家との絆を深めなされ」
「や、それとこれとは――」
お鍋は濃姫の強い眼光にたじろいだ。
(私は、でも、殿を亡くしたばかりで……殿を……殿……)
「それに、お鍋様は私の味方。そうでしょう?」
何故か濃姫の口はそんなことを喋っていた。
「私だって味方が欲しいもの。お屋形様の側室は、私に近い人が望ましいのです。私は三十路の半ばを過ぎて、もう子を産むのも難しくなってきましたし――。私を裏切らず、織田家の中にあって私を支えて下さる側室が欲しいのです」
本当は、そんなことが言いたかったわけではない。だが、悪ぶる言い方しかできない自身を、濃姫は訝しく思う。
(お屋形様の目指される天下布武を、支えることができるのは、私と、そして、お鍋様だけなのだ。戦は摂理だとお屋形様に言ったお鍋様だけ)
本当は一緒に信長の天下布武を支えて行こうと言うべきなのに。
「私は以前お鍋様を、忍びを使って小倉城から助け出しました。お鍋様の以前の逃亡も不問にしました」
お鍋には濃姫に借りがある。
「だから、お鍋様は私の味方。そうでしょう?」
(ああ、この口はどうしてこんなことを言うのかしら!お屋形様のお心を言わないで、こんなことばかり勝手に!)
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ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
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