小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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人質

七・毒婦(参)

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 濃姫が岐阜に戻った日の夜、数日ぶりで信長が宿に姿を現した。夕刻であり、信長はお鍋を夕食に誘った。

 何事か話があるに違いない。話の内容は予想がつく。

 お鍋は敢えて夫にもらった着物で全身をかため、信長に対峙した。

 小姓たちがやって来て、配膳して行くが、その中に鶴千代を見つけると、つい睨んでしまう。

 信長は気づいたのか、ぷぷぷと笑った。

 信長はお鍋を前にすると、しばしば調子が狂う。やがて、小姓たちが去ると、げらげら声をあげ出した。

 いつかのように。十年前の成菩提院での朝食、去年の岐阜城での朝食の時のように。

「五徳をのせた鍋だな、鶴千代を眼力だけで呪い殺せそうだ、ぎゃははは!」

「……」

「そんなに蒲生が嫌いか?」

 お鍋は、まだ子供の鶴千代のことは、可愛く思っている。その母とも親交があるし、彼女には同情している。

 亡き義兄の実隆は大好きだし、今でも時々、会いたくなるほどだ。

 だが、蒲生家というものに対する恨みは、やはり消せない。濃姫から話を聞いたせいか、鶴千代であっても、つい睨んでしまったようだ。

「姫君様を蒲生家に嫁がせるおつもりだと聞きました」

「おうよ。御台が話したか」

「はい。……それはおやめになった方が――。出過ぎたことを申して、すみません。でも、誠に失礼ながら、私はお屋形様よりも蒲生家のことは熟知しているという自負がございます。――蒲生家は縁戚を結んで親しくなり、油断させながら、絶えず隙を窺う家です。好機と感じるや、必ず乗っ取り奪う。姫君様は必ず泣かされることになるでしょう」

「面白い!」

 信長はお鍋の忠告など、まるで聞く気がない。

「さすが狐の家よ」

 愉快げに笑うばかりだ。

「まさか、狐の孫が欲しいなどとおっしゃるおつもりではないでしょうねえ?」

「ふはは。狐の血、よいな。織田の血に是非混ぜたいわ。それに蒲生は数百年も古くから続く家。俺は新興の実力者の血筋も好きだが、名族の血筋も欲しい。きさまの小倉もな」

 不意にそんな話を振ってにやけるので、お鍋は慌てて。

「意外です。名家の血を織田の血に入れたいなんて。古いことを仰有る」

「古い?近江人というのは、目まぐるしく変わる世の渦に巻き込まれて、常に新しいものに馴れすぎて、俺さえ古いと抜かすわ!」

 上機嫌の信長。躊躇なくぽんぽん言いたいことを言うお鍋とのやり取りが、理由もなく楽しいのだ。

 そういえば、信長は津島衆のような古い家から側室を迎えたり、関氏一族など、古い土豪や名家に子を養子に出している。

 そして、今、冬姫を蒲生家に嫁がせようともしている。

(実際に古い名家の血を欲しているのね?公方様だとか幕府の強化だとか、信長って随分保守的な一面があるのよね。名家に憧れるのは、尾張の田舎大名だから?)

「きさま」

 お鍋の思いを見通しているのか、信長はぐふふとさらに楽しげだ。

「この乱世、名門というだけでは生き残れぬ。数多の名門が消えてなくなっている。一つの家を数百年、数千年と維持するのは、実は大変なことだ。まして、この乱世だ。古くからありながら、なお健在な名門は、生き抜く力があるということ。狐や狸、狢、蛇なんだろう。俺はだから、狐の血の名門を俺の血に加えたいのだ。聞けば聞くほど蒲生は古狸だな、あくどい、あくど過ぎる。いいな、益々気に入った。娘はきっと俺の孫に相応しい狐を産むよ」

 狐の誕生を心待ちにしているようだ。

(もしかして、狐の子だったら、その孫を後継者にでもする気かしら。実子を差し置いて)

 信長なら、後継者さえ実力者を据えそうだ。本当に、我が子より相応しい者に継がせそうな気がして、お鍋はちょっとぞっとした。

 そういえば、濃姫は冬姫を鶴千代に嫁がせることに、あまり気乗りしていない様子だったが。

(奇妙丸様の地位が危うくなるから?まさか、そんな……)

「じ、じゃあ、蒲生家を乗っ取るおつもりで、姫君様を嫁がせるんですね?」

 お鍋は首をぶるぶる振って、自身の思考を否定するように、そう言った。

「あはは、もっと単純に考えればよいものを。俺は蒲生家の狐ぶりと、狐の倅が気に入った。娘はただ愛されればよい」

「狐の孫が誕生するために?」

「そうだな」

 そこまで言って、不意に信長は真顔になった。言うべきか――。だが、一瞬の逡巡の後には、もうきっぱり話した。

「南蛮の坊主が訪ねて来たことは知っているな?」

 ルイス・フロイスというバテレン(パードレ、司祭)が信長との対面を求めて来た。ポルトガル人で、イエズス会士である。

 イエズス会はカトリックの修道会で、ポルトガル国王に保護され、世界中での宣教を目指していた。

 そのフロイスが、しばらく都を追われていたのだが、新しい信長という権力者の登場に、宣教の許可を得ようとやって来たわけである。

 しかし、来訪したフロイスと、信長は対面しなかった。

「実は様子を探っていたのだ」

(それと蒲生家と何の関係が?)

 信長の話はまるで脈絡がない。だが、お鍋は黙って聞いておいた。

「奴らは何しに日本に来たのだと思う?」

「さあ?交易でもして、儲けようとか?」

「それもあるだろう。だが、奴らの目的はな。奴らの神の教えを日本に広めるために、わざわざ三年もかけて来たのだ」

「坊主だというなら、そうなのでしょう」

「表向きはな」

 何やら引っ掛かる言い方だ。

「本当に神を伝えに来ただけなのか、俺にはまだわからん。だから、先ずは探っている」

「はあ」

「三好の奴輩が、奴らを都から追い出した理由を知ってるか?松永が俺に言うのだ、懸念していると」

 松永久秀は三好一党に属していたが、彼らとは仲違いし、信長が上洛して義昭を将軍に据えるや、降伏した。だが、長年、三好勢と共にあったのだ。彼らの方針をよく知っている。

 彼らはバテレンを危険視していた。そして、都から排除していたのだ。

「松永が言うのだ。バテレンはポルトガルのために、日本を調査しているのだと、そして、日本人を洗脳するのだと。つまり、日本人を腑抜けにし、ポルトガルに都合の良い民にして、何れポルトガルが攻め来る日に備えているのだと――」

 俄にお鍋は硬直した。

「ポルトガルが日本に攻めてくるのだそうだ。バテレンはその地固め、下準備だそうだ」

「まさかそんな!」

「日本人が昔から憧れた天竺は、今やすっかりポルトガルのものだ。ポルトガルは世界中のあちこちを攻め、我が物としているらしい。日本を狙ったとしても、不思議はない。まあ、狙うのと、実行可能かどうかというのは、別の問題だがな」

「お屋形様は、その南蛮からの攻撃はあると――?」

「わからん」

 だから、バテレンの目的を知るために、今は様子を伺っている。

「狙われていることはあるかもしれん。だが、日本は四方を海に囲まれている。攻め込むのは容易ではなかろうよ。だがな、奴らの実力は未知数だ。奴らの水軍の実力が、日本の荒波を克服してしまえるものなのかもしれない。何しろ、鉄砲を作った奴らだからな」

 信長はそこで、ふっと笑った。

「だから、蒲生なんだろ」

「は?」

「そなたも昔、兄の実家の蒲生が作る鉄砲を、俺に自慢していたではないか」

 信長の最初の上洛の時、蒲生家で作っている鉄砲・日野筒を、お鍋は信長に宣伝した、確かに。

「相手のことを知らねば、対策も立てられぬ。先ずは相手と同じ物を作り、そして、その技術を得たら、相手よりも優れた物を作らねばならん」

 あっとお鍋は思った。信長が鉄砲好きな理由を、今ようやく悟った。

「蒲生は随分早くから、鉄砲の仕組みを知ろうとして研究し、遂に製造するまでになった。この先見性はただ者でない。狐ならではだろう。俺が狐の血を欲する理由がわかったか?」

「まさか、快幹軒(定秀)殿はポルトガルの狙いまで見越して――」

 お鍋はただただ驚愕した。

 蒲生定秀がそんなことまで見える男なのだとしたら、どうしたってお鍋が太刀打ちできるわけがない。小倉家が勝てる道理もなかった。

「蒲生はそこまでは考えてはいるまいがな――」

 信長は笑った。

「だが、そんな蒲生の日野筒の存在を、最初に俺に教えてくれたのは、鍋御前、そなただぞ。兄の実家の日野筒だと自慢したではないか。だから、いつまでも意地悪く蒲生のことを悪く言うなよ。鶴千代なんか可愛い奴じゃないか」

 信長はそこまで言って、急に足利義輝を思い出し、ため息をついた。

 義輝は鉄砲を入手すると、各大名にそれを送って、鉄砲製造の技術を盗ませた。そこから新たな技術を確立し、より優れた鉄砲の開発を目指している者もいる。

 義輝はバテレンを歓迎し、都での布教を許していた。バテレンが都から追い出されたのは、義輝暗殺後のことだ。

(義輝公はバテレンを心底から歓迎していただろうか?いや、バテレンの目的を知るために、傍に召し出していたのだろう。南蛮に興味と同時に、疑惑を持っておられたのだ。だから、鉄砲に工夫を加えることを望んで――)

 信長はそう思う。改めて、義輝が暗殺されたことを悔やんだ。

(同じ兄弟とはいえ、義昭公は義輝公とはまるで違う……鍋御前、俺は間違ったかもしれんな、そなたの言う通りに)

 義輝の下、幕府を立て直せば、もしかしたら、この乱世は終息できたのかもしれない。だが、義昭では――。

 信長は実際に義昭に接してみて、義昭では駄目だと確信している。

(倒幕か。鍋御前、やはりそなたは凄い。俺に力を貸してくれ!)

 信長がまじまじとお鍋を見ている。お鍋はその鋭い眼差しに、何とも居心地悪く。

「……あの、お屋形様。まことに失礼ながら、さっきからお腹が鳴っておられません?」

「む?」

 我が身ながら、考えに集中して忘れていた。

「そういえば、腹が減っていた」

 一日中、普請に励んでいた。空腹で当然だ。

「汁物が冷めるな。食うか。そなたも食え」

 膳は先ほど、小姓たちが運んできたまま、手をつけていない。

 信長はぱくぱくともう口に運んでいる。お鍋も食べ始めた。

 しばらくは互いに無言のまま、箸を動かし続ける。余程空腹だったのだろう、信長は以前のように、食べながら話しかけることはない。

 やがて、膳のものを全て平らげると、彼は自分で茶碗に白湯を注いで飲み干した。そして、ようやく話しかけたのである。

 お鍋は途中の箸を置いて、手を膝に戻した。

「先程言ったが、俺は今、バテレンの目的を探っているところだ。バテレンの目的が松永の危惧する通りならば、乱世はいち早く終結させねばならぬ。何故だか、そなたなら、わかるな?」

 戦は自然の摂理であり、人間に本能として備わっているものだから、戦はなくならないというのがお鍋の考えだ。

 だが、信長には、自分ならばそれを克服できるという確信があった。いや、克服しなければならない。それは濃姫も同じである。

 お鍋はもう全く膳に手を伸ばさずに、答えた。

「南蛮が攻めて来た場合、日本が乱世の方が、南蛮には都合がよいからですか?日本人どうしで戦って、互いに消耗したところへ攻め入れば、南蛮はさしたる武力も用いずに、勝てます。あるいは日本人どうしで共倒れにでもなれば、南蛮は漁夫の利、何もしないで、日本を手にできます。乱世の方が、南蛮は日本を攻めやすいですから――」

 答えに満足し、信長は大きく頷いた。

「だから、なるべく早く、我等は乱世をおさめ、天下一統を完了させねばならぬ。多少乱暴でも、相手に俺が誤解されようとも。後ろ指をさされるやり方でも、気にしていられぬ。一刻も早く乱世を鎮め、そして、南蛮以上の武力を手に入れて、バテレンに日本攻撃を諦めさせねばならぬのだ。かつて、俺がそなたに言ったこと――乱世を終わらせるために戦っているとは、そういうことだ」

 そこで、ざっと膳を右手で脇に払いのけて立ち上がると、彼はどかどかお鍋の目の前まで歩いて来た。そして、すっと座り、彼女の顔のすぐ前に、ずずいとその鼻を寄せた。

 反射的にお鍋は頭を後方へ引いてしまったが、たいした距離は空けられない。

 特に気にもせず、信長はそのままひそひそと声を消して続けた。

「そのために必要なら、そなたの言う通り、倒幕も選択肢にある!」

「え!?」

 信長はからからと笑って、今度はいつものように大きな声で喋った。

「そなたは天才だな!正直に言うが、俺にはその発想はなかった、そなたに言われてなるほどと思ったのだ。正直、義輝公亡き今――」

 続きは目だけで告げた。

 お鍋は頷いた。

 都にいると、新将軍・義昭の評判、噂はよく耳に入ってくる。

(幕府の立て直し、再興ではどうすることもできないということね。義昭公には乱世を鎮める能力がないわけね)

「南蛮と戦になった時には、日本の総大将が実力者でなければ、皆が困ります。簒奪者であっても、日本を守る能力ある者なら、誰も文句は言いますまい。簒奪者よと罵る者なく、従わない者もありますまい」

 お鍋はきっぱり言った。

 信長はふっと笑い、

「鍋御前を女帝に、俺が補佐してやっても構わんくらいだがな。まあ、そこまでそなたはでしゃばりではあるまい」

 俺がやると、信長の目は言った。

「手伝ってくれるな?」

 はっとした。身を固くするお鍋。

(回りくどい言い方をしたけど、それって結局、側室云々の話ね!)

 お鍋は然り気無く答えた。

「私にはとても。――それは御台様がよく心得ておられましょう。お屋形様のなされること、誰より理解し――」

「鍋御前!」

 察知されたかと、少々ばつの悪い表情をこき混ぜながら、信長は遮った。

 次の言葉を言わせてはならない。お鍋も負けじと声高く。

「でも、お屋形様の昔の戦はそんなご立派なものではなかったでしょう?幼い私に、戦のない世にするために戦をしていると仰ったのは――子供だと思って、いい加減な出任せを仰って……」

「俺はあの頃から急いでいたんだがな」

 信長は言いたいことを抑えて、しばしお鍋の憎まれ口に付き合った。

「俺は昔から豊後の屋形(大友宗麟)と親交がある。九州では昔からバテレンがいて、それで、松永のような危惧を抱く者が多かったと豊後の屋形から聞いていた。だったら、悠長に乱世などしている場合ではないだろう?確信のない時から、可能性を潰すために動かねば、後々手遅れになる」

 まさか、尾張の小領主になりたての頃から、そんなことを思っていたというのか。それこそ今思いついて、出任せを言っているのではないか。

「……尾張一国も手にしていない時分で、天下一統など、ご自分にできるとでも――?」

「そりゃそうだ。どんなにちっぽけな存在だとて、自分にできるわけがないと、最初から諦めて何もしないでは、何もできないではないか。まずは行動せねば。行動すれば、成せるものだ」

 小領主ごときでやってみようと立ち上がる時点で、普通でない。やれば成せると思える自信が、お鍋には信じられない。

(こんな男について行けるわけないじゃない!)

 この男を支えるなんて、狂っている。

 信長はお鍋の思考を読み取り、快げに鼻を鳴らした。

「俺もそなたに会った時、こんな人間がいるのかと、頭を殴られたようだったがな」

「は、私が?」

 普通の人間のお鍋に、信長が驚愕するとは信じ難いことだが。

「倒幕。そんな発想をする人間は初めてだった。普通は、幕府に取り入って、権威を買い、高位を得、己の勢力拡大に利用しようとするものだぞ」

「だって幕府は全然力がないし。必要とは思えなかったんだもの」

 その言葉に、信長は惚れ惚れとお鍋を見やった。

「必要ないから滅ぼしてしまえ。その考え、俺は好きだな。非凡だ」

 そこで一息つき──。
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