小倉鍋──織田信長の妻になった女──

国香

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故郷

四・近江紀行(下)

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 信長が佐和山城で遊んでいる間に、一揆は片付いた。

 織田軍が討った一揆勢の首は七百近く、ものの一日のことだ。恐れた小川の一揆勢は城を開いて降伏してきたので、三日とかからず片付いた。

 信長は知らせを受けて、佐和山城を出、安土へ向かうことにする。

 月が改まり、九月になっていた。

 お鍋は信長に連れられ、佐和山城を出た。鶴姫も松寿も一緒である。そして、甚五郎も。

 しかし、愛知川まで来た所で、小倉左近将監良親が出迎えに来ていた。

「左近将監か、ご苦労」

 信長は行軍を止めた。軍の後方から、甚五郎が出てきて、信長の傍らまで進む。

 片膝をつき、信長、甚五郎に頭を垂れている良親。信長はそれを目の隅に捉えながら、甚五郎に訊いた。

「母御前に挨拶は済ませたか?ここで別れぞ」

 甚五郎は毅然として言った。

「佐和山を出る時、すでに挨拶は済ませております」

 信長の視界に入る位置に、お鍋の輿がある。輿は戸を開けている様子もなく、静穏そのものだった。

「そうか、すでに済ませておるか」

 今さらお鍋が出てきて、見苦しく甚五郎と涙の別離を演じることはない。お鍋はこのまま姿を見せることもないのだろう。

 甚五郎も最後に一目母に会いたいなどとは言わず、態度にさえ微塵も見せなかった。

 信長は子供らしからぬその気丈さに満足して頷き、良親の方に向き直った。

「左近将監、甚五郎を頼む」

「はっ!」

 そして、もう一度甚五郎を見やった。

「甚五郎、小倉城を速やかに立て直し、大森城の布施父子と連携して、鯰江城を監視せよ」

「はい!」

 ここで、甚五郎とは別行動になった。

 甚五郎は自身の軍勢と共に良親とこの地に留まり、織田軍の行軍を見送る。

 信長、馬廻り衆が愛知川を渡り、次々に甚五郎の前を通り過ぎて行く。

 やがて、お鍋を乗せた輿も通って行ったが、甚五郎はそれにはそっと頭を下げていた。通り過ぎるまで、頭を上げなかった。

 輿の方も戸が開くことはなく、中の人の様子もわからぬままだった。

 甚五郎は通り過ぎて行った輿の後を目で追うこともしない。それが武家の男子たるものだろう。

「さて、お見送りはこの辺りにして。そろそろ行きましょうか」

「はい。本日より宜しくご指導お願い申し上げます」

 織田軍があらかた行ってしまうと、甚五郎は良親に促され、上流へ向けて出発した。つい昨日まで一揆が起きていた地域、さらには敵の鯰江城を睨みつけながら、ついに小椋に着いた。

 小倉城城主となった甚五郎。八歳の旅立ちである。良親の補佐を受け、さっそく城の再建に乗り出して行く。

 小倉城は去る永禄七年の小倉一族の内訌で、小倉左近助良秀が死んで廃城になって以来の城主であった。往時を偲ばせる城跡に、良親が涙したことは言うまでもない。良親は亡き良秀の子息である。

 新しい城は以前よりも堅固なものとして蘇ることになる。

 昨日まで一揆が起きていた真っ只中を進んで、信長は安土の常楽寺に入った。

「鍋、しばらく逗留することになるから、津田に行ってこよう。そのまま小田に送ってやる」

 安土に着くと、さっそく遊山に繰り出そうとする。

(甚五郎と別れて、私が落ち込まないようにと、気晴らしさせて下さるのだろう)

 お鍋は良い方に解釈した。

 一見遊山のような今回の出陣、実は信長には真の目的があった。だが、それを為す前に、思わぬ障壁ができ、安土に足止めされている状態なのだ。

 この先、守山、草津、大津へと進む予定だったのだが、守山からほど遠からぬ地域で、また一揆が勃発したのである。信長の南下に合わせての蜂起であった。

 金森城の一揆で、六角承禎が指揮していた。地侍、一向宗門徒の民だけで起こした一揆とは違う。六角承禎の下、その旧臣どもが率いる軍勢だ。六角旧臣の軍勢と一向一揆勢が合流した軍。今までの一揆と違い、かなり厄介である。

 寄せ集めの民ではないから、一揆掃討は難航する可能性もあった。長引くことも視野に入れ、信長はその間、安土を拠点に周辺で遊ぼうと考えたらしい。

 信長はお鍋に馬を与え、自分も騎乗した。袴をはいたお鍋には、随分久しぶりの乗馬である。

(久しく乗ってないわね)

 もう馬になんか乗れなくなっているのではないかと、不安を覚えながらも馬に跨がってみると、視界が広がって、うきうきと気分が高揚してくる。

(乗れた!)

 甚五郎との別離の感傷も霧散して、明るく弾んできた。

 信長はお鍋の表情の変化に、すっと目を細めた。

「そなたの凛々しい姿を見るのは久しぶりだ。火事騒ぎ以来のことだな」

「まあ」

「あの時のそなたは勇ましかったし、騎乗姿もさまになってた」

「お屋形様はぎらついておられました。随分からかわれましたわ!」

「そなたが可愛かったからだ。あんな溌剌とした娘は初めてだったから、感心した。興味深かった。懐かしいよ、今日のそなたはあの時のようで嬉しい」

 いつもは絶対言わないようなことを、さらりと口にする信長。

 お鍋は牡丹のように顔じゅう真っ赤に染めた。自分で火照りがわかり、照れ隠しのように、空に目を向けたり、あちこちきょろきょろする。

「槍なぞ降らんぞ!」

 かかと笑って、信長は馬の腹を軽く蹴った。馬が小走りに駆け出す。

 お鍋も慌ててついて行く。

 二人の乗馬に従うのは十人ほどの小姓衆である。

 秋風が、乗馬の汗に心地好い。

 安土を出て、琵琶湖の湖畔を進み行く。日に輝いて、湖面が眩しいばかりである。

 美しく広い湖。

 照り返しの眩しさもいとわず、目を細めながら見ていたい景色だ。

 湖面遥か、陽炎のように見える対岸の風景を、信長はきっと見やって、美しい日差しの中を進んで行った。

「佳い所だ。鍋はこの景色の中に生まれ、我が先祖・平親真殿はこの中に育まれた。俺もここに生きよう」

 信長は隣を行くお鍋にそう言った。

「それは――?」

 信長はやがて、岐阜を出て、この地に移るということだろうか。

「俺は御台の故郷に住んでいる。だが、間もなくそなたの故郷に移る。織田家の故郷にな」

 しばらく馬を走らせ、津田に着いた。

 津田のどこに先祖の住まいがあったのか、今となってはわからない。

 だが、信長は感無量といった様子で、馬を止めた。お鍋も小姓衆も立ち止まる。

 信長は小姓衆を振り返って宣言した。

「この津田庄こそが、我が織田家発祥の地である。ついに俺は故郷に帰ってきた。すなわち、平資盛卿の遺児・織田親真殿はここで育ったのだ。皆よく覚えておくように。――では、これから小田へ行く」

 信長は再び馬を走らせ、白鳥川を越えた。お鍋は隣を走らせる。

「津田に社をお建てになられては如何でしょうか?」

「社か。考えておこう。ところで、小田に行ったら、今夜はそのまま泊まる。明日、篠原まで足を伸ばしてみよう」

 金森一揆の行方など完全に忘れたかのように、信長は気ままにお鍋との時間を楽しんでいた。

(ありがたいこと)

 彼女はこうした時間を作ってくれた信長に感謝した。

 小田は日野川下流域にある。少し遡上すれば、平宗盛終焉の地の篠原に。さらに上流へ行けば、川は二又に分かれ、それぞれ小倉家の本拠・佐久良と、冬姫のいる日野へと繋がっている。

 お鍋は小田で生まれたが、実父とは早くに死に別れて、その顔さえ覚えていない。物心ついた時には、高畠家の本家筋の小倉三河守の養女になっていた。

 小田で過ごした頃の記憶はほとんどなく、佐久良こそがお鍋には懐かしい思い出の故郷である。日野川を見て、望郷の念を覚えたのは佐久良の方であった。

 しかし、確かに小田はお鍋の生まれた場所、真の故郷なのである。

 三河守のもとに養女に出された時には、きっとこの日野川を上流へ向けて進んで行ったに違いないのだ。そう思えば、自分の出発点に戻ってきたのは、感慨深い思いがする。

「鍋、見えてきたぞ、そなたが産声を上げた場所が」

 日野川に思い馳せていたお鍋は、信長の声で我に返った。信長の指差す方に、確かに立派な櫓が見える。

「え、あれ?」

 随分と高さのある櫓に、お鍋はびっくりした。あんな櫓、この辺にあっただろうか。

 近付いて行くに従って、小田城の威容さが視界いっぱいに広がって行く。

(こんな所にこんな堅固な城が?小田城がこんなに立派なんて……)

 驚きを隠せない。

 よく見れば、太鼓櫓に月見楼まであり、それが真新しく、風情がある。

 堀は鯰江城のように深く、満々と水を湛え、逆に土塁は高々と聳えて、佐久良城や長寸城よりも堅固に見えた。

「凄い!」

 小倉家の分家の支流の城とは思えない。

「俺の妻の城だ、当たり前だろ!」

 あんぐり口を開けているお鍋に、信長が得意気に言った。

「気に入ったか?」

 お鍋はそのまま、こくこくと頷いた。

「今夜は雅びに月見といきたい所だが、まだ月は見えまいな」

 三日月でも見えようか。

 お鍋はその麗しい月見楼を見て、はっとしたように、隣の信長を見やった。

「もしや、お屋形様、私が小田に住みたいと申したから、急仕立てで、この城を改修して下さったのですか?」

 お鍋が小田に住みたいと願い、許されてから今日に至るまでに、数ヶ月かかった。

 信長はふふんと、さらに得意気だ。

「そなたを驚かせてやろうと思ってな、急いで普請させた」

 お鍋を喜ばせようとして。

 だから、すぐに近江行きの許可が下りなかったのだ。

 しかし、これだけの大改修。それをこの期間でやってしまうのは、逆にかなり短期間の工事だったといえる。その迅速さも驚愕ものだ。

「内緒でこんな凄いものを、あっという間に作っておしまいになるなんて――」

「いつまでも阿呆みたいな顔してないで、ほら、さっさと中に入るぞ」

 促されて、まだ堀の外にいたことに気付く。

 信長がさっと馬を進め、堀にかかる橋を渡って行く。お鍋も慌てて従った。城門をくぐり、そこからは馬を預けて歩いて行く。

 中も堅固な造りだが、本丸の奥は岐阜城の館内のように、風情ある庭園と姿の美しい屋敷が建っていた。そこから見える月見楼も、お鍋が登ることを考えて設計されており、庭の景色と溶け込んでいて見事だ。

 中を見て歩くうちに、お鍋の感情は昂って行き、いつしか涙が浮かんでいた。先を行く信長が、気配に振り返り、お鍋の涙の清らかさを見て微笑む。

「お屋形様、ありがとう存じます!ありがとう……」

 信長の優しさ、お鍋を喜ばせようという悪戯心を知り、お鍋は幸福を感じた。信長の愛情を感じた。

「泣くのはまだ早いぞ。今から泣いてたら、体じゅうの水分が全て眦から出て行ってしまう」

 信長はからかうが、その目は優しい。また、悪戯が成功して、してやったりという表情も混ざっている。

 そんな信長の言葉にお鍋が首を傾げると、信長が屋敷の上へと誘った。

「今日からのそなたの住まいだ。この城の女主の御殿に相応しいだろ?」

 屋敷内は土豪の物とは思えぬ豪華さだった。金銀散りばめられた幕や敷物に飾られている。

 主殿まで手を引かれて、胸いっぱいのお鍋。大広間には多数の侍女が平伏していた。

 彼女たちの間を通り、部屋の中央に進む。すると、そこに打ち掛けを着た女が三つ指をついていた。岐阜城の上臈のようなきらびやかな装いだ。

 信長は部屋の奥の一段高い上座に、お鍋はその斜め横に腰を下ろす。

 襖絵も趣向を凝らし、まるで岐阜城の中にいるような錯覚に陥る。

 信長はすぐに上臈に声をかけた。

「その方が三崎か」

「はい、お初にお目もじかないま……」

「鍋!於巳は横山城にやってしまった故、これはそなたの新しい侍女だ。三崎御前よ」

「三崎……まさか」

 お鍋の声が震えた。

 三崎殿がすっと面を上げた。その瞬間、あっとなる。

 自身によく似た面差しの女――互いにそう思った。

「もしや、姉上……姉上にございますか?」

 三崎殿は大きく二度頷いた。

「お久しゅうございます、御方様!ご立派におなり遊ばされましたなあ。本日より、誠心誠意お仕え致しまする。何卒良しなに……」

 言っている間に、三崎殿の視界が涙でゆがんでくる。

 幼かったお鍋は覚えていないが、三崎殿は妹をよく覚えていた。

 三崎殿はお鍋の実姉である。赤子だった頃のお鍋を、それはそれは可愛がって面倒を見ていた。

 まだ幼いお鍋が、小倉三河守の養女として貰われて行った日のことは、今でも覚えている。

 お鍋は姉と別れたくないと駄々をこねて泣いた。それを、悲しい気持ちを必死に抑えながら見送ったのだ、三崎殿は。

 こんなに泣いて嫌がって。妹は幸せになれるのだろうか、幸せなのだろうか。まだ少女の頃の三崎殿はそう思った。

 あの幼かった妹が。こんなに美しく立派になって、小田城に帰ってきたのだ。

「私もこの城の変貌ぶりに、毎日腰が抜けるほど驚いているのです。こんな夢のような御殿を建てて頂けるなんて、御方様、お幸せですね。良かった。ほんに良かった……」

 言葉を詰まらせる三崎殿に、お鍋のゆるんだ涙腺はもはや収拾がつかなくなっている。

「はい、はい。幸せです……まさか姉上にお会いできるなんて……お屋形様ったら、そこまでご用意なさっていたなんて……」

(私、本当に馬鹿だった。幸せ)

 濃姫が何だというのか。濃姫がいようが、信長がお鍋に愛情を注いでくれていることは間違いないのだ。
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