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故郷
四・近江紀行(下)
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信長が佐和山城で遊んでいる間に、一揆は片付いた。
織田軍が討った一揆勢の首は七百近く、ものの一日のことだ。恐れた小川の一揆勢は城を開いて降伏してきたので、三日とかからず片付いた。
信長は知らせを受けて、佐和山城を出、安土へ向かうことにする。
月が改まり、九月になっていた。
お鍋は信長に連れられ、佐和山城を出た。鶴姫も松寿も一緒である。そして、甚五郎も。
しかし、愛知川まで来た所で、小倉左近将監良親が出迎えに来ていた。
「左近将監か、ご苦労」
信長は行軍を止めた。軍の後方から、甚五郎が出てきて、信長の傍らまで進む。
片膝をつき、信長、甚五郎に頭を垂れている良親。信長はそれを目の隅に捉えながら、甚五郎に訊いた。
「母御前に挨拶は済ませたか?ここで別れぞ」
甚五郎は毅然として言った。
「佐和山を出る時、すでに挨拶は済ませております」
信長の視界に入る位置に、お鍋の輿がある。輿は戸を開けている様子もなく、静穏そのものだった。
「そうか、すでに済ませておるか」
今さらお鍋が出てきて、見苦しく甚五郎と涙の別離を演じることはない。お鍋はこのまま姿を見せることもないのだろう。
甚五郎も最後に一目母に会いたいなどとは言わず、態度にさえ微塵も見せなかった。
信長は子供らしからぬその気丈さに満足して頷き、良親の方に向き直った。
「左近将監、甚五郎を頼む」
「はっ!」
そして、もう一度甚五郎を見やった。
「甚五郎、小倉城を速やかに立て直し、大森城の布施父子と連携して、鯰江城を監視せよ」
「はい!」
ここで、甚五郎とは別行動になった。
甚五郎は自身の軍勢と共に良親とこの地に留まり、織田軍の行軍を見送る。
信長、馬廻り衆が愛知川を渡り、次々に甚五郎の前を通り過ぎて行く。
やがて、お鍋を乗せた輿も通って行ったが、甚五郎はそれにはそっと頭を下げていた。通り過ぎるまで、頭を上げなかった。
輿の方も戸が開くことはなく、中の人の様子もわからぬままだった。
甚五郎は通り過ぎて行った輿の後を目で追うこともしない。それが武家の男子たるものだろう。
「さて、お見送りはこの辺りにして。そろそろ行きましょうか」
「はい。本日より宜しくご指導お願い申し上げます」
織田軍があらかた行ってしまうと、甚五郎は良親に促され、上流へ向けて出発した。つい昨日まで一揆が起きていた地域、さらには敵の鯰江城を睨みつけながら、ついに小椋に着いた。
小倉城城主となった甚五郎。八歳の旅立ちである。良親の補佐を受け、さっそく城の再建に乗り出して行く。
小倉城は去る永禄七年の小倉一族の内訌で、小倉左近助良秀が死んで廃城になって以来の城主であった。往時を偲ばせる城跡に、良親が涙したことは言うまでもない。良親は亡き良秀の子息である。
新しい城は以前よりも堅固なものとして蘇ることになる。
昨日まで一揆が起きていた真っ只中を進んで、信長は安土の常楽寺に入った。
「鍋、しばらく逗留することになるから、津田に行ってこよう。そのまま小田に送ってやる」
安土に着くと、さっそく遊山に繰り出そうとする。
(甚五郎と別れて、私が落ち込まないようにと、気晴らしさせて下さるのだろう)
お鍋は良い方に解釈した。
一見遊山のような今回の出陣、実は信長には真の目的があった。だが、それを為す前に、思わぬ障壁ができ、安土に足止めされている状態なのだ。
この先、守山、草津、大津へと進む予定だったのだが、守山からほど遠からぬ地域で、また一揆が勃発したのである。信長の南下に合わせての蜂起であった。
金森城の一揆で、六角承禎が指揮していた。地侍、一向宗門徒の民だけで起こした一揆とは違う。六角承禎の下、その旧臣どもが率いる軍勢だ。六角旧臣の軍勢と一向一揆勢が合流した軍。今までの一揆と違い、かなり厄介である。
寄せ集めの民ではないから、一揆掃討は難航する可能性もあった。長引くことも視野に入れ、信長はその間、安土を拠点に周辺で遊ぼうと考えたらしい。
信長はお鍋に馬を与え、自分も騎乗した。袴をはいたお鍋には、随分久しぶりの乗馬である。
(久しく乗ってないわね)
もう馬になんか乗れなくなっているのではないかと、不安を覚えながらも馬に跨がってみると、視界が広がって、うきうきと気分が高揚してくる。
(乗れた!)
甚五郎との別離の感傷も霧散して、明るく弾んできた。
信長はお鍋の表情の変化に、すっと目を細めた。
「そなたの凛々しい姿を見るのは久しぶりだ。火事騒ぎ以来のことだな」
「まあ」
「あの時のそなたは勇ましかったし、騎乗姿もさまになってた」
「お屋形様はぎらついておられました。随分からかわれましたわ!」
「そなたが可愛かったからだ。あんな溌剌とした娘は初めてだったから、感心した。興味深かった。懐かしいよ、今日のそなたはあの時のようで嬉しい」
いつもは絶対言わないようなことを、さらりと口にする信長。
お鍋は牡丹のように顔じゅう真っ赤に染めた。自分で火照りがわかり、照れ隠しのように、空に目を向けたり、あちこちきょろきょろする。
「槍なぞ降らんぞ!」
かかと笑って、信長は馬の腹を軽く蹴った。馬が小走りに駆け出す。
お鍋も慌ててついて行く。
二人の乗馬に従うのは十人ほどの小姓衆である。
秋風が、乗馬の汗に心地好い。
安土を出て、琵琶湖の湖畔を進み行く。日に輝いて、湖面が眩しいばかりである。
美しく広い湖。
照り返しの眩しさもいとわず、目を細めながら見ていたい景色だ。
湖面遥か、陽炎のように見える対岸の風景を、信長はきっと見やって、美しい日差しの中を進んで行った。
「佳い所だ。鍋はこの景色の中に生まれ、我が先祖・平親真殿はこの中に育まれた。俺もここに生きよう」
信長は隣を行くお鍋にそう言った。
「それは――?」
信長はやがて、岐阜を出て、この地に移るということだろうか。
「俺は御台の故郷に住んでいる。だが、間もなくそなたの故郷に移る。織田家の故郷にな」
しばらく馬を走らせ、津田に着いた。
津田のどこに先祖の住まいがあったのか、今となってはわからない。
だが、信長は感無量といった様子で、馬を止めた。お鍋も小姓衆も立ち止まる。
信長は小姓衆を振り返って宣言した。
「この津田庄こそが、我が織田家発祥の地である。ついに俺は故郷に帰ってきた。すなわち、平資盛卿の遺児・織田親真殿はここで育ったのだ。皆よく覚えておくように。――では、これから小田へ行く」
信長は再び馬を走らせ、白鳥川を越えた。お鍋は隣を走らせる。
「津田に社をお建てになられては如何でしょうか?」
「社か。考えておこう。ところで、小田に行ったら、今夜はそのまま泊まる。明日、篠原まで足を伸ばしてみよう」
金森一揆の行方など完全に忘れたかのように、信長は気ままにお鍋との時間を楽しんでいた。
(ありがたいこと)
彼女はこうした時間を作ってくれた信長に感謝した。
小田は日野川下流域にある。少し遡上すれば、平宗盛終焉の地の篠原に。さらに上流へ行けば、川は二又に分かれ、それぞれ小倉家の本拠・佐久良と、冬姫のいる日野へと繋がっている。
お鍋は小田で生まれたが、実父とは早くに死に別れて、その顔さえ覚えていない。物心ついた時には、高畠家の本家筋の小倉三河守の養女になっていた。
小田で過ごした頃の記憶はほとんどなく、佐久良こそがお鍋には懐かしい思い出の故郷である。日野川を見て、望郷の念を覚えたのは佐久良の方であった。
しかし、確かに小田はお鍋の生まれた場所、真の故郷なのである。
三河守のもとに養女に出された時には、きっとこの日野川を上流へ向けて進んで行ったに違いないのだ。そう思えば、自分の出発点に戻ってきたのは、感慨深い思いがする。
「鍋、見えてきたぞ、そなたが産声を上げた場所が」
日野川に思い馳せていたお鍋は、信長の声で我に返った。信長の指差す方に、確かに立派な櫓が見える。
「え、あれ?」
随分と高さのある櫓に、お鍋はびっくりした。あんな櫓、この辺にあっただろうか。
近付いて行くに従って、小田城の威容さが視界いっぱいに広がって行く。
(こんな所にこんな堅固な城が?小田城がこんなに立派なんて……)
驚きを隠せない。
よく見れば、太鼓櫓に月見楼まであり、それが真新しく、風情がある。
堀は鯰江城のように深く、満々と水を湛え、逆に土塁は高々と聳えて、佐久良城や長寸城よりも堅固に見えた。
「凄い!」
小倉家の分家の支流の城とは思えない。
「俺の妻の城だ、当たり前だろ!」
あんぐり口を開けているお鍋に、信長が得意気に言った。
「気に入ったか?」
お鍋はそのまま、こくこくと頷いた。
「今夜は雅びに月見といきたい所だが、まだ月は見えまいな」
三日月でも見えようか。
お鍋はその麗しい月見楼を見て、はっとしたように、隣の信長を見やった。
「もしや、お屋形様、私が小田に住みたいと申したから、急仕立てで、この城を改修して下さったのですか?」
お鍋が小田に住みたいと願い、許されてから今日に至るまでに、数ヶ月かかった。
信長はふふんと、さらに得意気だ。
「そなたを驚かせてやろうと思ってな、急いで普請させた」
お鍋を喜ばせようとして。
だから、すぐに近江行きの許可が下りなかったのだ。
しかし、これだけの大改修。それをこの期間でやってしまうのは、逆にかなり短期間の工事だったといえる。その迅速さも驚愕ものだ。
「内緒でこんな凄いものを、あっという間に作っておしまいになるなんて――」
「いつまでも阿呆みたいな顔してないで、ほら、さっさと中に入るぞ」
促されて、まだ堀の外にいたことに気付く。
信長がさっと馬を進め、堀にかかる橋を渡って行く。お鍋も慌てて従った。城門をくぐり、そこからは馬を預けて歩いて行く。
中も堅固な造りだが、本丸の奥は岐阜城の館内のように、風情ある庭園と姿の美しい屋敷が建っていた。そこから見える月見楼も、お鍋が登ることを考えて設計されており、庭の景色と溶け込んでいて見事だ。
中を見て歩くうちに、お鍋の感情は昂って行き、いつしか涙が浮かんでいた。先を行く信長が、気配に振り返り、お鍋の涙の清らかさを見て微笑む。
「お屋形様、ありがとう存じます!ありがとう……」
信長の優しさ、お鍋を喜ばせようという悪戯心を知り、お鍋は幸福を感じた。信長の愛情を感じた。
「泣くのはまだ早いぞ。今から泣いてたら、体じゅうの水分が全て眦から出て行ってしまう」
信長はからかうが、その目は優しい。また、悪戯が成功して、してやったりという表情も混ざっている。
そんな信長の言葉にお鍋が首を傾げると、信長が屋敷の上へと誘った。
「今日からのそなたの住まいだ。この城の女主の御殿に相応しいだろ?」
屋敷内は土豪の物とは思えぬ豪華さだった。金銀散りばめられた幕や敷物に飾られている。
主殿まで手を引かれて、胸いっぱいのお鍋。大広間には多数の侍女が平伏していた。
彼女たちの間を通り、部屋の中央に進む。すると、そこに打ち掛けを着た女が三つ指をついていた。岐阜城の上臈のようなきらびやかな装いだ。
信長は部屋の奥の一段高い上座に、お鍋はその斜め横に腰を下ろす。
襖絵も趣向を凝らし、まるで岐阜城の中にいるような錯覚に陥る。
信長はすぐに上臈に声をかけた。
「その方が三崎か」
「はい、お初にお目もじかないま……」
「鍋!於巳は横山城にやってしまった故、これはそなたの新しい侍女だ。三崎御前よ」
「三崎……まさか」
お鍋の声が震えた。
三崎殿がすっと面を上げた。その瞬間、あっとなる。
自身によく似た面差しの女――互いにそう思った。
「もしや、姉上……姉上にございますか?」
三崎殿は大きく二度頷いた。
「お久しゅうございます、御方様!ご立派におなり遊ばされましたなあ。本日より、誠心誠意お仕え致しまする。何卒良しなに……」
言っている間に、三崎殿の視界が涙でゆがんでくる。
幼かったお鍋は覚えていないが、三崎殿は妹をよく覚えていた。
三崎殿はお鍋の実姉である。赤子だった頃のお鍋を、それはそれは可愛がって面倒を見ていた。
まだ幼いお鍋が、小倉三河守の養女として貰われて行った日のことは、今でも覚えている。
お鍋は姉と別れたくないと駄々をこねて泣いた。それを、悲しい気持ちを必死に抑えながら見送ったのだ、三崎殿は。
こんなに泣いて嫌がって。妹は幸せになれるのだろうか、幸せなのだろうか。まだ少女の頃の三崎殿はそう思った。
あの幼かった妹が。こんなに美しく立派になって、小田城に帰ってきたのだ。
「私もこの城の変貌ぶりに、毎日腰が抜けるほど驚いているのです。こんな夢のような御殿を建てて頂けるなんて、御方様、お幸せですね。良かった。ほんに良かった……」
言葉を詰まらせる三崎殿に、お鍋のゆるんだ涙腺はもはや収拾がつかなくなっている。
「はい、はい。幸せです……まさか姉上にお会いできるなんて……お屋形様ったら、そこまでご用意なさっていたなんて……」
(私、本当に馬鹿だった。幸せ)
濃姫が何だというのか。濃姫がいようが、信長がお鍋に愛情を注いでくれていることは間違いないのだ。
織田軍が討った一揆勢の首は七百近く、ものの一日のことだ。恐れた小川の一揆勢は城を開いて降伏してきたので、三日とかからず片付いた。
信長は知らせを受けて、佐和山城を出、安土へ向かうことにする。
月が改まり、九月になっていた。
お鍋は信長に連れられ、佐和山城を出た。鶴姫も松寿も一緒である。そして、甚五郎も。
しかし、愛知川まで来た所で、小倉左近将監良親が出迎えに来ていた。
「左近将監か、ご苦労」
信長は行軍を止めた。軍の後方から、甚五郎が出てきて、信長の傍らまで進む。
片膝をつき、信長、甚五郎に頭を垂れている良親。信長はそれを目の隅に捉えながら、甚五郎に訊いた。
「母御前に挨拶は済ませたか?ここで別れぞ」
甚五郎は毅然として言った。
「佐和山を出る時、すでに挨拶は済ませております」
信長の視界に入る位置に、お鍋の輿がある。輿は戸を開けている様子もなく、静穏そのものだった。
「そうか、すでに済ませておるか」
今さらお鍋が出てきて、見苦しく甚五郎と涙の別離を演じることはない。お鍋はこのまま姿を見せることもないのだろう。
甚五郎も最後に一目母に会いたいなどとは言わず、態度にさえ微塵も見せなかった。
信長は子供らしからぬその気丈さに満足して頷き、良親の方に向き直った。
「左近将監、甚五郎を頼む」
「はっ!」
そして、もう一度甚五郎を見やった。
「甚五郎、小倉城を速やかに立て直し、大森城の布施父子と連携して、鯰江城を監視せよ」
「はい!」
ここで、甚五郎とは別行動になった。
甚五郎は自身の軍勢と共に良親とこの地に留まり、織田軍の行軍を見送る。
信長、馬廻り衆が愛知川を渡り、次々に甚五郎の前を通り過ぎて行く。
やがて、お鍋を乗せた輿も通って行ったが、甚五郎はそれにはそっと頭を下げていた。通り過ぎるまで、頭を上げなかった。
輿の方も戸が開くことはなく、中の人の様子もわからぬままだった。
甚五郎は通り過ぎて行った輿の後を目で追うこともしない。それが武家の男子たるものだろう。
「さて、お見送りはこの辺りにして。そろそろ行きましょうか」
「はい。本日より宜しくご指導お願い申し上げます」
織田軍があらかた行ってしまうと、甚五郎は良親に促され、上流へ向けて出発した。つい昨日まで一揆が起きていた地域、さらには敵の鯰江城を睨みつけながら、ついに小椋に着いた。
小倉城城主となった甚五郎。八歳の旅立ちである。良親の補佐を受け、さっそく城の再建に乗り出して行く。
小倉城は去る永禄七年の小倉一族の内訌で、小倉左近助良秀が死んで廃城になって以来の城主であった。往時を偲ばせる城跡に、良親が涙したことは言うまでもない。良親は亡き良秀の子息である。
新しい城は以前よりも堅固なものとして蘇ることになる。
昨日まで一揆が起きていた真っ只中を進んで、信長は安土の常楽寺に入った。
「鍋、しばらく逗留することになるから、津田に行ってこよう。そのまま小田に送ってやる」
安土に着くと、さっそく遊山に繰り出そうとする。
(甚五郎と別れて、私が落ち込まないようにと、気晴らしさせて下さるのだろう)
お鍋は良い方に解釈した。
一見遊山のような今回の出陣、実は信長には真の目的があった。だが、それを為す前に、思わぬ障壁ができ、安土に足止めされている状態なのだ。
この先、守山、草津、大津へと進む予定だったのだが、守山からほど遠からぬ地域で、また一揆が勃発したのである。信長の南下に合わせての蜂起であった。
金森城の一揆で、六角承禎が指揮していた。地侍、一向宗門徒の民だけで起こした一揆とは違う。六角承禎の下、その旧臣どもが率いる軍勢だ。六角旧臣の軍勢と一向一揆勢が合流した軍。今までの一揆と違い、かなり厄介である。
寄せ集めの民ではないから、一揆掃討は難航する可能性もあった。長引くことも視野に入れ、信長はその間、安土を拠点に周辺で遊ぼうと考えたらしい。
信長はお鍋に馬を与え、自分も騎乗した。袴をはいたお鍋には、随分久しぶりの乗馬である。
(久しく乗ってないわね)
もう馬になんか乗れなくなっているのではないかと、不安を覚えながらも馬に跨がってみると、視界が広がって、うきうきと気分が高揚してくる。
(乗れた!)
甚五郎との別離の感傷も霧散して、明るく弾んできた。
信長はお鍋の表情の変化に、すっと目を細めた。
「そなたの凛々しい姿を見るのは久しぶりだ。火事騒ぎ以来のことだな」
「まあ」
「あの時のそなたは勇ましかったし、騎乗姿もさまになってた」
「お屋形様はぎらついておられました。随分からかわれましたわ!」
「そなたが可愛かったからだ。あんな溌剌とした娘は初めてだったから、感心した。興味深かった。懐かしいよ、今日のそなたはあの時のようで嬉しい」
いつもは絶対言わないようなことを、さらりと口にする信長。
お鍋は牡丹のように顔じゅう真っ赤に染めた。自分で火照りがわかり、照れ隠しのように、空に目を向けたり、あちこちきょろきょろする。
「槍なぞ降らんぞ!」
かかと笑って、信長は馬の腹を軽く蹴った。馬が小走りに駆け出す。
お鍋も慌ててついて行く。
二人の乗馬に従うのは十人ほどの小姓衆である。
秋風が、乗馬の汗に心地好い。
安土を出て、琵琶湖の湖畔を進み行く。日に輝いて、湖面が眩しいばかりである。
美しく広い湖。
照り返しの眩しさもいとわず、目を細めながら見ていたい景色だ。
湖面遥か、陽炎のように見える対岸の風景を、信長はきっと見やって、美しい日差しの中を進んで行った。
「佳い所だ。鍋はこの景色の中に生まれ、我が先祖・平親真殿はこの中に育まれた。俺もここに生きよう」
信長は隣を行くお鍋にそう言った。
「それは――?」
信長はやがて、岐阜を出て、この地に移るということだろうか。
「俺は御台の故郷に住んでいる。だが、間もなくそなたの故郷に移る。織田家の故郷にな」
しばらく馬を走らせ、津田に着いた。
津田のどこに先祖の住まいがあったのか、今となってはわからない。
だが、信長は感無量といった様子で、馬を止めた。お鍋も小姓衆も立ち止まる。
信長は小姓衆を振り返って宣言した。
「この津田庄こそが、我が織田家発祥の地である。ついに俺は故郷に帰ってきた。すなわち、平資盛卿の遺児・織田親真殿はここで育ったのだ。皆よく覚えておくように。――では、これから小田へ行く」
信長は再び馬を走らせ、白鳥川を越えた。お鍋は隣を走らせる。
「津田に社をお建てになられては如何でしょうか?」
「社か。考えておこう。ところで、小田に行ったら、今夜はそのまま泊まる。明日、篠原まで足を伸ばしてみよう」
金森一揆の行方など完全に忘れたかのように、信長は気ままにお鍋との時間を楽しんでいた。
(ありがたいこと)
彼女はこうした時間を作ってくれた信長に感謝した。
小田は日野川下流域にある。少し遡上すれば、平宗盛終焉の地の篠原に。さらに上流へ行けば、川は二又に分かれ、それぞれ小倉家の本拠・佐久良と、冬姫のいる日野へと繋がっている。
お鍋は小田で生まれたが、実父とは早くに死に別れて、その顔さえ覚えていない。物心ついた時には、高畠家の本家筋の小倉三河守の養女になっていた。
小田で過ごした頃の記憶はほとんどなく、佐久良こそがお鍋には懐かしい思い出の故郷である。日野川を見て、望郷の念を覚えたのは佐久良の方であった。
しかし、確かに小田はお鍋の生まれた場所、真の故郷なのである。
三河守のもとに養女に出された時には、きっとこの日野川を上流へ向けて進んで行ったに違いないのだ。そう思えば、自分の出発点に戻ってきたのは、感慨深い思いがする。
「鍋、見えてきたぞ、そなたが産声を上げた場所が」
日野川に思い馳せていたお鍋は、信長の声で我に返った。信長の指差す方に、確かに立派な櫓が見える。
「え、あれ?」
随分と高さのある櫓に、お鍋はびっくりした。あんな櫓、この辺にあっただろうか。
近付いて行くに従って、小田城の威容さが視界いっぱいに広がって行く。
(こんな所にこんな堅固な城が?小田城がこんなに立派なんて……)
驚きを隠せない。
よく見れば、太鼓櫓に月見楼まであり、それが真新しく、風情がある。
堀は鯰江城のように深く、満々と水を湛え、逆に土塁は高々と聳えて、佐久良城や長寸城よりも堅固に見えた。
「凄い!」
小倉家の分家の支流の城とは思えない。
「俺の妻の城だ、当たり前だろ!」
あんぐり口を開けているお鍋に、信長が得意気に言った。
「気に入ったか?」
お鍋はそのまま、こくこくと頷いた。
「今夜は雅びに月見といきたい所だが、まだ月は見えまいな」
三日月でも見えようか。
お鍋はその麗しい月見楼を見て、はっとしたように、隣の信長を見やった。
「もしや、お屋形様、私が小田に住みたいと申したから、急仕立てで、この城を改修して下さったのですか?」
お鍋が小田に住みたいと願い、許されてから今日に至るまでに、数ヶ月かかった。
信長はふふんと、さらに得意気だ。
「そなたを驚かせてやろうと思ってな、急いで普請させた」
お鍋を喜ばせようとして。
だから、すぐに近江行きの許可が下りなかったのだ。
しかし、これだけの大改修。それをこの期間でやってしまうのは、逆にかなり短期間の工事だったといえる。その迅速さも驚愕ものだ。
「内緒でこんな凄いものを、あっという間に作っておしまいになるなんて――」
「いつまでも阿呆みたいな顔してないで、ほら、さっさと中に入るぞ」
促されて、まだ堀の外にいたことに気付く。
信長がさっと馬を進め、堀にかかる橋を渡って行く。お鍋も慌てて従った。城門をくぐり、そこからは馬を預けて歩いて行く。
中も堅固な造りだが、本丸の奥は岐阜城の館内のように、風情ある庭園と姿の美しい屋敷が建っていた。そこから見える月見楼も、お鍋が登ることを考えて設計されており、庭の景色と溶け込んでいて見事だ。
中を見て歩くうちに、お鍋の感情は昂って行き、いつしか涙が浮かんでいた。先を行く信長が、気配に振り返り、お鍋の涙の清らかさを見て微笑む。
「お屋形様、ありがとう存じます!ありがとう……」
信長の優しさ、お鍋を喜ばせようという悪戯心を知り、お鍋は幸福を感じた。信長の愛情を感じた。
「泣くのはまだ早いぞ。今から泣いてたら、体じゅうの水分が全て眦から出て行ってしまう」
信長はからかうが、その目は優しい。また、悪戯が成功して、してやったりという表情も混ざっている。
そんな信長の言葉にお鍋が首を傾げると、信長が屋敷の上へと誘った。
「今日からのそなたの住まいだ。この城の女主の御殿に相応しいだろ?」
屋敷内は土豪の物とは思えぬ豪華さだった。金銀散りばめられた幕や敷物に飾られている。
主殿まで手を引かれて、胸いっぱいのお鍋。大広間には多数の侍女が平伏していた。
彼女たちの間を通り、部屋の中央に進む。すると、そこに打ち掛けを着た女が三つ指をついていた。岐阜城の上臈のようなきらびやかな装いだ。
信長は部屋の奥の一段高い上座に、お鍋はその斜め横に腰を下ろす。
襖絵も趣向を凝らし、まるで岐阜城の中にいるような錯覚に陥る。
信長はすぐに上臈に声をかけた。
「その方が三崎か」
「はい、お初にお目もじかないま……」
「鍋!於巳は横山城にやってしまった故、これはそなたの新しい侍女だ。三崎御前よ」
「三崎……まさか」
お鍋の声が震えた。
三崎殿がすっと面を上げた。その瞬間、あっとなる。
自身によく似た面差しの女――互いにそう思った。
「もしや、姉上……姉上にございますか?」
三崎殿は大きく二度頷いた。
「お久しゅうございます、御方様!ご立派におなり遊ばされましたなあ。本日より、誠心誠意お仕え致しまする。何卒良しなに……」
言っている間に、三崎殿の視界が涙でゆがんでくる。
幼かったお鍋は覚えていないが、三崎殿は妹をよく覚えていた。
三崎殿はお鍋の実姉である。赤子だった頃のお鍋を、それはそれは可愛がって面倒を見ていた。
まだ幼いお鍋が、小倉三河守の養女として貰われて行った日のことは、今でも覚えている。
お鍋は姉と別れたくないと駄々をこねて泣いた。それを、悲しい気持ちを必死に抑えながら見送ったのだ、三崎殿は。
こんなに泣いて嫌がって。妹は幸せになれるのだろうか、幸せなのだろうか。まだ少女の頃の三崎殿はそう思った。
あの幼かった妹が。こんなに美しく立派になって、小田城に帰ってきたのだ。
「私もこの城の変貌ぶりに、毎日腰が抜けるほど驚いているのです。こんな夢のような御殿を建てて頂けるなんて、御方様、お幸せですね。良かった。ほんに良かった……」
言葉を詰まらせる三崎殿に、お鍋のゆるんだ涙腺はもはや収拾がつかなくなっている。
「はい、はい。幸せです……まさか姉上にお会いできるなんて……お屋形様ったら、そこまでご用意なさっていたなんて……」
(私、本当に馬鹿だった。幸せ)
濃姫が何だというのか。濃姫がいようが、信長がお鍋に愛情を注いでくれていることは間違いないのだ。
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◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』でも同時掲載しています◇
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
徳川慶勝、黒船を討つ
克全
歴史・時代
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
尾張徳川家(尾張藩)の第14代・第17代当主の徳川慶勝が、美濃高須藩主・松平義建の次男・秀之助ではなく、夭折した長男・源之助が継いでおり、彼が攘夷派の名君となっていた場合の仮想戦記を書いてみました。夭折した兄弟が活躍します。尾張徳川家15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬、特に会津藩主・松平容保と会津藩士にリベンジしてもらいます。
もしかしたら、消去するかもしれません。
戦国終わらず ~家康、夏の陣で討死~
川野遥
歴史・時代
長きに渡る戦国時代も大坂・夏の陣をもって終わりを告げる
…はずだった。
まさかの大逆転、豊臣勢が真田の活躍もありまさかの逆襲で徳川家康と秀忠を討ち果たし、大坂の陣の勝者に。果たして彼らは新たな秩序を作ることができるのか?
敗北した徳川勢も何とか巻き返しを図ろうとするが、徳川に臣従したはずの大名達が新たな野心を抱き始める。
文治系藩主は頼りなし?
暴れん坊藩主がまさかの活躍?
参考情報一切なし、全てゼロから切り開く戦国ifストーリーが始まる。
更新は週5~6予定です。
※ノベルアップ+とカクヨムにも掲載しています。
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