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「……はぁ。ナタリー、ついに食事まで拒否し始めたのかい? 流石にそれは生存本能を疑うよ」
サイラス様が、運ばれてきた豪華なディナーセットを前に、呆れ果てた声を上げました。
私は今、ベッドの上でクッションの海に溺れながら、力なく首を振りました。
「サイラス様……。誤解しないでください。私は食欲を失ったのではありません。『咀嚼(そしゃく)』という行為に含まれる、あまりにも過酷な運動量に絶望しているのです」
「咀嚼が、運動量……?」
「そうです。上下の顎を数十回も往復させ、舌を使って食べ物を移動させ、喉の筋肉を収縮させて飲み込む……。一食終える頃には、私の顔面筋はボロボロですわ。もう、いっそのこと点滴で栄養を摂取したいです」
「点滴って……。君は病人じゃないんだぞ。まだ十代の健康な令嬢だろう」
「健康とは、エネルギーが充填されている状態を指します。今の私は、呼吸するだけでバッテリーが赤色点灯している状態なのです。あぁ、誰か……噛まなくても喉を滑り落ち、かつ至高の味わいを持つ魔法の食べ物を持ってきてはくれませんか……」
私はそのまま、シーツに顔を埋めて動かなくなりました。
サイラス様は深く、深いため息をつくと、背後に控えていたシェフを呼び寄せました。
「……ナタリー。君のその究極の我儘を見越して、実は開発させておいたものがあるんだ」
「開発……? 新種のサプリメントですか?」
「いや、料理だ。名付けて『ナタリー専用・究極の重力無視スープ』だ」
私は「究極」という言葉に、ピクリと耳を反応させました。
サイラス様が、銀の蓋を開けると、そこから信じられないほど芳醇な香りが漂ってきました。
濃厚な牛テール、凝縮された野菜の旨味、そして隠し味のトリュフ……。
「……っ。この香り……私の胃袋が、緊急警報を鳴らしていますわ」
「だろう? これは、最高の食材を三日間煮込み、さらに特殊な魔法具で分子レベルまで細かく濾(こ)したものだ。固形物は一切ない。だが、一口飲めばフルコースを食べたのと同等の満足感が得られる」
サイラス様は、一口分をスプーンで掬い、私の口元に運びました。
「さあ、あーんして。君はただ、口を開けて、飲み込むだけでいい。顎を動かす必要は一ミリもないぞ」
「……屈辱ですわ。王子の手から直接食事を摂るなんて……ごくり。……ん、んんんっ!?」
スープが舌の上に乗った瞬間、私の脳内で花火が打ち上がりました。
噛んでいない。それなのに、肉の繊維がほどける感覚、野菜の甘みが爆発する衝撃が、ダイレクトに神経を直撃します。
「な、なんですの、これ……! 喉を通る瞬間の、シルクのような滑らかさ……。これぞ、私が求めていた『宇宙(コスモ)』ですわ!」
「気に入ったかい? 君が食べるのが面倒だと言うから、シェフたちを三日三晩徹夜させて作らせたんだ。……どうだ、これなら毎日食べたいだろう?」
私は夢中で(といっても、口を開けているだけですが)、次々と運ばれてくるスープを飲み込みました。
「……負けました。認めます。サイラス様、貴方は悪魔です。こんな、努力を必要としない美味しさを知ってしまったら、私はもう二度と、普通の食事には戻れません」
「ははは。だろう? これからは毎日、私が君の口までこれを運んであげよう。……ただし、条件がある」
私はスープの多幸感に浸りながら、うっかり聞いてしまいました。
「条件……? 何でもおっしゃってください。このスープのためなら、私は椅子の背もたれから一センチ浮き上がるくらいの努力は惜しみませんわ」
「……そんな小さな努力でいいのか? まあいい。条件は、これを食べる間、私の目を見て『美味しい』と言うことだ。それだけでいい」
サイラス様が、いたずらっぽく、しかし愛おしそうに目を細めました。
「……っ。そ、それだけでいいのですか? おやすい御用ですわ。……美味しいです。サイラス様、貴方の用意してくださるものは、世界で一番、私を甘やかしてくれますわ」
私が正直な感想を述べると、サイラス様の顔がわずかに赤らみました。
「……くっ、無自覚にそういうことを言うから、君は。……シェフ、明日の朝食も、同じ工程でもう少しバリエーションを増やせ。彼女の胃袋を完全に掌握するんだ」
「かしこまりました、殿下!」
こうして私は、サイラス様の「策略」という名のスープによって、胃袋から順調に陥落していったのでした。
(……あぁ、幸せ。噛まなくていいって、なんて素晴らしいのかしら……。これでもう、私の生存戦略は盤石ね)
スープを飲み終え、満足感と共に眠りにつこうとした私の耳に、サイラス様の低い囁きが届きました。
「……逃がさないからな、ナタリー。君が自分一人で何もできないなら、私が一生、君をこうして養い続けてやる」
(……なんだか、とても物騒で甘い約束をされている気がしますが……まあ、美味しいからいいわよね)
私の怠惰な生活は、食事という生命の根源すら「人任せ」にすることで、新たな次元へと突入したのでした。
サイラス様が、運ばれてきた豪華なディナーセットを前に、呆れ果てた声を上げました。
私は今、ベッドの上でクッションの海に溺れながら、力なく首を振りました。
「サイラス様……。誤解しないでください。私は食欲を失ったのではありません。『咀嚼(そしゃく)』という行為に含まれる、あまりにも過酷な運動量に絶望しているのです」
「咀嚼が、運動量……?」
「そうです。上下の顎を数十回も往復させ、舌を使って食べ物を移動させ、喉の筋肉を収縮させて飲み込む……。一食終える頃には、私の顔面筋はボロボロですわ。もう、いっそのこと点滴で栄養を摂取したいです」
「点滴って……。君は病人じゃないんだぞ。まだ十代の健康な令嬢だろう」
「健康とは、エネルギーが充填されている状態を指します。今の私は、呼吸するだけでバッテリーが赤色点灯している状態なのです。あぁ、誰か……噛まなくても喉を滑り落ち、かつ至高の味わいを持つ魔法の食べ物を持ってきてはくれませんか……」
私はそのまま、シーツに顔を埋めて動かなくなりました。
サイラス様は深く、深いため息をつくと、背後に控えていたシェフを呼び寄せました。
「……ナタリー。君のその究極の我儘を見越して、実は開発させておいたものがあるんだ」
「開発……? 新種のサプリメントですか?」
「いや、料理だ。名付けて『ナタリー専用・究極の重力無視スープ』だ」
私は「究極」という言葉に、ピクリと耳を反応させました。
サイラス様が、銀の蓋を開けると、そこから信じられないほど芳醇な香りが漂ってきました。
濃厚な牛テール、凝縮された野菜の旨味、そして隠し味のトリュフ……。
「……っ。この香り……私の胃袋が、緊急警報を鳴らしていますわ」
「だろう? これは、最高の食材を三日間煮込み、さらに特殊な魔法具で分子レベルまで細かく濾(こ)したものだ。固形物は一切ない。だが、一口飲めばフルコースを食べたのと同等の満足感が得られる」
サイラス様は、一口分をスプーンで掬い、私の口元に運びました。
「さあ、あーんして。君はただ、口を開けて、飲み込むだけでいい。顎を動かす必要は一ミリもないぞ」
「……屈辱ですわ。王子の手から直接食事を摂るなんて……ごくり。……ん、んんんっ!?」
スープが舌の上に乗った瞬間、私の脳内で花火が打ち上がりました。
噛んでいない。それなのに、肉の繊維がほどける感覚、野菜の甘みが爆発する衝撃が、ダイレクトに神経を直撃します。
「な、なんですの、これ……! 喉を通る瞬間の、シルクのような滑らかさ……。これぞ、私が求めていた『宇宙(コスモ)』ですわ!」
「気に入ったかい? 君が食べるのが面倒だと言うから、シェフたちを三日三晩徹夜させて作らせたんだ。……どうだ、これなら毎日食べたいだろう?」
私は夢中で(といっても、口を開けているだけですが)、次々と運ばれてくるスープを飲み込みました。
「……負けました。認めます。サイラス様、貴方は悪魔です。こんな、努力を必要としない美味しさを知ってしまったら、私はもう二度と、普通の食事には戻れません」
「ははは。だろう? これからは毎日、私が君の口までこれを運んであげよう。……ただし、条件がある」
私はスープの多幸感に浸りながら、うっかり聞いてしまいました。
「条件……? 何でもおっしゃってください。このスープのためなら、私は椅子の背もたれから一センチ浮き上がるくらいの努力は惜しみませんわ」
「……そんな小さな努力でいいのか? まあいい。条件は、これを食べる間、私の目を見て『美味しい』と言うことだ。それだけでいい」
サイラス様が、いたずらっぽく、しかし愛おしそうに目を細めました。
「……っ。そ、それだけでいいのですか? おやすい御用ですわ。……美味しいです。サイラス様、貴方の用意してくださるものは、世界で一番、私を甘やかしてくれますわ」
私が正直な感想を述べると、サイラス様の顔がわずかに赤らみました。
「……くっ、無自覚にそういうことを言うから、君は。……シェフ、明日の朝食も、同じ工程でもう少しバリエーションを増やせ。彼女の胃袋を完全に掌握するんだ」
「かしこまりました、殿下!」
こうして私は、サイラス様の「策略」という名のスープによって、胃袋から順調に陥落していったのでした。
(……あぁ、幸せ。噛まなくていいって、なんて素晴らしいのかしら……。これでもう、私の生存戦略は盤石ね)
スープを飲み終え、満足感と共に眠りにつこうとした私の耳に、サイラス様の低い囁きが届きました。
「……逃がさないからな、ナタリー。君が自分一人で何もできないなら、私が一生、君をこうして養い続けてやる」
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