夏椿の天使~あの日に出会った旋律

夏目奈緖

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31-1 Visible ray 始動

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 10月28日、月曜日、19時。

 デビューステージに向けてのリハーサルをやっている。IKU所有のコンサートホールでの開催だ。コンテストと同じ会場だ。ホールは別だが、ステージの配置などが共通しているから戸惑いが少ない。 

「6番に移ってくださーーーい」
「黒崎さん!スタンドの位置をーー」
「はい!45度ですかー?」

 監督の指示に従ってステージ上を動いて練習した。一番いい見え方と盛り上がりなどを確認している。ベテルギウスのステージはメンバーが暴れまわっているが、基本を一切崩していないから全体が成立するのだと植本さんから教わった。自分達は細部に渡ってリハを積んでいる。

 ガーーーー。

 上部には大きなカメラが移動している。上手くいけばライブDVDを作って販売するそうだ。今の状況もカメラに収められている。

 この映像が必要になればいいのに。売れないと作らない。数字という現実が訪れる日が怖い。黒崎に話すと、どんな業種でも同じだと笑われた。

「……撤収チーム担当者はこちちへー」
「……お疲れ様ですー」

 ざっと見るだけでも大勢の人が関わっている。ここに居ない人もいる。自分たちは作品の発表担当だと思っている。観客席にいる監督から、大きく手を振られた。そして、アシスタントの声がスピーカーから聞こえてきた。
 
「オーケーでーーす!」
「はーーい!」
「お疲れ様ですーー!」

 今日のリハーサルが終了した。12時から始めたのに、もうこんな時間だ。100%の力を出すのは本番のみだ。黒崎と佐久弥、悠人からも言い聞かされていることだ。

「10番、スクリーン担当者ーーー」
「入りますーーー」

 自分たちはこれで終わりだが、スタッフは深夜まで作業を続けている。これは役割分担だから”悪いな”と思うなと、そう佐久弥から教わった。今の自分たちに出来るのは持ち場を守ることだ。

「お疲れ様でした!」
「お疲れ様でーす」

 近くにいる人たちに挨拶をした。作業中で聞こえないかも知れない人にも。返事がなくてもいい。気持ちを伝えることだ。

 首筋の汗を拭きながらステージサイドに戻っていると、ギターを機材担当に渡している悠人から声を掛けられた。

「なつきーー」
「おつかれーー」
「俺も出るよ!一緒に帰ろう!」
「うん!」

 タタタタターー。

 悠人が素早くセットの上から降りて走ってきた。さっきまでDVD作成の撮影をしていたそうだ。ギターソロの部分だ。自分と同じことを言い出した。

「使わないかもしれないよね」
「うんうん。お蔵入りかもって……」
「半年後にライブは決定している。その後の活動は……」
「テレビがあったね~。デビュー後の宣伝で……。歌番組……」
「それしかないよねー。だめだだめだめだーー!ユーリの呪文を唱える!」

 悠人が早瀬さんから教えてもらった呪文を唱え始めた。変わった内容だけれど、緊張感がほぐれるならいいと思う。笑わずに真剣に耳を傾けた。

「ドキドキ、ドキドキ……、借りたネコ、ネコネコ……」
「へえ……、新しいバージョンだね?」
「なつきー、復唱してよーー」
「うん、いいよ~」
「ドキドキ、ドキドキ……」
「ドキドキ、ドキドキ」
「借りたネコ。ネコネコ、ネコネコ……」
「借りたネコ。ネコネコ、ネコネコ」
「小判、小判……」
「……コバン、コバン」
「ご飯、ご飯……」
「……ゴハン、ゴハン」
「落ち着いた!?」
「あ……」

 変な呪文だから返す言葉がない。面白いようで面白くない。カップル同士で伝わる類のものだ。俺と黒崎には存在しない甘さだ。ここは親友として答えよう。微笑むと、悠人の表情が和らいだ。

「ほっこりしたよ。お腹すいたよ~。帰ろうよ」
「うん!黒崎さん、もう着いてるんじゃない?」
「たぶん着いているよ。早瀬さんと一緒に来るってさ……」
「佐久弥も出てくるかもー、蔵之介さんが来てるから」
「打ち合わせが長引いてるね。もうすぐだもんね~」

 どんなに疲れていても、あの人の顔を見るだけで吹っ飛んでいる。喧嘩をしてもいい。豆腐の値段、マスタードの辛さ、些細なことでの言い合いが落ち着く。

 飛び込んだ新しい世界は、非日常的な場所だ。日常を見失わないように、庭を散歩して家族とご飯を食べろ。これも佐久弥からのアドバイスだ。

(……大事な人との時間が減っていく。体のリズムも崩れる。音楽ばかりと付き合うと、それ以外のことが分からなくなる。いいものが作れなくなる。……散歩、ご飯。それだけで大違いだ)
(……ありがとう。ステージの打ち上げ、こじんまりとやりたい。全体が終わった後に)
(……段取りするから楽しみにしておけ。ゆうとー、夏樹の左側に立てよーー)
(……おーーー!)

 昨日の会話なのに、一年以上も前に思える。出入り口では、マネージャーの長谷部さん、加藤さんが待っていた。明日の日程を再確認しつつホールを出た。

 10月末になり、この時間は涼しくなった。暑い夏をこえて冬が訪れようとしている。黒崎と迎える10月30日は、2回目の結婚記念日だ。去年は黒崎夏樹になった日だ。今年はミュージシャンとしてのデビューを迎える。予想もしてない未来が訪れた。来年はどんなことがあるのだろう?

「黒崎さーーん!」
「おかえり」

 ホールのそばにある関係者用の駐車場には、見慣れた3台の車が停まっていた。黒崎、早瀬さん、蔵之介さんのものだ。そのうちの一台に乗り込んだ。

 車のランプがついた後、ゆっくりと発進された。会話は静かで落ち着いたものだ。さっきまでの賑やかさとは反対だ。これが黒崎家のリズムだ。

「アンはお義父さんの家だよね?」
「ああ。親父が迎えに来た」
「アンが懐くはずだ~」
「お前が叱るからだ……」
「そうでもしないとさ~。あんたが放置するからだよ?トマトの苗を引っこ抜くんだよ?危ないじゃん」

 いつものように言い合いをした。お互いにわざとやっている。そして、アンタレスが輝く南の方へ出発した。
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