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「ナタリー、君宛てに隣国……元の婚約者から手紙が届いているぞ。どうする、読むか?」
サイラス様が、ひらひらと一通の封書をかざしながら現れました。
私は今、侍女に特製の「種抜き・皮剥き済みのブドウ」を口元まで運ばせている最中でした。
「サイラス様、ご存じですか。文字を読むという行為は、眼球を左右に高速移動させ、脳内で意味を再構築するという、極めてハードな知的スポーツなのです」
私はブドウを咀嚼しながら、面倒くさそうに視線を逸らしました。
「今の私には、そんな激しい運動に耐えうるスタミナは残っていません。適当にその辺の暖炉にでも放り込んでおいてください」
「そう言うな。封筒の裏に『緊急かつ重要』と赤文字で書かれている。……一応、私が代読してやろう」
サイラス様は勝手に封を切り、仰々しく喉を鳴らしました。
『親愛なるナタリーへ。君が国を去ってから数週間が経つが、いかが過ごしているだろうか。君のような、一人では着替えすらおぼつかない無能な女が、異国の地で野垂れ死んでいないか夜も眠れないほど心配だ』
「……心配の仕方が、著しく人格を否定していますわね。さすがはウィルフレッド様、嫌みの語彙だけは豊富でいらっしゃる」
私は二粒目のブドウを口に含みながら、鼻で笑いました。
『幸いなことに、慈悲深いメルティが「ナタリー様が不憫だ」と涙を流して私に訴えてきた。そこで提案だ。私の側室、あるいはメルティの専属侍女としてなら、特別に再入国を許してやろう。君には私という飼い主が必要なのだから』
読み終えたサイラス様の手元で、手紙がミシミシと音を立てて握りつぶされました。
サイラス様の周囲に、先ほどまでの爽やかさは微塵もない、凍てつくような冷気が漂っています。
「……飼い主、だと? ナタリー、この男は君を何だと思っているんだ」
「ええ、まあ、せいぜい『高価で手のかかる、喋る置物』くらいにしか思っていなかったのでしょうね」
私はサイラス様の怒りなどどこ吹く風で、三粒目のブドウを催促しました。
「でも、ある意味では正解ですわ。私は確かに、誰かに養ってもらわなければ生きていけませんもの。……ただし、あのような美的センスの欠片もない飼い主は、こちらからお断りですけれど」
「当たり前だ。君を侍女にするだと? そんなことをしたら、君は三日でその『メルティ』という女を顎で使い始め、一週間でその国の内政を裏から支配してしまうだろう。……いや、そもそも君は動かないから、掃除すらしないか」
「おっしゃる通りです。掃除道具を持つくらいなら、私は塵と共に朽ち果てる方を選びます」
私はソファの上で、より快適な姿勢を探してモゾモゾと動きました。
「それにしても、ウィルフレッド様も暇ですのね。そんな紙の無駄遣いをするくらいなら、滞っているはずの予算案の決済でも進めればよろしいのに」
「……おや、ナタリー。なぜ君が、彼の国の予算案が滞っていると知っているんだ?」
サイラス様が鋭い視線を向けてきました。
「……あら。あの方が自分で計算できるはずがないでしょう? 私がいた頃は、彼が寝ている間に私が横で口頭指示を出して、書記官に全部書かせていただけですから」
「……さらっと恐ろしい告白をしたな。つまり、彼は実務の全権を君に丸投げしていたということか」
「丸投げは人聞きが悪いですわね。私はただ、彼が間違った数字を書き込まないよう、最小限の労力で軌道修正してあげていただけです。……あぁ、思い出すだけで知恵熱が出そうですわ。ブドウ、もう一粒ください」
サイラス様は、深い溜息をつきながら私の隣に座りました。
「なるほど。彼が君を呼び戻そうとしているのは『心配』だからじゃない。君がいなくなったせいで、国政がパンクし始めているんだな」
「自業自得ですわ。あの方は『無能な私を支える俺』に酔っていただけですから。いざ支える対象がいなくなって、自分が支えられていたことに気づいたのでしょうけれど……遅すぎます」
私はサイラス様の肩に、ごく自然に自分の頭を乗せました。
「サイラス様。返信は不要ですわ。返事を書くためにペンを動かすなんて、私の右手の筋肉が拒否反応を起こしています」
「……いや、返信は出そう。ただし、君が書く必要はない。私が最高に不愉快で、最高に『お門違い』な返状を書いてやる」
サイラス様の瞳に、冷徹な炎が宿りました。
「『我が国の国賓であり、私の大切なパートナーであるナタリー嬢は、現在、私の腕の中で忙しくブドウを食べておられるので、返信は差し控えさせていただく』……これでどうだ?」
「……サイラス様、それだと私がただの食いしん坊の置物みたいではありませんか」
「事実だろう?」
「……否定できないのが、私の最大の長所ですわね」
私は満足げに目を閉じました。
外では元婚約者が地団駄を踏んでいるかもしれませんが、今の私には、サイラス様の用意してくれた極上のブドウと、広い肩があれば十分なのでした。
サイラス様が、ひらひらと一通の封書をかざしながら現れました。
私は今、侍女に特製の「種抜き・皮剥き済みのブドウ」を口元まで運ばせている最中でした。
「サイラス様、ご存じですか。文字を読むという行為は、眼球を左右に高速移動させ、脳内で意味を再構築するという、極めてハードな知的スポーツなのです」
私はブドウを咀嚼しながら、面倒くさそうに視線を逸らしました。
「今の私には、そんな激しい運動に耐えうるスタミナは残っていません。適当にその辺の暖炉にでも放り込んでおいてください」
「そう言うな。封筒の裏に『緊急かつ重要』と赤文字で書かれている。……一応、私が代読してやろう」
サイラス様は勝手に封を切り、仰々しく喉を鳴らしました。
『親愛なるナタリーへ。君が国を去ってから数週間が経つが、いかが過ごしているだろうか。君のような、一人では着替えすらおぼつかない無能な女が、異国の地で野垂れ死んでいないか夜も眠れないほど心配だ』
「……心配の仕方が、著しく人格を否定していますわね。さすがはウィルフレッド様、嫌みの語彙だけは豊富でいらっしゃる」
私は二粒目のブドウを口に含みながら、鼻で笑いました。
『幸いなことに、慈悲深いメルティが「ナタリー様が不憫だ」と涙を流して私に訴えてきた。そこで提案だ。私の側室、あるいはメルティの専属侍女としてなら、特別に再入国を許してやろう。君には私という飼い主が必要なのだから』
読み終えたサイラス様の手元で、手紙がミシミシと音を立てて握りつぶされました。
サイラス様の周囲に、先ほどまでの爽やかさは微塵もない、凍てつくような冷気が漂っています。
「……飼い主、だと? ナタリー、この男は君を何だと思っているんだ」
「ええ、まあ、せいぜい『高価で手のかかる、喋る置物』くらいにしか思っていなかったのでしょうね」
私はサイラス様の怒りなどどこ吹く風で、三粒目のブドウを催促しました。
「でも、ある意味では正解ですわ。私は確かに、誰かに養ってもらわなければ生きていけませんもの。……ただし、あのような美的センスの欠片もない飼い主は、こちらからお断りですけれど」
「当たり前だ。君を侍女にするだと? そんなことをしたら、君は三日でその『メルティ』という女を顎で使い始め、一週間でその国の内政を裏から支配してしまうだろう。……いや、そもそも君は動かないから、掃除すらしないか」
「おっしゃる通りです。掃除道具を持つくらいなら、私は塵と共に朽ち果てる方を選びます」
私はソファの上で、より快適な姿勢を探してモゾモゾと動きました。
「それにしても、ウィルフレッド様も暇ですのね。そんな紙の無駄遣いをするくらいなら、滞っているはずの予算案の決済でも進めればよろしいのに」
「……おや、ナタリー。なぜ君が、彼の国の予算案が滞っていると知っているんだ?」
サイラス様が鋭い視線を向けてきました。
「……あら。あの方が自分で計算できるはずがないでしょう? 私がいた頃は、彼が寝ている間に私が横で口頭指示を出して、書記官に全部書かせていただけですから」
「……さらっと恐ろしい告白をしたな。つまり、彼は実務の全権を君に丸投げしていたということか」
「丸投げは人聞きが悪いですわね。私はただ、彼が間違った数字を書き込まないよう、最小限の労力で軌道修正してあげていただけです。……あぁ、思い出すだけで知恵熱が出そうですわ。ブドウ、もう一粒ください」
サイラス様は、深い溜息をつきながら私の隣に座りました。
「なるほど。彼が君を呼び戻そうとしているのは『心配』だからじゃない。君がいなくなったせいで、国政がパンクし始めているんだな」
「自業自得ですわ。あの方は『無能な私を支える俺』に酔っていただけですから。いざ支える対象がいなくなって、自分が支えられていたことに気づいたのでしょうけれど……遅すぎます」
私はサイラス様の肩に、ごく自然に自分の頭を乗せました。
「サイラス様。返信は不要ですわ。返事を書くためにペンを動かすなんて、私の右手の筋肉が拒否反応を起こしています」
「……いや、返信は出そう。ただし、君が書く必要はない。私が最高に不愉快で、最高に『お門違い』な返状を書いてやる」
サイラス様の瞳に、冷徹な炎が宿りました。
「『我が国の国賓であり、私の大切なパートナーであるナタリー嬢は、現在、私の腕の中で忙しくブドウを食べておられるので、返信は差し控えさせていただく』……これでどうだ?」
「……サイラス様、それだと私がただの食いしん坊の置物みたいではありませんか」
「事実だろう?」
「……否定できないのが、私の最大の長所ですわね」
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