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「お嬢様、お荷物の準備が整いました。特注の低反発枕六個と、羽毛布団三枚、それから一ヶ月分の保存食(主に高級菓子)を馬車に詰め込んであります」
「完璧だわ、セバス。これで移動中も快適な睡眠が約束されたも同然ね」
出発の朝。グラム公爵家の玄関前には、およそ「追放」とは思えないほど豪華に改造された馬車が止まっていた。
ナターシャは、動きやすさだけを重視した、ゆったりとしたドレス……というより、もはや外歩きもできるパジャマのような格好で仁王立ちしている。
「ナターシャ、本当に行ってしまうのか……。今ならまだ、私が陛下に泣きついて、修道院の隅っこくらいには……」
「お父様、往き際が悪いですわよ。せっかく手に入れた自由ですもの、邪魔しないでくださいませ」
「自由というか、実質的な国外追放なのだがな。お前、あちらに着いたら何をするつもりだ?」
「決まっていますわ。まず、昼まで寝ます」
「……その次は?」
「二度寝をします。それから美味しいお茶を飲んで、夕方まで読書をして、早めに寝ます」
公爵は、もはやかける言葉が見つからないという風に、そっと視線を逸らした。
世間では「悪事の限りを尽くした令嬢が、その罪を暴かれて居場所を失った」と噂されているが、本人はこれから長期のバカンスに出るような足取りで馬車に乗り込んでいく。
「それではお父様、お母様。公爵家のことは、適当によろしくお願いします。私のことは、もう死んだものと思って……いえ、寝ているものと思って忘れてください」
「ナターシャ、たまには手紙を書きなさいよ。美味しいお菓子の情報とか」
「お母様、それは善処しますわ。では、出発!」
ナターシャが勢いよく扉を閉めると、馬車はゆっくりと動き出した。
王都の喧騒が遠ざかっていく。
窓から差し込む朝日を浴びながら、ナターシャは大きく背伸びをした。
「ああ……なんて清々しいのかしら。空気が美味しいわ。王宮のあの、お局様たちの香水の匂いや、殿下の説教臭い声がしないだけで、世界がこんなに輝いて見えるなんて」
「お嬢様、さっそくですが、お茶を淹れましょうか。それとも一眠りなさいますか?」
「そうね、まずはこの座席のクッション性を確かめるために、三時間ほど横になるわ。セバス、国境を越えるまで起こさないでね」
「畏まりました」
ナターシャが理想の隠居生活へ向けて夢路を辿っている頃。
王宮の事務室では、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
「おい! 例の、隣国との貿易協定の資料はどこだ! ナターシャが管理していたはずだろう!」
ヴィンセント王子の叫び声が、誰もいない廊下に虚しく響く。
そこへ、新しく婚約者候補となったクロエが、ふわふわしたドレスを揺らしながらやってきた。
「ヴィンセント様ぁ、そんなに怒らないでください。資料なんて、適当に探せば出てきますよぉ」
「適当に、だと!? この棚はすべてナターシャ独自の分類法で整理されているんだ! 彼女がいなければ、どの書類が最新で、どの案件が保留中なのか、誰にも分からないんだぞ!」
「えぇー、ナターシャ様って、そんなに細かいお仕事してたんですか? 性格悪そうだから、ただ威張ってるだけだと思ってましたぁ」
「……私もそう思っていた。だが、彼女がいなくなってから、私のスケジュール管理すらまともに機能していない! 今朝も、大臣との面会を三つもすっぽかしてしまったんだぞ!」
ヴィンセントは、ぐちゃぐちゃになった机の上を見て、初めて自分の置かれた状況に気づき始めていた。
ナターシャは、彼にとって「小言の多い、可愛げのない婚約者」であったが、同時に「王宮の事務全般を完璧に捌く、超有能なバックオフィス担当」でもあったのだ。
「あ、あの……ヴィンセント様。私、お腹空いちゃいました。美味しいケーキ、食べに行きませんか?」
「ケーキ!? 今はそれどころではないと言っているだろう! 大体、君は昨日の夜会で、ナターシャが教科書を隠したと言っていたな。あれ、実は君が自分でどこかにやったのではないか?」
「えっ……そ、それは……だって、ナターシャ様の方が悪役っぽかったし……」
「……まさか、全部嘘だったのか?」
ヴィンセントの顔から血の気が引いていく。
彼は、自分たちが「悪役」から解放され、真実の愛で結ばれた幸せな二人になったと信じていた。
しかし、現実は「有能な管理人を追い出し、わがままな居候を招き入れた」だけの結果になろうとしていた。
「ナターシャ……! 今すぐ彼女を呼び戻せ! いや、まだ街を出ていないはずだ! 連れ戻して、この書類の山を片付けさせるんだ!」
「無理ですよ、殿下。ナターシャ様、出発する時に『二度と王都の土は踏まない。もし私を呼び戻そうとするなら、その瞬間に王宮の秘密を近隣諸国にばら撒く』という物騒な置手紙を置いていかれましたから……」
側近の一人が、震える手で一枚の紙を差し出した。
そこには、ナターシャの流麗な文字でこう書かれていた。
『追伸:これからは、その素晴らしい真実の愛の力で、書類仕事も予算の計算も全部こなしてくださいね。頑張れ、殿下! 応援はしませんが!』
ヴィンセントは、その場で膝から崩れ落ちた。
一方、そんな混乱など露ほども知らないナターシャは、揺れる馬車の中で最高に幸せな寝顔を見せていた。
「むにゃ……殿下、その書類、反対ですわよ……あと、おやつは三時厳守で……ぐー……」
彼女の夢の中には、もはや王子の姿はない。
ただ、どこまでも続く平原と、ふかふかの巨大なパンケーキのようなベッドが広がっているだけだった。
ナターシャの「辺境ぐーたら計画」は、今のところ、極めて順調に進行していた。
「完璧だわ、セバス。これで移動中も快適な睡眠が約束されたも同然ね」
出発の朝。グラム公爵家の玄関前には、およそ「追放」とは思えないほど豪華に改造された馬車が止まっていた。
ナターシャは、動きやすさだけを重視した、ゆったりとしたドレス……というより、もはや外歩きもできるパジャマのような格好で仁王立ちしている。
「ナターシャ、本当に行ってしまうのか……。今ならまだ、私が陛下に泣きついて、修道院の隅っこくらいには……」
「お父様、往き際が悪いですわよ。せっかく手に入れた自由ですもの、邪魔しないでくださいませ」
「自由というか、実質的な国外追放なのだがな。お前、あちらに着いたら何をするつもりだ?」
「決まっていますわ。まず、昼まで寝ます」
「……その次は?」
「二度寝をします。それから美味しいお茶を飲んで、夕方まで読書をして、早めに寝ます」
公爵は、もはやかける言葉が見つからないという風に、そっと視線を逸らした。
世間では「悪事の限りを尽くした令嬢が、その罪を暴かれて居場所を失った」と噂されているが、本人はこれから長期のバカンスに出るような足取りで馬車に乗り込んでいく。
「それではお父様、お母様。公爵家のことは、適当によろしくお願いします。私のことは、もう死んだものと思って……いえ、寝ているものと思って忘れてください」
「ナターシャ、たまには手紙を書きなさいよ。美味しいお菓子の情報とか」
「お母様、それは善処しますわ。では、出発!」
ナターシャが勢いよく扉を閉めると、馬車はゆっくりと動き出した。
王都の喧騒が遠ざかっていく。
窓から差し込む朝日を浴びながら、ナターシャは大きく背伸びをした。
「ああ……なんて清々しいのかしら。空気が美味しいわ。王宮のあの、お局様たちの香水の匂いや、殿下の説教臭い声がしないだけで、世界がこんなに輝いて見えるなんて」
「お嬢様、さっそくですが、お茶を淹れましょうか。それとも一眠りなさいますか?」
「そうね、まずはこの座席のクッション性を確かめるために、三時間ほど横になるわ。セバス、国境を越えるまで起こさないでね」
「畏まりました」
ナターシャが理想の隠居生活へ向けて夢路を辿っている頃。
王宮の事務室では、阿鼻叫喚の地獄絵図が広がっていた。
「おい! 例の、隣国との貿易協定の資料はどこだ! ナターシャが管理していたはずだろう!」
ヴィンセント王子の叫び声が、誰もいない廊下に虚しく響く。
そこへ、新しく婚約者候補となったクロエが、ふわふわしたドレスを揺らしながらやってきた。
「ヴィンセント様ぁ、そんなに怒らないでください。資料なんて、適当に探せば出てきますよぉ」
「適当に、だと!? この棚はすべてナターシャ独自の分類法で整理されているんだ! 彼女がいなければ、どの書類が最新で、どの案件が保留中なのか、誰にも分からないんだぞ!」
「えぇー、ナターシャ様って、そんなに細かいお仕事してたんですか? 性格悪そうだから、ただ威張ってるだけだと思ってましたぁ」
「……私もそう思っていた。だが、彼女がいなくなってから、私のスケジュール管理すらまともに機能していない! 今朝も、大臣との面会を三つもすっぽかしてしまったんだぞ!」
ヴィンセントは、ぐちゃぐちゃになった机の上を見て、初めて自分の置かれた状況に気づき始めていた。
ナターシャは、彼にとって「小言の多い、可愛げのない婚約者」であったが、同時に「王宮の事務全般を完璧に捌く、超有能なバックオフィス担当」でもあったのだ。
「あ、あの……ヴィンセント様。私、お腹空いちゃいました。美味しいケーキ、食べに行きませんか?」
「ケーキ!? 今はそれどころではないと言っているだろう! 大体、君は昨日の夜会で、ナターシャが教科書を隠したと言っていたな。あれ、実は君が自分でどこかにやったのではないか?」
「えっ……そ、それは……だって、ナターシャ様の方が悪役っぽかったし……」
「……まさか、全部嘘だったのか?」
ヴィンセントの顔から血の気が引いていく。
彼は、自分たちが「悪役」から解放され、真実の愛で結ばれた幸せな二人になったと信じていた。
しかし、現実は「有能な管理人を追い出し、わがままな居候を招き入れた」だけの結果になろうとしていた。
「ナターシャ……! 今すぐ彼女を呼び戻せ! いや、まだ街を出ていないはずだ! 連れ戻して、この書類の山を片付けさせるんだ!」
「無理ですよ、殿下。ナターシャ様、出発する時に『二度と王都の土は踏まない。もし私を呼び戻そうとするなら、その瞬間に王宮の秘密を近隣諸国にばら撒く』という物騒な置手紙を置いていかれましたから……」
側近の一人が、震える手で一枚の紙を差し出した。
そこには、ナターシャの流麗な文字でこう書かれていた。
『追伸:これからは、その素晴らしい真実の愛の力で、書類仕事も予算の計算も全部こなしてくださいね。頑張れ、殿下! 応援はしませんが!』
ヴィンセントは、その場で膝から崩れ落ちた。
一方、そんな混乱など露ほども知らないナターシャは、揺れる馬車の中で最高に幸せな寝顔を見せていた。
「むにゃ……殿下、その書類、反対ですわよ……あと、おやつは三時厳守で……ぐー……」
彼女の夢の中には、もはや王子の姿はない。
ただ、どこまでも続く平原と、ふかふかの巨大なパンケーキのようなベッドが広がっているだけだった。
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