【完結】王国中の穢れを集める「毒の器」の私を捨てた国王様へ。銀狼騎士団長の十年来の執着で「愛の器」になったので、二度と戻りません。

Marine

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# act29.王の最後①

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 王宮に戻ってきたベアトリクスの姿は、国王バルガスとその取り巻きたちを戦慄させた。
 かつて選民思想の塊であり、傲慢なまでの自信を纏っていた女官長の影はどこにもない。

 部屋の隅にうずくまり、鏡という鏡を叩き割った血塗れの手で顔を覆いながら、「目が……」「鏡が私を責めるの……」と、濁った声で呪文のように独り言を繰り返す、みすぼらしい女がいるだけだった。

「何たることだ……。ベアトリクス、お前はアレクセイの邸で何を見たのだ?」

 バルガスが近づこうとした瞬間、ベアトリクスは獣のような悲鳴を上げて後ずさった。
 彼女には見えているのだ。バルガスの背後に渦巻く、どす黒い澱みと、それを冷ややかに映し出すメルの「透明な瞳」が。

「くっ……アレクセイはどうした?」
「それが、珍しいことに今朝はまだ……」

 バルガスは杖で床をガン! と打ち鳴らした。

「反逆罪だ! 皆の者、アレクセイの邸に攻め込み、メリザンドを奪い返すのだ!」

 その言葉を聞き、側近たちは互いに顔を見合わせた。
 そのうちの一人が歩み出て、小さな……しかし、はっきりとした声で告げた。

「恐れながら陛下……今はアレクセイより、浄化の儀のほうが先ではございませんでしょうか」

 バルガスの顔に驚愕の色が浮かぶ。
 即位してから今まで、側近に反対意見など言われたことはなかった。

「何だと!? き、貴様、はっ、反逆罪だぞ!」

 怒りのあまり呂律のまわらない台詞を、唾を飛ばしながら怒鳴った瞬間――バルガスは息を呑んだ。
 数名の側近たちは、全て同じ表情をしていた。

――お前のせいだ。今の王宮の惨状は、国王の義務を怠ったせいだ……と。

 バルガスは嫌な気配を感じて後ろを振り返った。
 純白の壁のほとんどは、今や黒い染みに覆われていて、美しい絵画には骸骨が浮き出ている。
 腐臭が立ち込め、ポタポタと天井から垂れる黒いヘドロは、触ると肌を焼く激痛が走った。
 
「……メリザンド、あの女さえいれば、王宮は元に戻るのだ! それが分からんのか!」

 側近たちは無表情に王を取り囲んでいる。
 誰も何も言わない。まるで王の言葉が聞こえなくなったかのように。
 命令が通らない。誰も自分の手足にならない。
 それは今まで命令だけで人を動かしてきた男にとって、最上級の恐怖だった。
 
「戻ってきてくれ、メリザンド! 儂が悪かった!!」

 バルガスの悲痛な声が玉座に響き渡った。その瞬間。

「お断りしますわ」

 鈴のような声が鳴り響いた。
 バルガスの表情は石像のように固まり、そしてそれは泥にまみれたわずかな期待と、屈辱で醜く歪んでいった。

「メ・リ・ザ・ン・ド……」

 血を吐くような声は、呪詛のように聞こえた。

「お前さえ、戻ってくれば……戻ってきてくれ……頼む」

 空を掴むように伸ばされた手の先には、美しいドレスがあった。
 メリザンドが気に入ってよく着ている青いドレス。
 シンプルながら、人魚のようなフォルムの美しいデザインで、素晴らしいプロポーションを際立たせている。
 ドレスのすそから覗く足も、手も、透明感のある白い肌がこの汚物にまみれた王宮に異彩を放っていた。
 蜂蜜色の髪に縁どられた表情は、愛される自信に満ち溢れている。
 
「申し訳ありません、バルガス陛下。私、アレクセイ様のおかげで、もう毒の器ではなくなりましたの」

 メリザンドの微笑みは、春の陽光のように温かく、そして氷の刃のように残酷だった。

「ですから、毒を溜めるお仕事はできなくなってしまいました。……私の体はもう、アレクセイ様の愛で満たされておりますから」

 その言葉は、バルガスの肺に残っていたわずかな空気を奪い去った。
 かつて自分が「保管庫」として管理していた肉体が、今は別の男の愛で満たされ、自分を拒絶している。

「な……なんだと。……貴様ぁ、メリザンドォ!!」

 狂乱し、泥まみれの手でドレスに触れようと飛び出したバルガスを、一条の強烈な「白い光」が弾き飛ばした。
 尻もちをついたバルガスを見下ろして仁王立ちする男――アレクセイの姿は、いつもの雅やかな近衛騎士団長の鎧ではない。
 純白の鎧に白い毛皮のマントを纏った姿は、伝説の狼のように気高く、美しかった。
 
「な……な……アレク……セイ?」

 必死に立ち上がったバルガスは、目玉だけをぎょろつかせている。

「申し遅れました。私は貴国と北の国境を接するフェンリシアの第七王子、アレクセイ・ヴォルフグランツ。……もうこの国に用はないので、暇乞いに参りました」

 アレクセイの声は、静かだが部屋中の空気を凍りつかせるような圧倒的な威厳に満ちていた。
 バルガスは信じられないものを見るようにアレクセイを、そしてその傍らで慈しまれるように立つメリザンドを仰ぎ見る。

「フェンリシア……? まさか、あの北の大国、フェンリシアの王子だというのか! な、なぜ正体を隠してまで、我が国の騎士などに……!」

 バルガスの絶叫に近い問いに、アレクセイは感情の欠片もないフロストブルーの瞳で一瞥をくれた。

「つがいを迎えに来ただけです。……お前のような無能に、我が妻を10年も好き勝手にさせていた。その利息は、薄汚い命で贖ってもらう……メル」
「はい、いいわよ」

 メリザンドは微笑みながら、屈んだアレクセイの首のチョーカーを外した。
 かつて、自分の支配下にあると思い込んでいた男の首輪は、その妻が握っていたのだ。
 
 チョーカーが外れた瞬間、極寒の吹雪が一気に吹き上がった。
 室内なのに、吹き荒れる雪が肉眼で見えるほどの冷たく重い「気」。
 やがてそれはねっとりと男に絡みつき、伝説の銀狼の輪郭を形作った。
 かつて王だった男に向かって、大きな顎が開いた。
 鋭い牙が氷柱のように自分に向かって煌めいている。
 
 バルガスの瞳に、陽炎が揺れた。
 それは自分の命のはかなさを悟った、絶望の揺らめきだった。
 今にも踏みつぶされようとしている自分の命。それを救うべく、彼はやっと喉から声を振り絞った。

「……、お、お前ら何をしている! 敵だぞ! 近衛騎士団はっ、副団長を呼べ! シグルド!」

 近衛騎士団の甲冑を纏った大男が、背後にある警備用の隠し扉から飛び出てきた。
「お呼びですか」

 シグルドはアレクセイよりも体が大きい。統率力や知力は一歩譲るが、一対一の剣技で引けは取らないだろう。
 その一瞬の計算が、バルガスの厚い唇を醜く吊り上げた。

「お、おお。シグルド。このアレクセイを捕らえろ。殺しても構わん。褒美はいくらでもやろう。そ、そうだ、騎士団長にしてやるぞ」

 正面のアレクセイを指さしながら、バルガスは汚い唾を飛ばした。
 その瞬間、背後から放たれたのは容赦のない「質量」だった。
 ガツンッ、と鉄靴が背骨の中央を捉える。
 ひしゃげる骨の鈍い音。肺が圧迫され、バルガスの口から言葉の代わりに胃の内容物が飛び出した。
 首が加速度に負けてぐにゃりと曲がり、バルガスは硬い床に顔面を叩きつけられた。
 視界の端に映るのは、自分が「最後の希望」として叫んだ名の男の、冷徹な銀の脛当て。
 バルガスは泥を舐め、砕けた歯の隙間から喘いだ。

「う、裏切った⋯⋯のか、シグルド⋯⋯!」

 シグルドはバルガスを踏みつけたまま、アレクセイへ深く敬礼をした。
 
「アレクセイ様、こいつはいかがいたしましょう。俺が細かく切り刻みましょうか。それとも、殿下ご自身でとどめをさされますか?」

 この男の前では、自分は虫以下の存在なのだ。
 シグルドがアレクセイを見つめる瞳に言い知れぬ敬愛の情を感じて、バルガスは身震いした。

 シグルドの声には、怒りすらこもっていなかった。
 道端の石をどかすか、砕くか。その程度の、あまりにも事務的な問いかけ。
 
 バルガスはいまにも気を失いそうなほど緊張しながらアレクセイの返事を待った。
 銀狼がやれと言えば、この男は躊躇なくその足に力を込めるだろう。
 あとほんの数センチ。
 その圧力で自分の内臓は潰れてしまう。
 
 アレクセイはバルガスの背に突き立てられたシグルドの鉄靴を一瞥したが、すぐに興味を失ったようにメリザンドへと視線を戻した。
 その蜂蜜色の髪を指で梳き、乱れたドレスのフリルを慈しむように整える。
 足元で肺が潰れかけ、喘いでいる男のことなど、視界の端にも入っていない。

「この先も付いてくるのか? 毒を飲み込み続けてきた君には、少々、醜悪すぎる光景になるぞ」
「……最後まで、見届けます。私を苦しめてきたものの正体を」
「わかった。それが君の望みなら」

 アレクセイは優しくメルの額に口づけを落とすと、シグルドへ氷のような視線を向けた。
 
「立たせろ、こいつには最後に王としてやってもらわねばならないことがある。浄化の儀だ」
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