邪魔する殿下との婚約破棄、喜んで承ります。

小梅りこ

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「……ナターシャ、お前、本当に正気か?」


王都にあるグラム公爵邸。
重厚な執務机を挟んで、父である公爵が、脂汗を浮かべながら娘を見つめていた。


その手には、王宮から「至急」で届けられた、婚約破棄に関する正式な罪状リストが握られている。
ナターシャは、目の前のソファで一番くつろげる角度を探しながら、暢気に紅茶をすすった。


「お父様、朝から顔色が悪いですよ。もっと肩の力を抜いて、深呼吸してください。はい、吸ってー、吐いてー」


「深呼吸で解決する問題か! 第一王子からこれほどの罪状を突きつけられて……! 見ろ、この項目を。『クロエ嬢のドレスにワインをかけた』『夜会で卑猥な言葉を浴びせた』『階段から突き落とそうとした』……身に覚えはあるのか!」


ナターシャは父から手渡された紙束を、検品作業でもするかのように淡々と眺めた。


「あ、これ。ドレスにワインをかけた件ですね。正確には、彼女が私の後ろでふらふらしていたから、当たらないように避けようとした結果、持っていたグラスが彼女の方へ物理法則に従って移動しただけですわ。面倒なので、私がやったということで構いません」


「構いません、だと……!?」


「あと、この『卑猥な言葉』っていうのは、彼女が私を挑発してきた時に、『あなた、そんなに殿下の隣がいいなら、いっそ殿下の影にでも縫い付けてもらえばいかが? 24時間くっついていられますわよ』と言ったことかしら。確かに、人によっては少し刺激的な提案だったかもしれませんね」


「……ナターシャ。それは皮肉であって、卑猥な言葉ではないだろう」


「同じようなものですわ、お父様。説明するのも訂正するのも、カロリーの無駄です。あ、この『階段から突き落とそうとした』件は、彼女が自ら転びそうなところで私がドレスの裾を掴んであげようとした瞬間ですね。結果的に掴み損ねたので、殺意があったと解釈されても……まあ、否定するのが面倒なので、認めておきましょう」


ナターシャは、罪状リストにスラスラと自筆のサインを書き込んでいった。
「認めます」「その通りです」「異議なし」という言葉が、まるでスタンプのように並んでいく。


公爵は、娘のあまりの「諦めの良さ」……というより「投げやりな効率主義」に、頭を抱えて椅子に沈み込んだ。


「お前、これがどういうことか分かっているのか。これだけの罪を認めれば、お前は『悪役令嬢』として社交界から追放されるのだぞ。それどころか、修道院送りか、最悪の場合は……」


「あら、お父様。話が違いますわよ。昨晩、殿下ははっきりと『追放』と仰いました。修道院は朝が早いので却下です。私が求めているのは、あくまで『穏やかで快適な、誰も私を邪魔しないニート生活』なのですから」


ナターシャは、自前の手帳を取り出すと、そこから一枚の紙を破いて父の前に差し出した。
そこには、驚くほど整った字で「退職金および隠居条件一覧」と書かれている。


「これは……なんだ?」


「私のこれまでの貢献に対する報酬ですわ。公爵家の令嬢として、不愉快な王子の相手を十年間も務め、王宮の効率化に貢献し、胃の痛むような調整を繰り返してきました。その『退職金』として、辺境にあるヴォルゴ領の別荘を私名義にしてください」


「ヴォルゴ領だと? あそこは魔物こそ出ないが、王都から馬車で一週間はかかる、何もないただの田舎だぞ。冬は雪に閉ざされるし、娯楽など何もない」


「最高じゃないですか! 誰も私に会いに来ない、夜会もない、殿下の愚痴を聞かされることもない。雪が降ったら、一日中暖炉の前で毛布にくるまって、セバスが淹れてくれたココアを飲むんです。……あ、セバス。今の、メモしておいてね」


部屋の隅で控えていた老執事、セバスが静かに一礼した。


「かしこまりました。最高級のココアパウダーと、火力の強い薪を多めに手配しておきます」


「おい、セバス! お前まで娘の狂行を煽るな!」


公爵の叫びも虚しく、ナターシャの目はキラキラと輝いている。
彼女にとって、この婚約破棄は人生最大のチャンスだった。


「お父様。公爵家の名誉を守るために私が身の潔白を証明して、また別の高慢な貴族と婚約させられる……なんて生活、お父様も望んでいらっしゃらないでしょう? 私が『自白した大悪女』として遠くに消えれば、お父様は『娘の教育を間違えた悲劇の父』として同情を買えますし、家へのダメージも最小限で済みますわ」


「……お前、そんなことまで考えて」


「いいえ、今思いつきました。考えるのが面倒だったので、一番楽な落とし所を探しただけです」


ナターシャは、立ち上がると窓の外を眺めた。
今日も王都は騒がしい。あちこちで馬車が走り、人々が虚栄心を張り合っている。


「私はもう、疲れましたの。完璧な令嬢を演じるのも、王妃になるための勉強も。これからは、自分のために時間を使いたいのです。一日の半分を睡眠に費やし、残りの半分を『何を食べるか』だけ考えることに捧げる……そんな贅沢な人生を」


その横顔は、悲劇のヒロインどころか、これからバカンスに出かけようとする観光客のように晴れやかだった。


「……分かった。もう止めん。お前のその『怠惰への情熱』には、勝てる気がしない」


公爵は、降参の印として両手を上げた。


「話は私から通しておこう。正式な追放処分として、お前は一週間以内に辺境へ出発してもらう。ただし、身の回りの世話をする最小限の使用人だけは連れて行け。それから、生活費は……」


「あ、生活費に関しては、殿下から分捕った……失礼、正当な慰謝料が、すでに私の個人口座に振り込まれる手はずになっております。昨日、夜会会場の片隅で、殿下の側近(という名の私の協力者)と契約を済ませておきましたので」


「……いつの間に」


「殿下が『婚約破棄だ!』と叫ぶのを待っている間、暇だったものですから」


公爵は、もはや娘を恐ろしい何かを見るような目で見ていた。
ナターシャは満足げに頷くと、セバスに向かって指をパチンと鳴らした。


「セバス、準備開始よ! 持っていくものは、一番柔らかい枕と、お気に入りの小説と、あとは一年分のお菓子! あ、コルセットは全部捨てていいわよ。あんなもの、辺境には必要ないもの!」


「承知いたしました、お嬢様。ただいまより、究極の快適旅団を結成いたします」


ナターシャは心の中でガッツポーズをした。
前世……? そんなものは知らない。これは、今の私の、私による、私のための「安眠」を勝ち取る戦いなのだ。


(待ってて、私の辺境! そこにはきっと、終わりのない昼寝が待っているわ!)


王都から「悪役令嬢」が追放されるというニュースが駆け巡る直前、ナターシャはすでに、辺境へと向かう馬車の「一番座り心地の良いクッション」について検討を始めていた。
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