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「……ええい、遅い! この予算承認の書類は、昨日までに出せと言ったはずだぞ!」
隣国、ベルクール公爵令嬢ナタリーを追放したベルゼイン王国の王宮。
王太子ウィルフレッドの怒声が、かつてないほど執務室に響き渡っていました。
目の前に立ち尽くす文官たちは、真っ青な顔でガタガタと震えています。
「も、申し訳ございません、殿下! しかし、例年この時期にナタリー様が作成されていた『物流予測計算書』がないため、数字の整合性がどうしても取れず……」
「ナタリーだと!? あの女の名前を出すな! あんな、自分ではペン一本動かせない無能が、計算などできるはずがないだろう!」
ウィルフレッドは机を叩き、山積みの書類を床にぶちまけました。
「あいつはただ、椅子の背もたれに寄りかかって、文官たちを顎で使っていただけだ。彼女がいなくなっても、実務を行うお前たちがしっかりしていれば問題ないはずだ!」
「……それが、その、実情は少し異なりまして……」
文官の一人が、恐るおそる口を開きました。
「ナタリー様は、我々が三日かけて計算する膨大な税収予測を、お茶を一口飲む間にすべて暗算で終わらせておられました。我々はただ、彼女が口頭で述べた数字を書き写していただけで……。いざ自分たちで計算しようとすると、公式すら複雑すぎて……」
「馬鹿な……。あんな、呼吸をするのも面倒だと言っていた女が、そんな……」
「殿下ー! 大変ですわー!」
バタン、と勢いよく扉が開きました。
入ってきたのは、ナタリーに代わってウィルフレッドの婚約者候補となった男爵令嬢メルティです。
彼女はいつものように可愛らしく駆け寄ってきましたが、その顔には隠しきれない焦燥が浮かんでいました。
「メルティ、どうしたんだ。今は忙しい……」
「あの、お花の植え替えの予算が承認されないんです! それに、厨房のシェフたちが『食材の仕入れルートが消えた』って大騒ぎしていて……。私の大好きなイチゴのタルトが、今朝は出てこなかったんですの!」
「なんだと? たかがタルトくらいで騒ぐな。……おい、仕入れルートはどうなっている」
ウィルフレッドが文官を睨みつけると、彼はさらに縮こまりました。
「……それも、ナタリー様が……。彼女が『街道の整備計画』を独断で修正し、商ギルドと極秘に結んでいた特別契約だったようで……。彼女がいなくなった瞬間に、ギルド側が『契約主不在』を理由に供給をストップさせました」
「……契約主がナタリー本人だと? 公爵家ではなく?」
「はい。ギルド長が申すには、『ナタリー様の頭脳という担保がなければ、この無茶な低価格での供給は維持できない』と……」
ウィルフレッドは、こめかみのあたりに激しい痛みを感じ始めました。
ナタリーがいなくなってからわずか数週間。
最初は「せいせいした」と思っていたはずなのに、国の中枢が目に見えて機能不全に陥っています。
「……殿下、あ、あの。あと、隣国のエグバート王国から、非常に……その、攻撃的な返書が届いておりまして」
「エグバート? あぁ、サイラスの国か。ナタリーを拾ったとかいう、物好きな王子のところだな。どうせ『無能を引き取って苦労している』という泣き言だろう?」
ウィルフレッドは鼻で笑いながら、差し出された手紙をひったくりました。
しかし、その内容を読み進めるうちに、彼の顔は赤から青、そして白へと変わっていきました。
『……主語と述語を一致させることすら困難な状況にあると知り、心よりお見舞い申し上げます……だと!?』
「……殿下、後半の部分が特に……」
文官が指差した先には、サイラス王子による、宣戦布告に近い強烈な一文が記されていました。
『ナタリー嬢は私の個人的な至宝である。二流の飼い主は二度と視界に入らないでいただきたい』
「……二流、だと!? この私が、あの歩くこともできない無能にバカにされているというのか!」
ウィルフレッドは手紙をクシャクシャに丸め、足蹴にしました。
「ナタリー……! あの女、よほどサイラスを上手く丸め込んだようだな! どうせ、悲劇のヒロインを演じて同情を引いたに決まっている!」
「殿下……でも、本当に困りましたわ。タルトも出ないし、お庭も枯れそうですし……。ねえ、ナタリー様を呼び戻せばいいじゃないですか。彼女にまた、全部やらせればいいんですわ!」
メルティが能天気に提案しましたが、ウィルフレッドは答えられませんでした。
なぜなら、先ほどの返書には「これ以上の接触は宣戦布告と見なす」と明確に書かれていたからです。
「……くそっ! あんな女、放っておけばいずれ自滅するはずだ。サイラスも、あいつがいかに『何もできない置物』かに気づけば、すぐに捨てるだろう……」
「……あの、殿下」
文官が、さらに追い打ちをかけるように言いました。
「……エグバート王国の最新の官報によりますと、ナタリー様が到着されてから、あちらの国の物流スピードが従来の三倍に跳ね上がったという記事が……。彼女は『伝説の賢者』として、あちらの国民から崇拝され始めているようで……」
「……は?」
ウィルフレッドの思考が停止しました。
物流スピード、三倍。
自分たちが頭を抱えている課題を、彼女は他国で、しかも楽しみながら(本人は嫌々でしょうが)解決している。
「……そんな……。あいつは、私の足にしがみついていなければ、一人では何もできないはずじゃ……」
かつての婚約者の、あの「面倒くさそうに、しかし完璧に物事を片付けていく」姿が、今さらながらウィルフレッドの脳裏に鮮明に蘇ってきました。
彼が「俺が支えてやっている」と思っていたものは、実は「彼女に支えられていた土台の上で踊っていただけ」だったことに、彼はまだ、完全には気づけていませんでした。
「ナタリー……貴様、一体何を企んでいるんだ……!」
ウィルフレッドの叫びは、虚しく執務室に響くだけでした。
一方その頃。
エグバート王国のナタリーは、そんな混乱など露ほども知らず、サイラス王子の膝の上で「咀嚼不要の最高級プリン」を幸せそうに頬張っていたのでした。
隣国、ベルクール公爵令嬢ナタリーを追放したベルゼイン王国の王宮。
王太子ウィルフレッドの怒声が、かつてないほど執務室に響き渡っていました。
目の前に立ち尽くす文官たちは、真っ青な顔でガタガタと震えています。
「も、申し訳ございません、殿下! しかし、例年この時期にナタリー様が作成されていた『物流予測計算書』がないため、数字の整合性がどうしても取れず……」
「ナタリーだと!? あの女の名前を出すな! あんな、自分ではペン一本動かせない無能が、計算などできるはずがないだろう!」
ウィルフレッドは机を叩き、山積みの書類を床にぶちまけました。
「あいつはただ、椅子の背もたれに寄りかかって、文官たちを顎で使っていただけだ。彼女がいなくなっても、実務を行うお前たちがしっかりしていれば問題ないはずだ!」
「……それが、その、実情は少し異なりまして……」
文官の一人が、恐るおそる口を開きました。
「ナタリー様は、我々が三日かけて計算する膨大な税収予測を、お茶を一口飲む間にすべて暗算で終わらせておられました。我々はただ、彼女が口頭で述べた数字を書き写していただけで……。いざ自分たちで計算しようとすると、公式すら複雑すぎて……」
「馬鹿な……。あんな、呼吸をするのも面倒だと言っていた女が、そんな……」
「殿下ー! 大変ですわー!」
バタン、と勢いよく扉が開きました。
入ってきたのは、ナタリーに代わってウィルフレッドの婚約者候補となった男爵令嬢メルティです。
彼女はいつものように可愛らしく駆け寄ってきましたが、その顔には隠しきれない焦燥が浮かんでいました。
「メルティ、どうしたんだ。今は忙しい……」
「あの、お花の植え替えの予算が承認されないんです! それに、厨房のシェフたちが『食材の仕入れルートが消えた』って大騒ぎしていて……。私の大好きなイチゴのタルトが、今朝は出てこなかったんですの!」
「なんだと? たかがタルトくらいで騒ぐな。……おい、仕入れルートはどうなっている」
ウィルフレッドが文官を睨みつけると、彼はさらに縮こまりました。
「……それも、ナタリー様が……。彼女が『街道の整備計画』を独断で修正し、商ギルドと極秘に結んでいた特別契約だったようで……。彼女がいなくなった瞬間に、ギルド側が『契約主不在』を理由に供給をストップさせました」
「……契約主がナタリー本人だと? 公爵家ではなく?」
「はい。ギルド長が申すには、『ナタリー様の頭脳という担保がなければ、この無茶な低価格での供給は維持できない』と……」
ウィルフレッドは、こめかみのあたりに激しい痛みを感じ始めました。
ナタリーがいなくなってからわずか数週間。
最初は「せいせいした」と思っていたはずなのに、国の中枢が目に見えて機能不全に陥っています。
「……殿下、あ、あの。あと、隣国のエグバート王国から、非常に……その、攻撃的な返書が届いておりまして」
「エグバート? あぁ、サイラスの国か。ナタリーを拾ったとかいう、物好きな王子のところだな。どうせ『無能を引き取って苦労している』という泣き言だろう?」
ウィルフレッドは鼻で笑いながら、差し出された手紙をひったくりました。
しかし、その内容を読み進めるうちに、彼の顔は赤から青、そして白へと変わっていきました。
『……主語と述語を一致させることすら困難な状況にあると知り、心よりお見舞い申し上げます……だと!?』
「……殿下、後半の部分が特に……」
文官が指差した先には、サイラス王子による、宣戦布告に近い強烈な一文が記されていました。
『ナタリー嬢は私の個人的な至宝である。二流の飼い主は二度と視界に入らないでいただきたい』
「……二流、だと!? この私が、あの歩くこともできない無能にバカにされているというのか!」
ウィルフレッドは手紙をクシャクシャに丸め、足蹴にしました。
「ナタリー……! あの女、よほどサイラスを上手く丸め込んだようだな! どうせ、悲劇のヒロインを演じて同情を引いたに決まっている!」
「殿下……でも、本当に困りましたわ。タルトも出ないし、お庭も枯れそうですし……。ねえ、ナタリー様を呼び戻せばいいじゃないですか。彼女にまた、全部やらせればいいんですわ!」
メルティが能天気に提案しましたが、ウィルフレッドは答えられませんでした。
なぜなら、先ほどの返書には「これ以上の接触は宣戦布告と見なす」と明確に書かれていたからです。
「……くそっ! あんな女、放っておけばいずれ自滅するはずだ。サイラスも、あいつがいかに『何もできない置物』かに気づけば、すぐに捨てるだろう……」
「……あの、殿下」
文官が、さらに追い打ちをかけるように言いました。
「……エグバート王国の最新の官報によりますと、ナタリー様が到着されてから、あちらの国の物流スピードが従来の三倍に跳ね上がったという記事が……。彼女は『伝説の賢者』として、あちらの国民から崇拝され始めているようで……」
「……は?」
ウィルフレッドの思考が停止しました。
物流スピード、三倍。
自分たちが頭を抱えている課題を、彼女は他国で、しかも楽しみながら(本人は嫌々でしょうが)解決している。
「……そんな……。あいつは、私の足にしがみついていなければ、一人では何もできないはずじゃ……」
かつての婚約者の、あの「面倒くさそうに、しかし完璧に物事を片付けていく」姿が、今さらながらウィルフレッドの脳裏に鮮明に蘇ってきました。
彼が「俺が支えてやっている」と思っていたものは、実は「彼女に支えられていた土台の上で踊っていただけ」だったことに、彼はまだ、完全には気づけていませんでした。
「ナタリー……貴様、一体何を企んでいるんだ……!」
ウィルフレッドの叫びは、虚しく執務室に響くだけでした。
一方その頃。
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