邪魔する殿下との婚約破棄、喜んで承ります。

小梅りこ

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「……セバス。この別荘、致命的な欠陥があるわ」


翌朝。太陽がすっかり高い位置に登った頃、ナターシャは寝癖のついた頭を抱えながら、リビングのソファで呟いた。
セバスはテキパキと埃を払いながら、涼しい顔で答える。


「欠陥、でございますか? 雨漏りでもいたしましたか?」


「いいえ。キッチンから寝室までが遠すぎるのよ。歩くのが面倒だわ。あと、このソファのクッション、反発力が強すぎて私の腰が『もっと沈め』と悲鳴を上げているの」


「なるほど。それは由々しき事態でございますね」


ナターシャは、手元の紙に素早く図解を描き始めた。
それは建築家が見れば卒倒するような、生活動線を極限まで削った「自堕落レイアウト」だった。


「まず、この壁をぶち抜いて。ここに滑り台を設置しましょう。二階の寝室から一階のリビングまで、一瞬で移動できるようにするの」


「滑り台、でございますか。確かに時短にはなりますが、淑女の移動手段としては少々……」


「時短じゃないわ、省エネよ。重力を利用するの。それから、家中すべての床を、この『極厚もふもふ絨毯』で埋め尽くして。最悪、どこで寝落ちしても体が痛くならないように」


「承知いたしました。ただちに手配を。……おや、お嬢様。玄関に、朝から大変熱心な『監視役』が到着されたようです」


セバスが指差す先、窓の外には昨日と同じ漆黒の馬に跨ったミハイルがいた。
彼は鋭い眼光で別荘を睨みつけている。


「……ナターシャ・フォン・グラム! 朝だぞ、出てこい! 貴様の昨日の不遜な態度、じっくり再教育してやる!」


ナターシャは深く溜息をつき、窓を開けて身を乗り出した。


「ミハイル様、おはようございます。朝からそんなに大声を出して、喉が枯れませんか? 私は今、国家の存亡……ではなく、私の安眠の存亡に関わる重大な会議中ですので、お引き取りください」


「会議だと!? やはり何か企んでいるのか! 開けろ、中を改めさせてもらう!」


ドカドカと土足に近い勢いで踏み込んできたミハイルは、床に広げられたナターシャの図面を奪い取った。


「……これはなんだ。この奇妙な矢印の羅列は。まさか、王都へ進軍するための陣形図か?」


「えっ? いえ、それはキッチンから冷蔵庫、そしてソファへの最短ルート……」


「黙れ! 見ろ、この二階から一階へ突き抜ける巨大な曲線。これは、地下に隠された秘密兵器を射出するための砲身か!? 貴様、この別荘を要塞化するつもりだな!」


ミハイルの目が、妄信的な輝きを放ち始める。
ナターシャは、ポカンと口を開けて彼を見上げた。


「……あの、ミハイル様。それは滑り台です。私が、歩きたくないから滑るための……」


「滑り台? フン、そんな子供騙しの言葉に騙される私ではない! 物資を高速で搬送するための重力式スライダーだろう! なんと恐ろしい女だ。追放された身でありながら、これほどまでの軍事転換を瞬時に思いつくとは……!」


「ミハイル様、深読みしすぎです。ただのサボりです」


「さらに見ろ、この『もふもふ絨毯』の計画! 貴様、さては家中の音を遮断し、外部からの探知を防ぐ気か! 忍びの者を訓練する気だな!?」


ナターシャは、隣に立つセバスにそっと耳打ちした。


「ねえセバス。この人、病気かしら?」


「いえ、お嬢様。おそらく、あまりにも真面目に生きてこられたせいで、人の『怠惰』という概念を脳が拒絶しているのでしょう」


ミハイルは一人で図面に見入り、ブツブツと独り言を繰り返している。


「……信じられん。この生活動線の無駄のなさはどうだ。一歩も無駄な動きをしない、極限の効率化。これは戦場において、最小の労力で最大の戦果を挙げる指揮官の思考そのもの……!」


「あの、ミハイル様。納得されたなら、その図面返してくださる? 絨毯の厚みを測り直したいので」


ミハイルは、バッと顔を上げてナターシャを凝視した。
その瞳には、昨日までの蔑みではなく、何やら「恐怖」と「畏敬」が混じったような色が浮かんでいる。


「ナターシャ……貴様、もしや自分を無能に見せかけることで、私の警戒を解こうとしているのか?」


「いいえ、私は正真正銘、心から何もしぶとく生きるつもりがない無能ですわ」


「嘘だ! これほどの戦略眼を持つ者が、ただ寝て過ごしたいだけなどということがあってたまるか! 貴様の真の狙いが分かるまで、私は一歩も引かんぞ!」


「あ、そう。じゃあ、そこに立っててください。セバス、工事用のハンマー持ってきて。壁、壊すわよ」


ナターシャは、ミハイルが驚愕の表情で見守る中、自らハンマーを手に取った。
正確には、ハンマーを振り上げるふりをして、すぐセバスに渡した。


「……重いわ。セバス、代わって。私、筋肉痛になりたくないの」


「畏まりました、お嬢様」


景気の良い破壊音が響き渡る中、ミハイルは拳を握りしめて立ち尽くしていた。


「……目の前で躊躇なく壁を壊すとは。迷いがない。やはり彼女は、古い慣習を打ち砕き、新たな秩序を作ろうとしている革命家なのか……!」


こうして、ナターシャの「究極のサボり空間」への改造工事は、なぜか辺境伯による「軍事施設強化の視察」として認定されてしまったのである。


ナターシャは、工事の騒音の中でもソファで器用にうたた寝を始めた。
その姿を見て、ミハイルはさらに戦慄した。


(工事の真っ最中に眠るだと!? この精神力……もはや、神の領域か!?)


勘違いの加速は、ナターシャの眠りをさらに深いものにしていくのであった。
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