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「お嬢様、お目覚めください。ようやく、ヴォルゴ領の別荘に到着いたしました」
セバスの穏やかな声に、ナターシャはまぶたをゆっくりと押し上げた。
一週間に及ぶ馬車旅。
普通の令嬢なら疲れ果ててやつれるところだが、ナターシャはむしろ、寝すぎて肌にツヤが出ていた。
「……んぅ、もう着いたの? あと三時間は寝られたわ」
「左様でございますか。しかし、目の前にはお嬢様の新しい『城』が広がっておりますよ」
促されて窓の外を覗くと、そこには蔦が絡まり、少しばかり年月の重みを感じさせる石造りの別荘が建っていた。
周囲は深い森と、遠くに冠雪した山々が見える。
王都のけばけばしい装飾とは無縁の、静寂そのものの世界だ。
「……いいわ。最高よ、セバス。この『何もなさ』、そして『放置されている感』。私が求めていたのはこれよ」
「お気に召して何よりです。さあ、中へ入りましょう。地元の管理人が最低限の掃除は済ませているはずです」
ナターシャが馬車から降り、地面に足をつけたその瞬間。
地響きのような蹄の音が近づいてきた。
見れば、黒い軍馬にまたがった一団が、砂煙を上げてこちらへ向かってくるではないか。
先頭を走るのは、夜の闇を溶かしたような漆黒の甲冑に身を包んだ、背の高い男。
「……誰かしら。私の安眠を妨げる、空気の読めない暴走族は」
「お嬢様、暴走族ではございません。あの方の紋章……この地の領主、ミハイル・ヴォルゴ辺境伯かと思われます」
馬はナターシャの数メートル手前でピタリと止まった。
馬上の男が、鉄仮面を脱ぐ。
現れたのは、彫刻のように整っているが、一切の感情を排除したような冷徹な顔立ちだった。
「……貴様が、王都から追放されてきたという『毒婦』ナターシャ・フォン・グラムか」
男の声は低く、周囲の空気を凍らせるような威圧感に満ちていた。
「氷の処刑人」という二つ名に相応しい、隙のない佇まい。
普通の令嬢なら、その視線だけで失神してもおかしくない。
しかし、ナターシャの感想は違った。
「……あの、ミハイル様? でしたっけ。お名前をお呼びしても?」
「構わん。貴様の弁明を聞こう。この私の領地で、どのような悪巧みを企んでいる?」
「弁明も何も……まず、その馬をどこかへやってくださいませんか。砂埃が舞って、私の喉が痛いですわ。あと、声が大きいです。山びこが返ってきているのが聞こえませんか?」
ミハイルの眉間に、深い皺が刻まれた。
彼は、泣き喚くか、あるいは媚びを売ってくるだろうと予想していたのだ。
まさか「砂埃がうるさい」と言われるとは思っていなかった。
「……貴様、自分が置かれた立場が分かっているのか。私は陛下より、貴様の監視を任されているのだぞ」
「監視、結構じゃないですか。でしたら、あちらの木陰に椅子でも置いて、座って見ていてくださいな。お茶くらいはセバスが出してくれますわよ。あ、でも私の昼寝中は静かにしてくださいね」
「……昼寝だと? これから何らかの呪詛や、王都への復讐計画を練るのではないのか」
「復讐? そんな面倒なこと、誰がしますの。私、復讐する体力があるなら、その分を睡眠に回したいタイプなんです。分かります? この効率の良さ」
ナターシャは本気で心外だという風に、肩をすくめて見せた。
ミハイルは絶句したまま、馬上で固まっている。
「セバス、荷物を運んで。私は先に、一番日当たりのいい部屋を確保するわ。あ、ミハイル様。監視のお仕事、頑張ってくださいね。お疲れ様です」
「ま、待て! まだ話は終わっていない!」
ナターシャは、ミハイルの制止を完全にスルーして、別荘の中へと足を踏み入れた。
埃っぽい空気さえも、彼女にとっては「自由の香り」に感じられた。
「……おい、執事。あの女は一体何を考えている」
馬から降りたミハイルが、荷物を運ぼうとしていたセバスに詰め寄った。
セバスは、執事らしい完璧な微笑みを崩さない。
「お嬢様は、非常に合理的な方でございます。彼女にとって、辺境伯様との会話よりも、ふかふかの枕の方が優先順位が高い……ただそれだけのことでございます」
「合理……的? 私の威圧に屈しないあの態度は、何か高度な心理戦を仕掛けているのではないか? そうか、私を油断させて、裏で巨大な魔法陣でも起動させるつもりか……!」
「いえ、ただ眠いだけかと」
「嘘をつけ! あの『毒婦』と呼ばれた女が、そんな単純な理由で動くはずがない! ……いいだろう、ナターシャ・フォン・グラム。貴様の正体、暴いてくれる!」
ミハイルは、勘違いに勘違いを重ね、勝手に燃え上がり始めた。
一方、別荘の二階では。
「あったわ! ここ、ここよ! 窓から山が見えて、適度に風が抜ける……最高の昼寝スポット!」
ナターシャは、まだシーツも敷かれていないベッドにダイブした。
辺境の空気は冷たく、そして心地よい。
「あー……幸せ……。王子も、夜会も、ドレスも、全部さようなら。……あとは、あのうるさい辺境伯をどうやって追い払うかだけど……ま、いいわ。明日考えよう……」
秒で夢の中へ落ちていくナターシャ。
彼女の「辺境ライフ」は、早くも領主をパニックに陥れるという、波乱のスタートを切ったのであった。
セバスの穏やかな声に、ナターシャはまぶたをゆっくりと押し上げた。
一週間に及ぶ馬車旅。
普通の令嬢なら疲れ果ててやつれるところだが、ナターシャはむしろ、寝すぎて肌にツヤが出ていた。
「……んぅ、もう着いたの? あと三時間は寝られたわ」
「左様でございますか。しかし、目の前にはお嬢様の新しい『城』が広がっておりますよ」
促されて窓の外を覗くと、そこには蔦が絡まり、少しばかり年月の重みを感じさせる石造りの別荘が建っていた。
周囲は深い森と、遠くに冠雪した山々が見える。
王都のけばけばしい装飾とは無縁の、静寂そのものの世界だ。
「……いいわ。最高よ、セバス。この『何もなさ』、そして『放置されている感』。私が求めていたのはこれよ」
「お気に召して何よりです。さあ、中へ入りましょう。地元の管理人が最低限の掃除は済ませているはずです」
ナターシャが馬車から降り、地面に足をつけたその瞬間。
地響きのような蹄の音が近づいてきた。
見れば、黒い軍馬にまたがった一団が、砂煙を上げてこちらへ向かってくるではないか。
先頭を走るのは、夜の闇を溶かしたような漆黒の甲冑に身を包んだ、背の高い男。
「……誰かしら。私の安眠を妨げる、空気の読めない暴走族は」
「お嬢様、暴走族ではございません。あの方の紋章……この地の領主、ミハイル・ヴォルゴ辺境伯かと思われます」
馬はナターシャの数メートル手前でピタリと止まった。
馬上の男が、鉄仮面を脱ぐ。
現れたのは、彫刻のように整っているが、一切の感情を排除したような冷徹な顔立ちだった。
「……貴様が、王都から追放されてきたという『毒婦』ナターシャ・フォン・グラムか」
男の声は低く、周囲の空気を凍らせるような威圧感に満ちていた。
「氷の処刑人」という二つ名に相応しい、隙のない佇まい。
普通の令嬢なら、その視線だけで失神してもおかしくない。
しかし、ナターシャの感想は違った。
「……あの、ミハイル様? でしたっけ。お名前をお呼びしても?」
「構わん。貴様の弁明を聞こう。この私の領地で、どのような悪巧みを企んでいる?」
「弁明も何も……まず、その馬をどこかへやってくださいませんか。砂埃が舞って、私の喉が痛いですわ。あと、声が大きいです。山びこが返ってきているのが聞こえませんか?」
ミハイルの眉間に、深い皺が刻まれた。
彼は、泣き喚くか、あるいは媚びを売ってくるだろうと予想していたのだ。
まさか「砂埃がうるさい」と言われるとは思っていなかった。
「……貴様、自分が置かれた立場が分かっているのか。私は陛下より、貴様の監視を任されているのだぞ」
「監視、結構じゃないですか。でしたら、あちらの木陰に椅子でも置いて、座って見ていてくださいな。お茶くらいはセバスが出してくれますわよ。あ、でも私の昼寝中は静かにしてくださいね」
「……昼寝だと? これから何らかの呪詛や、王都への復讐計画を練るのではないのか」
「復讐? そんな面倒なこと、誰がしますの。私、復讐する体力があるなら、その分を睡眠に回したいタイプなんです。分かります? この効率の良さ」
ナターシャは本気で心外だという風に、肩をすくめて見せた。
ミハイルは絶句したまま、馬上で固まっている。
「セバス、荷物を運んで。私は先に、一番日当たりのいい部屋を確保するわ。あ、ミハイル様。監視のお仕事、頑張ってくださいね。お疲れ様です」
「ま、待て! まだ話は終わっていない!」
ナターシャは、ミハイルの制止を完全にスルーして、別荘の中へと足を踏み入れた。
埃っぽい空気さえも、彼女にとっては「自由の香り」に感じられた。
「……おい、執事。あの女は一体何を考えている」
馬から降りたミハイルが、荷物を運ぼうとしていたセバスに詰め寄った。
セバスは、執事らしい完璧な微笑みを崩さない。
「お嬢様は、非常に合理的な方でございます。彼女にとって、辺境伯様との会話よりも、ふかふかの枕の方が優先順位が高い……ただそれだけのことでございます」
「合理……的? 私の威圧に屈しないあの態度は、何か高度な心理戦を仕掛けているのではないか? そうか、私を油断させて、裏で巨大な魔法陣でも起動させるつもりか……!」
「いえ、ただ眠いだけかと」
「嘘をつけ! あの『毒婦』と呼ばれた女が、そんな単純な理由で動くはずがない! ……いいだろう、ナターシャ・フォン・グラム。貴様の正体、暴いてくれる!」
ミハイルは、勘違いに勘違いを重ね、勝手に燃え上がり始めた。
一方、別荘の二階では。
「あったわ! ここ、ここよ! 窓から山が見えて、適度に風が抜ける……最高の昼寝スポット!」
ナターシャは、まだシーツも敷かれていないベッドにダイブした。
辺境の空気は冷たく、そして心地よい。
「あー……幸せ……。王子も、夜会も、ドレスも、全部さようなら。……あとは、あのうるさい辺境伯をどうやって追い払うかだけど……ま、いいわ。明日考えよう……」
秒で夢の中へ落ちていくナターシャ。
彼女の「辺境ライフ」は、早くも領主をパニックに陥れるという、波乱のスタートを切ったのであった。
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