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安土
六・秘説(上)
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お鍋の前には川副四郎兵衛がかしこまっている。お鍋と、その傍らで乳母に抱かれて眠る酌に、頭を下げているのだ。服従を誓うように。
四郎兵衛は晴れて、酌の守役として小田城に仕える身となった。信長の命により。
「宜しく頼むわね、四郎兵衛」
「はっ」
ゆっくりと頭を上げた四郎兵衛は眩しそうに、お鍋を見た。確かに彼女の背後には、光背のように目映い金の屏風が広がっている。
そのせいか、四郎兵衛は長くお鍋を見ていられず、すぐに伏し目になって、それでもはきとした口調で言った。
「結局、蒲生家はお咎めなしでございましたな」
理不尽なまでの蒲生家の厚遇の、その終焉は叶わなかった。
「冬姫様が入られたから、無理だったのよ」
お鍋はやれやれと笑った。
「はっ、左様で……」
思いがけない刺客であったと、四郎兵衛は苦々しく思った。
(とはいえ、お屋形様には蒲生の悪事は伝わった。私をお取り上げになり、御方様に下されたのは、蒲生に対して、お屋形様のお咎めのお気持ちのあらわれであろう)
四郎兵衛はそうも思う。
「畏れながら、御方様はお諦めになられるのですか?ご幼少の頃より、辛酸を嘗めさせられたと――」
「冬姫様は酌様の姉上です。冬姫様の家をお恨みすることは、もはやありますまい。あれは、冬姫様の家と思うことに致しました。もう快幹軒殿もおとなしく余生を送られるばかりでしょう。もはや快幹軒殿の出る幕もありますまい。冬姫様には逆らえないでしょう。蒲生は完全に姫様に握られています。あの家はもう織田家です。私も織田家の者として、姫様と共にあの家――織田家をもり立てることに致します」
「さすがは!」
四郎兵衛は思わず顔を上げてしまった。瞬間、お鍋と目が合い、また慌てて目を伏せた。
「四郎兵衛はひどく快幹軒殿を恨んでいるようね。何かあったのかしら?」
「実は、叔従父が……っ!」
言いかけて、はっとして、四郎兵衛は口ごもった。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
「訊かれたことには答えなさい。そなたのお身内がどうしたというのです?」
お鍋がややきつめの声を出すと、四郎兵衛は額に冷や汗を滲ませた。
「は……それが、あのご隠居様に打擲されまして。その傷がもとで、しばらく後に亡くなりましたもので……」
「どうして?いつ?そなた達はずっと佐久良城にいたでしょう?兄上――我が義兄の実隆殿に仕えていたでしょう?兄上が討ち死になさった頃、負傷して隠居したと聞いていたから、てっきり戦で深手を負ったものだと思っていたわ……」
お鍋は驚いた。
実隆が討ち死にした頃、お鍋もばたばたしていた。亡夫が実隆側につくか山上側につくかで、甚五郎が蒲生家に奪われ、お鍋は小倉左近助の小倉城に捕われ、その小倉城も落城し。あの時、あまりにごたごたしていたので、四郎兵衛の叔従父の負傷の真相など、たいして気にするでもなく、探ることもなかった。
時期が時期だけに、戦による負傷だと思っていた。そういう者が他にもたくさんいた。
「いったいどうして、快幹軒殿はそなたの叔従父を打ち据え、それがもとで死なせるに至ったのです?」
「それは、於巳殿が捕えられたからでして……」
言いにくそうに、四郎兵衛は言った。四郎兵衛の叔従父とは於巳の兄である。
「於巳殿がその、高野の……」
「私の亡き前夫のことね?確かに右京亮殿は、あの戦のどさくさに、於巳殿を捕えたわね」
永禄七年の小倉家の不幸な内紛。
「はっ、あの折は小倉家が幾つにも分かれて争い、誰が敵で誰が味方かもわからず、また、昨日の敵が急に明日は味方となったり、その逆もしかりという状況で、混乱していました。於巳殿が捕えられた当初、蒲生家も川副家も、於巳殿と連絡がとれなくなりました故……事情がわからず、於巳殿が敵方に転じたのかもしれないと……その、捕われたという事実がはっきり判明するまで、川副家にはご隠居様よりのお疑いが……」
「えっ、なにそれ!」
初耳である。同時に心臓が一つ、びくりと大きく脈打った。
「小倉の殿(実隆)がお討ち死に遊ばし、ご隠居様もお辛かったのでございましょう。川副が誤ったるが故に、殿はお討ち死に遊ばしたのではないかとさえ仰いまして。いや、川副の一族の中には以前、六角の屋形に逆らい、浅井に寝返った輩もあるゆえ、此度も山上の右近大夫に内通して、六角の屋形に楯突いているのだろう、と……」
あの時は小倉家の内訌とはいえ、本家の実隆に対して六角義治から、山上領主の右近大夫を討伐するよう、命が下されていた。右近大夫は主家に謀叛した者という立場であった。
実はそれより遡ること四年、六角家から独立した浅井長政に同調し、六角家に謀叛を起こした者がいた。
六角家の本拠地・観音寺城にも、発祥地の小脇にある箕作城にも近い、五箇荘の川副兵庫介である。
兵庫介の反乱はすぐに鎮圧されたが、於巳たちの一家は当時すでに蒲生家の者として、謀叛には無関係だった。とはいえ、兵庫介とは血縁の同族である。
定秀は日頃から、心のどこかで川副家を疑う気持ちがあったのだろう。
四年後の小倉家の内訌の折に、つい本音がぽろりと出たに違いない。
六角家に謀叛した川副の生き残りが、今また、六角家によって討伐されようとしている右近大夫に、加担したのではないかと。
定秀は息子の実隆の死で、正気を無くしていた時でもあり、打擲に及んだわけだ。
しかし、すぐに於巳は右京亮に捕えられたことが判明。定秀は川副家への疑いを解いた。
しかし、定秀の誤解は解けても、於巳の兄の傷は残る。
その傷は体だけでなく、心にも残ったのだろう。若かったのに、父親に先立って隠居した。しかし、療養の甲斐なく、亡くなったのだ。
「そんな……於巳殿からはそんなこと、一言も……」
お鍋は初めて聞く話に衝撃を受けた。
「叔従父は打擲を受けたことを黙っておりました。だから、皆も戦での負傷くらいにしか思っていなかったのです。ましてや、叔従父は於巳殿にだけは言えなかったのだと存じます」
自分が捕えられたせいで、兄が要らぬ折檻を受けたと知れば、於巳は傷付き悲しみ、悩むだろう。
「幼かったですが、それがしだけは、その打擲される場を見てしまったのです。その場には、ご隠居様と叔従父しかいませんでした。それがし以外に目撃した者はありませぬ。それ故、叔従父からは口止めされてきました。初めて他人に話しました、御方様だけにお話し申しました……」
口止めされて、誰にも言えず、これまでずっと心に抱え込んできたのだという。叔従父の於巳への気遣いを思えば、四郎兵衛も黙っているしかなかった。
だが、長年の溜まった鬱憤は、ついに堪えきれなくなった。顕忍騒動がきっかけとなり、ついに堰を切って溢れ出してしまったのだ。
お鍋は何も言えなくなってしまった。於巳の兄が折檻がもとで死んだならば、彼を結果的に殺したのは、打った定秀であろう。だが、於巳と連絡が途絶えなければ、そのようなことにはならなかったのだ。
(右京亮殿が於巳を捕えなかったら、そんなことにはならなかった……右京亮殿は間接的に殺したことになるわ……そもそも、甚との人質交換を目論んで、右京亮殿は於巳を捕えたのよね。私が、甚を奪われなかったら……)
実隆が討ち死にしたあの日、赤子の甚五郎を奪いに来た寺倉。奪われまいと、お鍋は必死に甚五郎の足を引っ張った。体を上と下から引っ張られ、痛みに絶叫した甚五郎。
甚五郎の体が引きちぎれてしまうと、お鍋は手を離してしまったのだった。あの時の手の感覚は、今でも忘れられない。はっきりと残っている。甚五郎のやわらかい華奢な足が、掌から滑り抜けて行くあの感触が。
そうして、甚五郎は奪われ、人質となったのだ。
(あの時、甚の痛がる姿があまりにも不憫で、堪えられなくて手を離してしまったから……於巳も右京亮殿に捕えられ……於巳の兄は死ぬことになったのね……)
涙が滲んでいた。
甚五郎を手離したあの時のことを回想する度に、いつも必ず滲んでくる涙だった。だが、今のはいつもと種類が違う。
「御方様……」
四郎兵衛は他人のために涙しているのだと、お鍋をさらに慕わしく思った。
*****************************
本願寺との戦は決着がつかなかった。いや、信長は敢えて途中にして切り上げてきたのかもしれない。
信長が本願寺を攻めたので、当分の間、東には来ないと見たのか、武田が動いたのだ。いや、実は本願寺はなお武田と連携しているのだろう。
実は昨年、信長がまさに長島の一揆勢との決戦に及ぼうとしていた時期、武田が遠江に進軍してきていた。それで、徳川家康が信長に援軍を要請してきた。だが、長島を放って東へ行けば、背後を脅かされ、長島と武田に東西から挟み撃ちにされる可能性があった。そのため、信長は援軍を出すことができなかったのだ。
その結果、徳川麾下となっていた高天神城を、武田に落とされてしまったのである。
今は長島がなくなった。とはいえ、代わりに本願寺と戦っている。その間は、信長も東へは来られない。
信長の目が西に向いている隙を狙っての、武田勝頼の進軍だったらしい。
昨年、遠江の高天神城を手にした武田軍は、今度は三河路に進んできた。
設楽郡に長篠城がある。ここは交通の要衝であり、以前から、武田と徳川の間で奪い合いが起きていた。
最近では、勝頼の亡父・信玄が手に入れていたのだが、その後、徳川が奪い返した。で、また武田が奪おうとしているわけである。
武田軍は一万五千で長篠城を取り囲んだ。
それを知った徳川家康から、信長に援軍の要請が来た。
昨年の高天神城に続き、今回も、信長は援軍を出さないのではないか。その勝頼の読みは的外れでもなかった。
実際、織田家中には、武田と正面から戦うべきではないという意見もあったのだ。信玄が死んだとはいえ、なお最強の武田軍団である。
そして、武田のもとには坊丸もいる。
しかし、徳川家康とは同盟関係にある。家康の嫡男・信康は信長の娘婿だ。二度続けて、助けに行かないというわけにもいかない。
それに、あまりな態度では、家康も背に腹はかえられないと、武田と手を結んでしまうかもしれない。
徳川と武田が手を組んで、織田家に総攻撃をしかけてくるようになったら厄介だ。東に味方がなく、直接敵と接してしまうし。
武田と本気で戦うつもりはなくとも、援軍は出さないわけにはいかなかった。
それで信長は、本願寺との戦を切り上げたのだ。東に転戦することに決めた。
「俺が本願寺との戦に夢中になっていると、武田は思っている。油断している敵の相手ならば、容易い」
それぞれの武将に普段の半分の兵の動員を命じた。
五月十三日、三万の軍を率いて、信長は三河へ向かった。
この三河の岡崎城で、徳川家康・信康父子は信長を出迎えた。
何事もなかったかのように、蒲生忠三郎を引き連れていた信長。
いつもは千以上で出陣する蒲生軍も、今回は五百のみで、率いているのも忠三郎のみ。賢秀は留守居である。
まるで小姓のように信長の背後に従っている忠三郎は、初めて相婿と対面した。信康は義兄、そして、岡崎城主。同盟者の子にして城主である。忠三郎は目下の立場の者として、信康に接した。丁寧に頭を下げる。
家康と信康も信長に頭を下げて歓迎した。信長も機嫌よく、時折信康に目をやりながら、家康と立ち話した。それから、信康にも声をかけた。
「そなたも健勝そうで何より」
そして、背後の忠三郎と見比べた。
信康は立派な体躯をしている。その体の印象のままの声で、これまたその印象通りの口調で返事した。
「五徳も息災にしていますぞ――と申すか、舅殿にご報告致すことがありましてな」
「ふん?」
信長は眉間に皺を刻ませ、聞き返した。
「懐妊してござるよ。来年、生まれ申す」
「何?」
瞬時に眉間を開き、皺が消えた。背後の忠三郎の目も驚きに見開かれている。
家康はほくほくと信長に目を向けた。
「左様でございます。まだわかりませぬが、男子なれば、我が松平、いや徳川の後継ぎ、まことに有難きことで」
「そうか」
家康は信長と五徳姫に、二重の感謝をしている。その喜びに頷いてから、信長は威勢のよい信康に。
「苦もなく、若くして子に恵まれて、五徳姫は幸せ者だ。婿殿、礼を申そう」
「お屋形様もついに祖父でございますぞ」
ほくそ笑む家康に、
「なあにを、お前こそ爺だぞ。あのはな垂れの竹千代が祖父とはなあ」
と、信長もやり返す。
信長と家康は子供の頃からの付き合いがある。信長は、まだ竹千代といった幼少の頃の家康と、よく遊んでやったものだ。
家康は最近苦境に喘いでいたが、あまり信長からの助けを得られなかった。だが、こうして会って話をすれば、全ての感情が消えて親しい仲に戻る。互いに軽口と冗談で笑い合う。
「がははは、いやしかし、めでたいな。とはいえ、婿殿は随分早く父親になるな。幾つだ?」
「十七で」
信康は屈託ない。信長も声の大きい人間だから、信康と話していると、周りの耳には少々迷惑。
忠三郎もそうなのだろうか、ずっと黙って堪えているような様子なのを、目敏く信康が見つけて話しかけてきた。
「おぬしが義弟殿か?」
忠三郎は驚いた。信長との会話の途中に他人に話しかけるなど、忠三郎には思いもよらないことだ。
「……はっ、蒲生賦秀にございまする」
とはいえ、無視などできるはずがなく、忠三郎が答えると、信康は親しげに近づいてきた。
「倅めは乱暴者で。蒲生殿のご子息は、噂に違わず落ち着いておられますなあ。文武両道にたいそう優れておられると伺っています、いや羨ましい」
そんな息子と忠三郎とを見比べて、家康が嘆息する。
「ははは、年の功というものだろう」
信長が謙遜すると、信康が忠三郎の肩を叩きながら、
「義弟殿は幾つ?」
と訊く。
「二十歳だ」
これまた信長が答えた。
「とはいえ、こやつもこれで、戦となると人が変わって、猪になる。何度叱っても改めぬ。戦場では、三郎殿(信康)と大差ない暴れ者よ。いくら言い聞かせても駄目なのだ、性分だな。もう諦めたわ」
「わははは、まるでご自分の実のお子のようですな、お屋形様。さぞご心配なのでしょう」
まるで実の我が子のように話す信長を、家康が揶揄すれば、信長も素直に。
「はらはらしている、だから、此度も連れてきたくなかった。また俺の寿命を縮めてくれる計画なんだろう、な、忠三郎?」
「お、お屋形様……」
忠三郎は口答えはしない。何やら小姓がおろおろしているような様子なのが、娘婿として、信康には奇異に映るらしい。顎に手を当て、首を傾げていたが、そのままの姿態でまた割り込んできた。
「義弟殿はわしよりも三つも年長でござるか。お子は?」
「……は、まだにございまする」
「これは失礼した」
「いえ、冬姫様はご幼少でございましたので」
「だいぶ大きゅうなられたかな?五徳も美人だが、妹殿も綺麗な娘だと聞いている。楽しみよな」
ぽんぽん忠三郎の肩を叩き、信康は離れて、家康の隣に戻ってきた。忠三郎は再び信長の背後に控える。
四郎兵衛は晴れて、酌の守役として小田城に仕える身となった。信長の命により。
「宜しく頼むわね、四郎兵衛」
「はっ」
ゆっくりと頭を上げた四郎兵衛は眩しそうに、お鍋を見た。確かに彼女の背後には、光背のように目映い金の屏風が広がっている。
そのせいか、四郎兵衛は長くお鍋を見ていられず、すぐに伏し目になって、それでもはきとした口調で言った。
「結局、蒲生家はお咎めなしでございましたな」
理不尽なまでの蒲生家の厚遇の、その終焉は叶わなかった。
「冬姫様が入られたから、無理だったのよ」
お鍋はやれやれと笑った。
「はっ、左様で……」
思いがけない刺客であったと、四郎兵衛は苦々しく思った。
(とはいえ、お屋形様には蒲生の悪事は伝わった。私をお取り上げになり、御方様に下されたのは、蒲生に対して、お屋形様のお咎めのお気持ちのあらわれであろう)
四郎兵衛はそうも思う。
「畏れながら、御方様はお諦めになられるのですか?ご幼少の頃より、辛酸を嘗めさせられたと――」
「冬姫様は酌様の姉上です。冬姫様の家をお恨みすることは、もはやありますまい。あれは、冬姫様の家と思うことに致しました。もう快幹軒殿もおとなしく余生を送られるばかりでしょう。もはや快幹軒殿の出る幕もありますまい。冬姫様には逆らえないでしょう。蒲生は完全に姫様に握られています。あの家はもう織田家です。私も織田家の者として、姫様と共にあの家――織田家をもり立てることに致します」
「さすがは!」
四郎兵衛は思わず顔を上げてしまった。瞬間、お鍋と目が合い、また慌てて目を伏せた。
「四郎兵衛はひどく快幹軒殿を恨んでいるようね。何かあったのかしら?」
「実は、叔従父が……っ!」
言いかけて、はっとして、四郎兵衛は口ごもった。
「どうしたの?」
「い、いえ……」
「訊かれたことには答えなさい。そなたのお身内がどうしたというのです?」
お鍋がややきつめの声を出すと、四郎兵衛は額に冷や汗を滲ませた。
「は……それが、あのご隠居様に打擲されまして。その傷がもとで、しばらく後に亡くなりましたもので……」
「どうして?いつ?そなた達はずっと佐久良城にいたでしょう?兄上――我が義兄の実隆殿に仕えていたでしょう?兄上が討ち死になさった頃、負傷して隠居したと聞いていたから、てっきり戦で深手を負ったものだと思っていたわ……」
お鍋は驚いた。
実隆が討ち死にした頃、お鍋もばたばたしていた。亡夫が実隆側につくか山上側につくかで、甚五郎が蒲生家に奪われ、お鍋は小倉左近助の小倉城に捕われ、その小倉城も落城し。あの時、あまりにごたごたしていたので、四郎兵衛の叔従父の負傷の真相など、たいして気にするでもなく、探ることもなかった。
時期が時期だけに、戦による負傷だと思っていた。そういう者が他にもたくさんいた。
「いったいどうして、快幹軒殿はそなたの叔従父を打ち据え、それがもとで死なせるに至ったのです?」
「それは、於巳殿が捕えられたからでして……」
言いにくそうに、四郎兵衛は言った。四郎兵衛の叔従父とは於巳の兄である。
「於巳殿がその、高野の……」
「私の亡き前夫のことね?確かに右京亮殿は、あの戦のどさくさに、於巳殿を捕えたわね」
永禄七年の小倉家の不幸な内紛。
「はっ、あの折は小倉家が幾つにも分かれて争い、誰が敵で誰が味方かもわからず、また、昨日の敵が急に明日は味方となったり、その逆もしかりという状況で、混乱していました。於巳殿が捕えられた当初、蒲生家も川副家も、於巳殿と連絡がとれなくなりました故……事情がわからず、於巳殿が敵方に転じたのかもしれないと……その、捕われたという事実がはっきり判明するまで、川副家にはご隠居様よりのお疑いが……」
「えっ、なにそれ!」
初耳である。同時に心臓が一つ、びくりと大きく脈打った。
「小倉の殿(実隆)がお討ち死に遊ばし、ご隠居様もお辛かったのでございましょう。川副が誤ったるが故に、殿はお討ち死に遊ばしたのではないかとさえ仰いまして。いや、川副の一族の中には以前、六角の屋形に逆らい、浅井に寝返った輩もあるゆえ、此度も山上の右近大夫に内通して、六角の屋形に楯突いているのだろう、と……」
あの時は小倉家の内訌とはいえ、本家の実隆に対して六角義治から、山上領主の右近大夫を討伐するよう、命が下されていた。右近大夫は主家に謀叛した者という立場であった。
実はそれより遡ること四年、六角家から独立した浅井長政に同調し、六角家に謀叛を起こした者がいた。
六角家の本拠地・観音寺城にも、発祥地の小脇にある箕作城にも近い、五箇荘の川副兵庫介である。
兵庫介の反乱はすぐに鎮圧されたが、於巳たちの一家は当時すでに蒲生家の者として、謀叛には無関係だった。とはいえ、兵庫介とは血縁の同族である。
定秀は日頃から、心のどこかで川副家を疑う気持ちがあったのだろう。
四年後の小倉家の内訌の折に、つい本音がぽろりと出たに違いない。
六角家に謀叛した川副の生き残りが、今また、六角家によって討伐されようとしている右近大夫に、加担したのではないかと。
定秀は息子の実隆の死で、正気を無くしていた時でもあり、打擲に及んだわけだ。
しかし、すぐに於巳は右京亮に捕えられたことが判明。定秀は川副家への疑いを解いた。
しかし、定秀の誤解は解けても、於巳の兄の傷は残る。
その傷は体だけでなく、心にも残ったのだろう。若かったのに、父親に先立って隠居した。しかし、療養の甲斐なく、亡くなったのだ。
「そんな……於巳殿からはそんなこと、一言も……」
お鍋は初めて聞く話に衝撃を受けた。
「叔従父は打擲を受けたことを黙っておりました。だから、皆も戦での負傷くらいにしか思っていなかったのです。ましてや、叔従父は於巳殿にだけは言えなかったのだと存じます」
自分が捕えられたせいで、兄が要らぬ折檻を受けたと知れば、於巳は傷付き悲しみ、悩むだろう。
「幼かったですが、それがしだけは、その打擲される場を見てしまったのです。その場には、ご隠居様と叔従父しかいませんでした。それがし以外に目撃した者はありませぬ。それ故、叔従父からは口止めされてきました。初めて他人に話しました、御方様だけにお話し申しました……」
口止めされて、誰にも言えず、これまでずっと心に抱え込んできたのだという。叔従父の於巳への気遣いを思えば、四郎兵衛も黙っているしかなかった。
だが、長年の溜まった鬱憤は、ついに堪えきれなくなった。顕忍騒動がきっかけとなり、ついに堰を切って溢れ出してしまったのだ。
お鍋は何も言えなくなってしまった。於巳の兄が折檻がもとで死んだならば、彼を結果的に殺したのは、打った定秀であろう。だが、於巳と連絡が途絶えなければ、そのようなことにはならなかったのだ。
(右京亮殿が於巳を捕えなかったら、そんなことにはならなかった……右京亮殿は間接的に殺したことになるわ……そもそも、甚との人質交換を目論んで、右京亮殿は於巳を捕えたのよね。私が、甚を奪われなかったら……)
実隆が討ち死にしたあの日、赤子の甚五郎を奪いに来た寺倉。奪われまいと、お鍋は必死に甚五郎の足を引っ張った。体を上と下から引っ張られ、痛みに絶叫した甚五郎。
甚五郎の体が引きちぎれてしまうと、お鍋は手を離してしまったのだった。あの時の手の感覚は、今でも忘れられない。はっきりと残っている。甚五郎のやわらかい華奢な足が、掌から滑り抜けて行くあの感触が。
そうして、甚五郎は奪われ、人質となったのだ。
(あの時、甚の痛がる姿があまりにも不憫で、堪えられなくて手を離してしまったから……於巳も右京亮殿に捕えられ……於巳の兄は死ぬことになったのね……)
涙が滲んでいた。
甚五郎を手離したあの時のことを回想する度に、いつも必ず滲んでくる涙だった。だが、今のはいつもと種類が違う。
「御方様……」
四郎兵衛は他人のために涙しているのだと、お鍋をさらに慕わしく思った。
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本願寺との戦は決着がつかなかった。いや、信長は敢えて途中にして切り上げてきたのかもしれない。
信長が本願寺を攻めたので、当分の間、東には来ないと見たのか、武田が動いたのだ。いや、実は本願寺はなお武田と連携しているのだろう。
実は昨年、信長がまさに長島の一揆勢との決戦に及ぼうとしていた時期、武田が遠江に進軍してきていた。それで、徳川家康が信長に援軍を要請してきた。だが、長島を放って東へ行けば、背後を脅かされ、長島と武田に東西から挟み撃ちにされる可能性があった。そのため、信長は援軍を出すことができなかったのだ。
その結果、徳川麾下となっていた高天神城を、武田に落とされてしまったのである。
今は長島がなくなった。とはいえ、代わりに本願寺と戦っている。その間は、信長も東へは来られない。
信長の目が西に向いている隙を狙っての、武田勝頼の進軍だったらしい。
昨年、遠江の高天神城を手にした武田軍は、今度は三河路に進んできた。
設楽郡に長篠城がある。ここは交通の要衝であり、以前から、武田と徳川の間で奪い合いが起きていた。
最近では、勝頼の亡父・信玄が手に入れていたのだが、その後、徳川が奪い返した。で、また武田が奪おうとしているわけである。
武田軍は一万五千で長篠城を取り囲んだ。
それを知った徳川家康から、信長に援軍の要請が来た。
昨年の高天神城に続き、今回も、信長は援軍を出さないのではないか。その勝頼の読みは的外れでもなかった。
実際、織田家中には、武田と正面から戦うべきではないという意見もあったのだ。信玄が死んだとはいえ、なお最強の武田軍団である。
そして、武田のもとには坊丸もいる。
しかし、徳川家康とは同盟関係にある。家康の嫡男・信康は信長の娘婿だ。二度続けて、助けに行かないというわけにもいかない。
それに、あまりな態度では、家康も背に腹はかえられないと、武田と手を結んでしまうかもしれない。
徳川と武田が手を組んで、織田家に総攻撃をしかけてくるようになったら厄介だ。東に味方がなく、直接敵と接してしまうし。
武田と本気で戦うつもりはなくとも、援軍は出さないわけにはいかなかった。
それで信長は、本願寺との戦を切り上げたのだ。東に転戦することに決めた。
「俺が本願寺との戦に夢中になっていると、武田は思っている。油断している敵の相手ならば、容易い」
それぞれの武将に普段の半分の兵の動員を命じた。
五月十三日、三万の軍を率いて、信長は三河へ向かった。
この三河の岡崎城で、徳川家康・信康父子は信長を出迎えた。
何事もなかったかのように、蒲生忠三郎を引き連れていた信長。
いつもは千以上で出陣する蒲生軍も、今回は五百のみで、率いているのも忠三郎のみ。賢秀は留守居である。
まるで小姓のように信長の背後に従っている忠三郎は、初めて相婿と対面した。信康は義兄、そして、岡崎城主。同盟者の子にして城主である。忠三郎は目下の立場の者として、信康に接した。丁寧に頭を下げる。
家康と信康も信長に頭を下げて歓迎した。信長も機嫌よく、時折信康に目をやりながら、家康と立ち話した。それから、信康にも声をかけた。
「そなたも健勝そうで何より」
そして、背後の忠三郎と見比べた。
信康は立派な体躯をしている。その体の印象のままの声で、これまたその印象通りの口調で返事した。
「五徳も息災にしていますぞ――と申すか、舅殿にご報告致すことがありましてな」
「ふん?」
信長は眉間に皺を刻ませ、聞き返した。
「懐妊してござるよ。来年、生まれ申す」
「何?」
瞬時に眉間を開き、皺が消えた。背後の忠三郎の目も驚きに見開かれている。
家康はほくほくと信長に目を向けた。
「左様でございます。まだわかりませぬが、男子なれば、我が松平、いや徳川の後継ぎ、まことに有難きことで」
「そうか」
家康は信長と五徳姫に、二重の感謝をしている。その喜びに頷いてから、信長は威勢のよい信康に。
「苦もなく、若くして子に恵まれて、五徳姫は幸せ者だ。婿殿、礼を申そう」
「お屋形様もついに祖父でございますぞ」
ほくそ笑む家康に、
「なあにを、お前こそ爺だぞ。あのはな垂れの竹千代が祖父とはなあ」
と、信長もやり返す。
信長と家康は子供の頃からの付き合いがある。信長は、まだ竹千代といった幼少の頃の家康と、よく遊んでやったものだ。
家康は最近苦境に喘いでいたが、あまり信長からの助けを得られなかった。だが、こうして会って話をすれば、全ての感情が消えて親しい仲に戻る。互いに軽口と冗談で笑い合う。
「がははは、いやしかし、めでたいな。とはいえ、婿殿は随分早く父親になるな。幾つだ?」
「十七で」
信康は屈託ない。信長も声の大きい人間だから、信康と話していると、周りの耳には少々迷惑。
忠三郎もそうなのだろうか、ずっと黙って堪えているような様子なのを、目敏く信康が見つけて話しかけてきた。
「おぬしが義弟殿か?」
忠三郎は驚いた。信長との会話の途中に他人に話しかけるなど、忠三郎には思いもよらないことだ。
「……はっ、蒲生賦秀にございまする」
とはいえ、無視などできるはずがなく、忠三郎が答えると、信康は親しげに近づいてきた。
「倅めは乱暴者で。蒲生殿のご子息は、噂に違わず落ち着いておられますなあ。文武両道にたいそう優れておられると伺っています、いや羨ましい」
そんな息子と忠三郎とを見比べて、家康が嘆息する。
「ははは、年の功というものだろう」
信長が謙遜すると、信康が忠三郎の肩を叩きながら、
「義弟殿は幾つ?」
と訊く。
「二十歳だ」
これまた信長が答えた。
「とはいえ、こやつもこれで、戦となると人が変わって、猪になる。何度叱っても改めぬ。戦場では、三郎殿(信康)と大差ない暴れ者よ。いくら言い聞かせても駄目なのだ、性分だな。もう諦めたわ」
「わははは、まるでご自分の実のお子のようですな、お屋形様。さぞご心配なのでしょう」
まるで実の我が子のように話す信長を、家康が揶揄すれば、信長も素直に。
「はらはらしている、だから、此度も連れてきたくなかった。また俺の寿命を縮めてくれる計画なんだろう、な、忠三郎?」
「お、お屋形様……」
忠三郎は口答えはしない。何やら小姓がおろおろしているような様子なのが、娘婿として、信康には奇異に映るらしい。顎に手を当て、首を傾げていたが、そのままの姿態でまた割り込んできた。
「義弟殿はわしよりも三つも年長でござるか。お子は?」
「……は、まだにございまする」
「これは失礼した」
「いえ、冬姫様はご幼少でございましたので」
「だいぶ大きゅうなられたかな?五徳も美人だが、妹殿も綺麗な娘だと聞いている。楽しみよな」
ぽんぽん忠三郎の肩を叩き、信康は離れて、家康の隣に戻ってきた。忠三郎は再び信長の背後に控える。
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