小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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人質

六・毒婦(弐)

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 しばらくして、お鍋は濃姫たちと出発した。

 岐阜を出たら、途中柏原で一泊するという。成菩提院だろう。

 近江を通るというのは、お鍋を含め、人質の彼女たちには望郷の念が掻き立てられ、少々辛い。

 だが、故郷近くは通らない。それがせめてもの救いか。

 成菩提院で休んだ後は、米原を通って、朝妻港から船で琵琶湖を渡り、対岸へ向かうからである。北近江だけを通ることになる。

 女性達はそれなりの人数があり、また、それぞれの役目を分担する上でも、京の都では、幾つかの寺院、邸に分かれて滞在するのがよい。

 お鍋は人質ということもあるのだろう、監視がきく必要があるからなのか、濃姫と同じ宿所になった。本能寺である。

(村井殿の所が良かったな……)

 内心そう思ったお鍋だったが、重宝するからと、同行することを許可された於巳が傍にいてくれるのは、心強い。

 ここで、於巳は本領を発揮した。公家衆の取り次ぎや接待に、驚くほどの能力を見せたのだ。

 これには濃姫はもちろん、お鍋さえも驚いた。おかげで、濃姫の覚えもめでたい。

「於巳なら、大臣家の女房どころか、内裏仕えさえできそうね」

 お鍋はそう言って笑った。

 一方のお鍋といえば、濃姫が、訪ねて来た貴人と対面する時に、上臈に混じって澄まして座っているくらい。まあ、気のきいた会話を一言二言、客人と交わす役目を果たしていたが。

 大事な折衝や接待は、次第に専ら於巳に任されるようになっていった。お鍋は客人との挨拶以外、することもない。時々、新御所の普請現場を濃姫と見に行くくらいだ。

 信長は昼間はだいたい普請現場で指揮をとっており、そうでない時は帝や将軍の使者等の要人、町方の長との面会ばかり。さらには、訪ねてくる大寺院の僧侶や文化人と談笑せねばならない。

 濃姫を呼んだ割に、彼女と会うことなどさほどなかった。

 そうしているうちに、三月を過ぎて――。

 ある日、お鍋は濃姫に呼ばれた。

「上洛した当初は、面会の方々でひっきりなしでしたが、挨拶なさりたい方は、大方皆様お済みでしょう。私も大事な方々とご挨拶し、何度かお会いして、親交を持つこともできましたので、いつまでも岐阜を留守にするわけには参りませんから、そろそろ帰り、お屋形様のお留守をしっかとお守りしたいと思います。これから訪ねて来る方も勿論いらっしゃるでしょうが、それは挨拶などではなく、何事かの依頼や折衝事だと思いますので、何人か都に残し、その人たちに任せたいと思います」

 濃姫は伴った女性達の一部をなお都に置いて、残りの人々と共に岐阜に帰るという。お鍋が呼ばれたのは、一緒に岐阜へと告げられるのか、あるいは――。

「お鍋様には、都に残り、引き続きお屋形様を手伝って頂きたいのです」

 於巳の能力は貴重だ。於巳は都にいた方がよい。その主であるから、お鍋も残ることになるのだろうが。

 それでも言わずにはいられない。

「人質の私がですか?御台様ご不在の時に、そのような大事を――」

「大丈夫。お鍋様は公家衆とのやり取りが、一番お上手でした」

 濃姫は屈託なく笑う。確かに、濃姫の上臈衆の中で、お鍋が最も公家衆との会話がうまかった。

「つきましては、残る者たちの責任者として、指導をして頂きたいのです」

 濃姫はそう言うが、どうして人質の身でそんなことができよう。だいたい、皆が従ってはくれまい。以前の逃亡の件は、信長のおかげで、もう嫌味を言う者さえいなくなったが、それでも皆、内心では批難しているだろう。そんなお鍋が上に立つとなれば、濃姫が不在ならば、皆反発するに違いない。

 だが、濃姫は最初からお鍋の杞憂を見越していた。

 やたらと唾を飲み下しているのは、なかなか言う勇気がないからだ。

(言う決心はしたのに!いいえ、言わなければならないのに!)

 濃姫はぎゅっと腕に力を込め、自身の掌を握った。そして、ようやく切り出したのは。

「お屋形様ご寵愛の側室が、病なのです。茶筅の母も亡くなり、三七の母は伊勢に行くと言っています」

 咄嗟に回りくどい言い方になったことに、濃姫はため息をつき、お鍋には話が見えず、首を傾げてしまった。

「これは、お屋形様のご内意でもあります。南近江を治めるためでもあるのです。縁を結び――」

 ここで、お鍋は一つのことに閃いた。急にどきりとし、頭の中が血流でざわつく。

「小倉家は、かつて六角家、蒲生家と共に南近江の三大勢力で、幕臣でありました。六角家が守護になり、小倉家は被官化しましたが、もともとは六角家と十分張り合える家。だからこそ、織田家は小倉家と結び、南近江を治めたいと――」

 やはりと、お鍋は予感の的中に、益々動悸を強くした。

「失礼は承知で申します」

と、ここまで言ったら、濃姫でもあとは一気に言えてしまった。

「お鍋様に、お屋形様の閨室にお入り頂きたいのです」

(冗談じゃないわ!)

 お鍋は危うく口に出して罵りそうになった。辛うじて、無言でいることはできた。だが、顔の表情までは余裕がなく、心のままを表していた。

「お屋形様のご側室として、都をまとめて下さい」

 濃姫はお鍋の怒りを感じながらも、言ってしまうとすっきりした。

 お鍋はどう言えばよいかわからない。

(殿が亡くなったばかりなのよ!何言ってるの、この人!?そんなに人質は蔑ろにされていい、虫けら同然な存在なわけ?ご正室がそんなに偉いの?側室は虫けらなの?――小倉家の室なんて、そこまで馬鹿にされる存在なわけ?ええ、そうよ、正室だった私に、側室となることが屈辱なのも事実よ)

 お鍋は自身の本音や意地、自尊心をも認めた上で、なお思う。

(私は殿の妻よ!殿は亡くなったばかりなのに……殿……殿!)

 危うく悔し涙を滲ませそうになり、喉に力を込め、歯を食いしばって、堪えた。

「お断り致します」

 ようやく口にすると、お鍋はもう一度言った。

「人質の分際で、ご寛大な仰せに逆らうのは、誠に無礼であると心得ますが、お断り致します。私に権力を下さろうというお気持ち、誠に有難く、もしも御台様ご不在の都に残ることで、私への風当たりを気にしてのお気遣いならば、以前、笠松殿から頂いたお話、於次丸様の乳母のお話を、賜りとうございます」

(それで済むのなら、どんなにか……)

 濃姫は目を伏せ、溜め息を我慢した。

(お屋形様のご本心を言うことは……)

 できない。言ったところで、お鍋が意固地になるだけだろう。

(いいえ、私が、私が堪えられないだけなのだわ)

 濃姫は自身の中にある黒い塊を自覚していた。それでも、やはり信長の心を告げるつもりになれない。

 濃姫は頭を振った。

「駄目です……それは、あなたにとっても良い結果になりません」

「どうして、私が若様の乳母ではならないのですか?」

「このままだと、小倉家は本当に滅んでしまいますよ、宜しいのですか?」

 濃姫は、脅すというより、悲しげに、大袈裟に溜め息をついた。

「私がお鍋様に初めてお目にかかった頃から、十年は経ちましたか。あの頃から、小倉家とお鍋様は蒲生家に苦しめられていましたね。それは今でも変わらない。お鍋様は、蒲生家の勝手で人質に差し出されたと聞いております。私はあの十年前のことを忘れていません。だから、小倉家のことはどうにか守りたいと思っているのですよ。でも……」

 濃姫の口振りからは、信長はもう小倉家なんかどうとも思っていないことが窺えた。

「お屋形様は蒲生家をお気に召しておいでなのです」

 確かに、信長は人質の鶴千代を常に傍に置いて可愛がっている。お鍋の目には、蒲生家ではなく鶴千代という一人の少年を、信長が気に入っているだけのように見えていた。

「小倉家を残すためには、蒲生家と同じ土俵の上に立たなければ駄目です」

「仰有る意味が――」

 お鍋が首を傾げると、濃姫はふわりと微笑み、語気も改めて言った。

「覚えておいでですか?十年前、私の娘が亡くなった時のことは?」

 その言葉に、お鍋がごくりと唾を飲み込み、固まった。

 濃姫は気にもとめず続ける。

「あの時、お屋形様が右京亮殿に預けて行った紫草の産衣。右京亮殿から渡された時には、すでに娘は亡くなっていて、あの子に着せてやることはできなかったのです……」

(ああ、私が呪ったから……!)

 お鍋は耳を塞ぎたいのを堪える。

「でもね、その産衣は無駄にはならなかったのですよ。その後生まれた姫を代わりに包みましたから。紫草の布はその子のものです」

 そんな言葉も半分しか耳に入ってこない。

(そうだ!私はきっと、どんなことでも従わなくちゃいけないんだ!この人の要求には逆らっちゃいけない……姫を殺したから……)

 それでも、無表情は作れていたのだろうか、濃姫はお鍋に異変は感じず、なお平然と喋っている。

「あれは蒲生野の紫草で染めた近江の麻布らしいです。だから、あれを故郷に戻すおつもりなのです、お屋形様は。つまり、姫ごと、蒲生野に――」

「へ?」

 不意に濃姫の声が打ち沈んで、お鍋は我に返った。

「え、姫様が蒲生野?」

 意味がわからない。

 濃姫は眉根を強く寄せ、まるで西施のように眉間の皺を深くした。

「以前、お鍋様の好物だという日野菜を取り寄せた時、その桜色に見とれていた娘。あの子……」

 先を言おうとして、はたと濃姫は気がついた。冬姫が日野菜にも魅せられたことに。

(あの子っ!……)

「御台様?――あの時の、たいそう愛らしい姫様のことでしたら、よく覚えております。姫様が――?」

「ああ、運命か……なれば、避けられぬ……」

 濃姫はそこで、気持ちを切り替えたのか、眉を真っ直ぐにし、強い眼差しでお鍋を真っ正面から見た。

「あの子は冬姫。紫草の布の持ち主です。お屋形様は姫を蒲生家の鶴千代に賜るおつもりなのです」

「……?」

「六角家の代わりに、蒲生家を南近江の主とし、冬姫をそこに据え――。よいですか、お鍋様。織田家は蒲生家と縁を結ぶのですよ。となれば、小倉家がどうなるか、目に見えてますよね?」

 はっとした。お鍋の脳裡に、蒲生定秀の黒い笑顔が浮かんだ。

「つ、つまり……蒲生殿がお屋形様のお身内となれば、それをよいことに、更なる専横、横暴に及び、小倉家を根こそぎ奪ってしまうというのですか?」

 本家だけにとどまらず、分家一門眷属全て、我が物にしてしまうというのか。

「で、ですが。お屋形様は分家の所領安堵をお約束下さいました。蒲生家へも、分家に一切介入してはならないと――」

 自分を納得させるように、お鍋は反論するが。濃姫は冷静に首を横に振った。

「蒲生家は五万石あるかないか。蒲生家が望めば――。お屋形様としても、可愛い姫の嫁ぎ先、ご祝儀として――。それに、理不尽なことであっても、蒲生家の望みは聞いてしまわれるであろうほどに、お屋形様は蒲生家を、鶴千代を盲目的にお気に召しておいでなのです」

 濃姫の口振りでは、彼女は蒲生家が大きくなることを望んでいないようであった。

「御台様は、姫様を蒲生家に賜ることには、反対なのでしょうか?」

 お鍋が恐る恐る尋ねると、やはり濃姫は首を左右に振り、けれど、きっぱり言った。

「お屋形様のお決めになったことに意見するなど、まして覆すなど、決して誰にもできません。冬を蒲生家にやることは決定してしまったこと。故に、対処方法が必要なのです。南近江を蒲生一人に任せられるとは思っていません。有力な家は他にもありますから。蒲生家だけ取り立てれば、対立が起きましょう」

 進藤家はじめ、六角旧重臣層が黙ってはいるまい。蒲生家一家のみと、婚姻関係になるわけにはいかないのだ。

「わかりますね?だから、織田家は進藤家とも小倉家とも結ばねばならぬのですよ。お鍋様は於次丸の乳母などでは駄目なのです。お屋形様の側室でなければ。これは、小倉家が生き残る道でもあります。お屋形様の側室となって小倉家を守り、お屋形様のお子を産んで、小倉家と織田家との絆を深めなされ」

「や、それとこれとは――」

 お鍋は濃姫の強い眼光にたじろいだ。

(私は、でも、殿を亡くしたばかりで……殿を……殿……)

「それに、お鍋様は私の味方。そうでしょう?」

 何故か濃姫の口はそんなことを喋っていた。

「私だって味方が欲しいもの。お屋形様の側室は、私に近い人が望ましいのです。私は三十路の半ばを過ぎて、もう子を産むのも難しくなってきましたし――。私を裏切らず、織田家の中にあって私を支えて下さる側室が欲しいのです」

 本当は、そんなことが言いたかったわけではない。だが、悪ぶる言い方しかできない自身を、濃姫は訝しく思う。

(お屋形様の目指される天下布武を、支えることができるのは、私と、そして、お鍋様だけなのだ。戦は摂理だとお屋形様に言ったお鍋様だけ)

 本当は一緒に信長の天下布武を支えて行こうと言うべきなのに。

「私は以前お鍋様を、忍びを使って小倉城から助け出しました。お鍋様の以前の逃亡も不問にしました」

 お鍋には濃姫に借りがある。

「だから、お鍋様は私の味方。そうでしょう?」

(ああ、この口はどうしてこんなことを言うのかしら!お屋形様のお心を言わないで、こんなことばかり勝手に!)

 濃姫の口元を睨むお鍋同様、濃姫も見えぬ自身の口元を睨む思いだった。
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