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# act20. 従騎士カイ
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【Side:カイ】
その日、王宮から帰宅して執務室に直行された団長は、奥様を攫うように抱きかかえて自室に消えてしまった。
残されたカイとジーンはその背中を呆然と見送ったが、やがて二人で顔を見合わせた。
いつも規律正しい銀狼の騎士。その氷が音を立てて崩壊しつつある。
だが、こういう事態は初めてだった。
カイは近衛騎士見習いの中でも格上の従騎士であり、アレクセイ邸では団長の前室を任されている。
前任者の昇進で任が空いたとき、近衛兵見習いの中から志願して選抜試験を受けた。
選考基準には体力や隠密スキルなど多くの項目があったが、アレクセイが最優先したのは『人格』だった。
素直で、柔軟。そして何より――メリザンドの侍女、ジーンの命令に従えるかどうか。
有力貴族の三男であるカイが、平民であるジーンの言葉を主君の命のように仰ぎ、尻尾を振って従う。
その「忠犬」ぶりこそが、合格の決め手だったのだ。
「……ジーン殿、報告。団長は、まだお姿を見せません」
本来なら、カイが前室でコートや帯剣を受け取り、手入れをする手筈だった。
だが団長は、カイに見向きもせず、奥様を抱えたまま寝室の扉を蹴破らんばかりの勢いで閉ざしてしまったのだ。
閉ざされた扉の前で、カイは行き場をなくした手を持て余し、うろうろと彷徨うことしかできなかった。
その後もカイは定期的にジーンへ報告に行ったが、状況は変わらなかった。
宵の鐘が鳴り、夜番への引継ぎの時間になっても、主寝室の扉は閉ざされたままだ。
「このままではいけませんね。夜食をお持ちしましょう」
当主も奥様も、夕食を召し上がっていない。
空腹のはずなのに、出てくる気配すらないのは何故だろう。
ジーンは手早くパンとチーズ、蜂蜜、ワインを揃えたワゴンを用意した。
「これを前室に、お願いします」
「えっ、俺がですか?」
「ええ。当主がお部屋に籠られてから、鐘が二つ鳴りました。いくらなんでも、もう『終わって』いる頃でしょう」
「ほ、本当ですか? ではなぜ、出てこないのでしょう」
「……以前、朝食をお持ちしたときは、眠たがる奥様をこれでもかと愛でておられました。ご当主は終わった後も、離れがたいご様子でしたから」
「そ、そうなんですね」
カイの顔はすでに真っ赤だ。
ジーンの手前、格好つけたいが、こういう事には慣れていない。
「それか、激しくて奥様が意識を手放されているのかもしれないし、お疲れで眠っておられるのかも」
意識を手放して……ごくり、とカイの喉が鳴った。
奥様が気絶するほど……そんなに情熱的なのだろうか。あの「銀狼の騎士」が?
「ああ、でも万が一。……まだ『最中』だった場合」
ジーンは真顔で、恐ろしいことを付け加えた。
「少しでも音を立てたら、殺されると思ったほうがいいわよ」
「ええっ!?」
カイは涙目でワゴンのハンドルを握った。
「ジーン殿……」
「私は呼ばれたときにしか行けない。前室に入れるのはカイ様だけなんですから」
「しょ、承知……」
カイは、恐る恐る前室の扉を開けた。
音はしていない、よかった。
ほっとしてワゴンの品を手に取ったとき。
「……あっ、やぁ……また」
奥様の掠れた声が耳を打った。
「いま終わったところなのに……」
「寂しかったんだろう? そう思わせてしまったのは私の失態だ」
脳が処理を拒否するほど甘い声。
誰? まさか……まさか……
団長……こ、こんな声も出せるのか?
「メル……二度と『片想い』だなんて言わせない。私がどれほど愛しているか……」
「あっ、あ……」
カイは今すぐに自分の存在をこの空間から消し去りたかった。
だが、まだ物品が残っている。
音を立ててはいけない。保温をしっかりする。
この二つの言いつけを忠実に守りながら、温石の上に湯盆を置き、布でしっかりと包んでいく。
「言葉では……足りないっ、不安になる隙間がないくらいに……」
「あっ……だめぇっ……あっ、んっんんっ」
何かに塞がれてくぐもる声に、カイは息を呑んだ。
もし何か失態をして、二人の時間を邪魔することになったら……そう思うと呼吸すら困難になる。
おそらく、ずっと鳴かされていたのだろう。掠れた甘い声。
けれどもそれは、とても嬉しそうだった。
もしも地獄というものがあるのなら、それはこのように甘い場所なのかもしれない。
カイは全ての物品をきちんと置くと、静かに扉から出ていった。
前室に設置完了の報告をしに行くと、ジーンは小さく微笑んだ。
「……あんまり感情を顔に出しては駄目よ。奥様が恥ずかしがるから」
「ど、努力します」
「お疲れ様でした。引継ぎを終えたら……夜間休憩室へ。夜食を用意してあります」
「あっ、ありがとうございます!」
ジーンが手ずから用意してくれた。そのことが嬉しすぎて、先ほどの地獄が天国に塗り替えられていく。
――だって、俺の甘さはここにあるんだから。
「ほら、顔に出さない」
「……これは無理です」
ため息をつくジーンの後ろをついて行く。
きっと犬みたいって思われているんだろうな。
それでも、ジーンの些細な行動に反応する自分を抑えることは難しかった。
背後では、まだ主寝室から甘い熱が漏れ出している気がした。
あの「銀狼」の底なしの体力に、奥様が朝まで無事でいられることを、カイはひっそりと祈った。
その日、王宮から帰宅して執務室に直行された団長は、奥様を攫うように抱きかかえて自室に消えてしまった。
残されたカイとジーンはその背中を呆然と見送ったが、やがて二人で顔を見合わせた。
いつも規律正しい銀狼の騎士。その氷が音を立てて崩壊しつつある。
だが、こういう事態は初めてだった。
カイは近衛騎士見習いの中でも格上の従騎士であり、アレクセイ邸では団長の前室を任されている。
前任者の昇進で任が空いたとき、近衛兵見習いの中から志願して選抜試験を受けた。
選考基準には体力や隠密スキルなど多くの項目があったが、アレクセイが最優先したのは『人格』だった。
素直で、柔軟。そして何より――メリザンドの侍女、ジーンの命令に従えるかどうか。
有力貴族の三男であるカイが、平民であるジーンの言葉を主君の命のように仰ぎ、尻尾を振って従う。
その「忠犬」ぶりこそが、合格の決め手だったのだ。
「……ジーン殿、報告。団長は、まだお姿を見せません」
本来なら、カイが前室でコートや帯剣を受け取り、手入れをする手筈だった。
だが団長は、カイに見向きもせず、奥様を抱えたまま寝室の扉を蹴破らんばかりの勢いで閉ざしてしまったのだ。
閉ざされた扉の前で、カイは行き場をなくした手を持て余し、うろうろと彷徨うことしかできなかった。
その後もカイは定期的にジーンへ報告に行ったが、状況は変わらなかった。
宵の鐘が鳴り、夜番への引継ぎの時間になっても、主寝室の扉は閉ざされたままだ。
「このままではいけませんね。夜食をお持ちしましょう」
当主も奥様も、夕食を召し上がっていない。
空腹のはずなのに、出てくる気配すらないのは何故だろう。
ジーンは手早くパンとチーズ、蜂蜜、ワインを揃えたワゴンを用意した。
「これを前室に、お願いします」
「えっ、俺がですか?」
「ええ。当主がお部屋に籠られてから、鐘が二つ鳴りました。いくらなんでも、もう『終わって』いる頃でしょう」
「ほ、本当ですか? ではなぜ、出てこないのでしょう」
「……以前、朝食をお持ちしたときは、眠たがる奥様をこれでもかと愛でておられました。ご当主は終わった後も、離れがたいご様子でしたから」
「そ、そうなんですね」
カイの顔はすでに真っ赤だ。
ジーンの手前、格好つけたいが、こういう事には慣れていない。
「それか、激しくて奥様が意識を手放されているのかもしれないし、お疲れで眠っておられるのかも」
意識を手放して……ごくり、とカイの喉が鳴った。
奥様が気絶するほど……そんなに情熱的なのだろうか。あの「銀狼の騎士」が?
「ああ、でも万が一。……まだ『最中』だった場合」
ジーンは真顔で、恐ろしいことを付け加えた。
「少しでも音を立てたら、殺されると思ったほうがいいわよ」
「ええっ!?」
カイは涙目でワゴンのハンドルを握った。
「ジーン殿……」
「私は呼ばれたときにしか行けない。前室に入れるのはカイ様だけなんですから」
「しょ、承知……」
カイは、恐る恐る前室の扉を開けた。
音はしていない、よかった。
ほっとしてワゴンの品を手に取ったとき。
「……あっ、やぁ……また」
奥様の掠れた声が耳を打った。
「いま終わったところなのに……」
「寂しかったんだろう? そう思わせてしまったのは私の失態だ」
脳が処理を拒否するほど甘い声。
誰? まさか……まさか……
団長……こ、こんな声も出せるのか?
「メル……二度と『片想い』だなんて言わせない。私がどれほど愛しているか……」
「あっ、あ……」
カイは今すぐに自分の存在をこの空間から消し去りたかった。
だが、まだ物品が残っている。
音を立ててはいけない。保温をしっかりする。
この二つの言いつけを忠実に守りながら、温石の上に湯盆を置き、布でしっかりと包んでいく。
「言葉では……足りないっ、不安になる隙間がないくらいに……」
「あっ……だめぇっ……あっ、んっんんっ」
何かに塞がれてくぐもる声に、カイは息を呑んだ。
もし何か失態をして、二人の時間を邪魔することになったら……そう思うと呼吸すら困難になる。
おそらく、ずっと鳴かされていたのだろう。掠れた甘い声。
けれどもそれは、とても嬉しそうだった。
もしも地獄というものがあるのなら、それはこのように甘い場所なのかもしれない。
カイは全ての物品をきちんと置くと、静かに扉から出ていった。
前室に設置完了の報告をしに行くと、ジーンは小さく微笑んだ。
「……あんまり感情を顔に出しては駄目よ。奥様が恥ずかしがるから」
「ど、努力します」
「お疲れ様でした。引継ぎを終えたら……夜間休憩室へ。夜食を用意してあります」
「あっ、ありがとうございます!」
ジーンが手ずから用意してくれた。そのことが嬉しすぎて、先ほどの地獄が天国に塗り替えられていく。
――だって、俺の甘さはここにあるんだから。
「ほら、顔に出さない」
「……これは無理です」
ため息をつくジーンの後ろをついて行く。
きっと犬みたいって思われているんだろうな。
それでも、ジーンの些細な行動に反応する自分を抑えることは難しかった。
背後では、まだ主寝室から甘い熱が漏れ出している気がした。
あの「銀狼」の底なしの体力に、奥様が朝まで無事でいられることを、カイはひっそりと祈った。
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