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「……それで? 貴女はいつまで、そのソファと結婚したかのような体勢でいるつもりですか?」
呆れ果てたような声が、私の頭上から降り注ぎました。
声の主は、私を国外追放の地まで護送するために派遣された近衛騎士団の分隊長、ロジャー様です。
私は公爵家の自室にある特注の長椅子に横たわったまま、薄く目を開けました。
「ロジャー様。結婚とは人生の墓場と申しますが、このソファは私にとっての楽園です。墓場に行く前に、せめて楽園でのひと時を慈しませてください」
「屁理屈を言わずに立ちなさい。王太子殿下からは『速やかに叩き出せ』と命じられているのです」
「速やかに、ですか。それは困りました。私は今、立ち上がるためのエネルギーを細胞レベルで生成している最中なのです。あと三時間はかかりますわ」
「三時間も待てるか! ほら、荷造りはどうした! 侍女たちも殿下の命令で全員引き上げさせたはずだ。貴女、まさか何も手をつけていないのか?」
ロジャー様が部屋を見渡して、絶望的な声を上げました。
床には空のトランクが転がっているだけで、クローゼットの中身は手付かずのまま。
私は優雅に、人差し指一本だけを動かして、クローゼットを指し示しました。
「ロジャー様。先ほど殿下もおっしゃっていたでしょう? 私は『一人では何もできない無能』なのです」
「……それがどうした」
「無能な私に、一人で荷造りをしろだなんて、それはもはや哲学的な矛盾です。無能に不可能なことを強いるのは、騎士道精神に反するのではないですか?」
「何を……っ」
「それに見てください。あの山のようなドレス。あれを畳むのに、私の軟弱な腕力がどれほど消費されるか……。おそらく、一枚畳むごとに私の寿命は三日は縮まるでしょう。ロジャー様は、か弱き乙女を目の前で衰弱死させるおつもりですか?」
ロジャー様はこめかみに青筋を浮かべ、拳を震わせています。
「……ならばどうしろと言うんだ。俺たちが貴女の着替えを詰めろとでも?」
「あら、名案ですわ! さすがは近衛騎士、察しが良い。あ、でもただ詰めれば良いというものでもありません。効率的なパッキングには、戦略が必要です」
私は寝返りすら打たず、天井を見上げたまま、とうとうと語り始めました。
「まず、一番下の段には重量のある靴と、衝撃に強い宝飾品箱を。隙間にはストッキングを緩衝材として詰め込んでください。次に、シワになりにくい厚手の旅装束をロール状にして左右の端へ。中央のスペースには、シルクのドレスを薄紙で挟んで交互に重ねるのです。これにより、トランク内の重心が安定し、運搬時の疲労を最小限に抑えることが可能です」
「……は?」
「それから、宝石類は種類ごとに小分けにして、万が一の盗難に備えて三つの鞄に分散させてください。あ、その際に重い金貨はベルトの裏地に仕込むのが理想的ですが、縫い物は面倒ですので、騎士様の予備のポーチにでも入れておいてくださいませ。もちろん、管理は貴方にお任せします。私は責任を取るのが大嫌いですから」
ロジャー様は、開いた口が塞がらないといった様子で私を見つめています。
「貴女……。今、さらさらと信じられないほど高度な輸送計画を口にしましたね?」
「計画を立てるのは頭脳の仕事です。頭は重いですが、横になっていれば重力の影響を最小限に抑えられます。ですが、実際に腕を動かすのは肉体の仕事。私は肉体労働を拒否する権利を、この『無能』という称号によって得たのです」
「……チッ、分かったよ! おい、お前ら! ナタリー様の指示通りに荷物を詰めろ!」
ロジャー様が、背後に控えていた部下たちに怒鳴りました。
騎士たちが戸惑いながらも、私の指示に従ってテキパキと動き始めます。
「あ、そこの彼。そのドレスはデリケートですから、もっと優しく。そう、まるで生まれたての小鳥を扱うように……。あ、宝飾箱の鍵はそこの引き出しに。いいですね、私は一切関与していませんからね。すべて貴方たちの責任ですよ」
私は横になったまま、時折口を挟むだけで、完璧な荷造りを進めさせました。
騎士たちは最初こそ嫌そうにしていましたが、私の指示が驚くほど的確で、作業が面白いように進むことに気づくと、次第に熱を帯び始めました。
「隊長! この詰め方、凄まじい収納力です! 普段の遠征準備の倍以上入ります!」
「……ナタリー様。貴女、本当に無能なんですか?」
ロジャー様の疑いの眼差しに対し、私はあくびを一つ。
「ええ、無能ですとも。だって、今こうして皆様が働いている間、私は一歩も動いていないのですから。これ以上の無能がどこにいます?」
「それは無能とは呼ばない。……極上の『怠け者』だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ。さあ、パッキングが終わったら、次は私を馬車まで運ぶ手順の確認をしましょうか。私は当然、歩くつもりはありませんので」
「……お前ら、毛布を持ってこい。この『動かない公爵令嬢』を、担架代わりに運ぶぞ!」
こうして私は、指一本触れることなく、完璧な準備を整えて国外追放の旅へと出発したのでした。
(ふふ、やっぱり持つべきものは、力自慢の騎士様ね……。あぁ、揺れる馬車の中でも、ずっと寝ていられたら最高なのに)
私の「何もしないための全力」は、まだ始まったばかりです。
呆れ果てたような声が、私の頭上から降り注ぎました。
声の主は、私を国外追放の地まで護送するために派遣された近衛騎士団の分隊長、ロジャー様です。
私は公爵家の自室にある特注の長椅子に横たわったまま、薄く目を開けました。
「ロジャー様。結婚とは人生の墓場と申しますが、このソファは私にとっての楽園です。墓場に行く前に、せめて楽園でのひと時を慈しませてください」
「屁理屈を言わずに立ちなさい。王太子殿下からは『速やかに叩き出せ』と命じられているのです」
「速やかに、ですか。それは困りました。私は今、立ち上がるためのエネルギーを細胞レベルで生成している最中なのです。あと三時間はかかりますわ」
「三時間も待てるか! ほら、荷造りはどうした! 侍女たちも殿下の命令で全員引き上げさせたはずだ。貴女、まさか何も手をつけていないのか?」
ロジャー様が部屋を見渡して、絶望的な声を上げました。
床には空のトランクが転がっているだけで、クローゼットの中身は手付かずのまま。
私は優雅に、人差し指一本だけを動かして、クローゼットを指し示しました。
「ロジャー様。先ほど殿下もおっしゃっていたでしょう? 私は『一人では何もできない無能』なのです」
「……それがどうした」
「無能な私に、一人で荷造りをしろだなんて、それはもはや哲学的な矛盾です。無能に不可能なことを強いるのは、騎士道精神に反するのではないですか?」
「何を……っ」
「それに見てください。あの山のようなドレス。あれを畳むのに、私の軟弱な腕力がどれほど消費されるか……。おそらく、一枚畳むごとに私の寿命は三日は縮まるでしょう。ロジャー様は、か弱き乙女を目の前で衰弱死させるおつもりですか?」
ロジャー様はこめかみに青筋を浮かべ、拳を震わせています。
「……ならばどうしろと言うんだ。俺たちが貴女の着替えを詰めろとでも?」
「あら、名案ですわ! さすがは近衛騎士、察しが良い。あ、でもただ詰めれば良いというものでもありません。効率的なパッキングには、戦略が必要です」
私は寝返りすら打たず、天井を見上げたまま、とうとうと語り始めました。
「まず、一番下の段には重量のある靴と、衝撃に強い宝飾品箱を。隙間にはストッキングを緩衝材として詰め込んでください。次に、シワになりにくい厚手の旅装束をロール状にして左右の端へ。中央のスペースには、シルクのドレスを薄紙で挟んで交互に重ねるのです。これにより、トランク内の重心が安定し、運搬時の疲労を最小限に抑えることが可能です」
「……は?」
「それから、宝石類は種類ごとに小分けにして、万が一の盗難に備えて三つの鞄に分散させてください。あ、その際に重い金貨はベルトの裏地に仕込むのが理想的ですが、縫い物は面倒ですので、騎士様の予備のポーチにでも入れておいてくださいませ。もちろん、管理は貴方にお任せします。私は責任を取るのが大嫌いですから」
ロジャー様は、開いた口が塞がらないといった様子で私を見つめています。
「貴女……。今、さらさらと信じられないほど高度な輸送計画を口にしましたね?」
「計画を立てるのは頭脳の仕事です。頭は重いですが、横になっていれば重力の影響を最小限に抑えられます。ですが、実際に腕を動かすのは肉体の仕事。私は肉体労働を拒否する権利を、この『無能』という称号によって得たのです」
「……チッ、分かったよ! おい、お前ら! ナタリー様の指示通りに荷物を詰めろ!」
ロジャー様が、背後に控えていた部下たちに怒鳴りました。
騎士たちが戸惑いながらも、私の指示に従ってテキパキと動き始めます。
「あ、そこの彼。そのドレスはデリケートですから、もっと優しく。そう、まるで生まれたての小鳥を扱うように……。あ、宝飾箱の鍵はそこの引き出しに。いいですね、私は一切関与していませんからね。すべて貴方たちの責任ですよ」
私は横になったまま、時折口を挟むだけで、完璧な荷造りを進めさせました。
騎士たちは最初こそ嫌そうにしていましたが、私の指示が驚くほど的確で、作業が面白いように進むことに気づくと、次第に熱を帯び始めました。
「隊長! この詰め方、凄まじい収納力です! 普段の遠征準備の倍以上入ります!」
「……ナタリー様。貴女、本当に無能なんですか?」
ロジャー様の疑いの眼差しに対し、私はあくびを一つ。
「ええ、無能ですとも。だって、今こうして皆様が働いている間、私は一歩も動いていないのですから。これ以上の無能がどこにいます?」
「それは無能とは呼ばない。……極上の『怠け者』だ」
「褒め言葉として受け取っておきますわ。さあ、パッキングが終わったら、次は私を馬車まで運ぶ手順の確認をしましょうか。私は当然、歩くつもりはありませんので」
「……お前ら、毛布を持ってこい。この『動かない公爵令嬢』を、担架代わりに運ぶぞ!」
こうして私は、指一本触れることなく、完璧な準備を整えて国外追放の旅へと出発したのでした。
(ふふ、やっぱり持つべきものは、力自慢の騎士様ね……。あぁ、揺れる馬車の中でも、ずっと寝ていられたら最高なのに)
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