邪魔する殿下との婚約破棄、喜んで承ります。

小梅りこ

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「お嬢様、おめでとうございます。改造工事がすべて完了いたしました」


セバスが恭しく告げる。
ナターシャは、目の前に完成した「究極の自堕落空間」を見渡し、感無量の面持ちで深く頷いた。


壁は取り払われ、一階と二階を繋ぐ巨大な曲線を描く「移動用スライダー(滑り台)」が鎮座している。
床一面には、雲の上を歩いているかのような感触の、毛足の長い真っ白な絨毯が敷き詰められた。


「……素晴らしいわ、セバス。これで私は、朝起きてから一度も自分の足で階段を降りることなく、キッチンの焼きたてパンに辿り着けるのね」


「左様でございます。二階の寝室から滑り落ちれば、着地点はちょうど朝食のテーブルの横になるよう計算してあります」


「天才ね。これこそが文明の利器よ。……さて、さっそく試運転を」


ナターシャはパジャマ姿のまま二階へ上がり、スライダーの入り口に腰を下ろした。
そして、重力に身を委ねる。


「ひゃっほおぉぉぉ……!」


風を切り、滑らかな曲線を描いてナターシャは一階へと滑り落ちた。
計算通り、着地点に設置された特大クッションが彼女を優しく受け止める。
そのわずか三十センチ先には、セバスが用意した香ばしいコーヒーと、バターたっぷりのクロワッサンが置かれていた。


「……完璧。この移動に要した時間は、わずか三秒。消費カロリーはほぼゼロ。これよ、私が求めていた人生は!」


ナターシャが至福の表情でクロワッサンを頬張っていると、玄関の扉が勢いよく開かれた。
例のごとく、顔を強張らせたミハイル・ヴォルゴが、数人の騎士を引き連れて踏み込んできた。


「ナターシャ・フォン・グラム! 工事が終わったと聞いて駆けつけたぞ! ……な、なんだ、この光景は……!」


ミハイルは、玄関から一歩踏み出した瞬間、足元に広がる「もふもふ絨毯」に足を取られてよろめいた。
彼の騎士たちも、あまりの足の沈み込みに、「底なし沼か!?」と武器を構える始末である。


「……ミハイル様。朝からノックもなしに、相変わらず騒々しいですわね。せっかくのコーヒーの香りが台無しですわ」


ナターシャはクッションに埋もれたまま、手だけを振って挨拶した。


「貴様……! この床は何だ! 歩きにくいことこの上ないぞ! 敵の侵入を遅らせるための防衛策か!?」


「いえ、ただ『転んでも痛くない』という慈愛の心から生まれたインテリアですわ。ミハイル様も、そんなにカリカリしないで、一度そこに寝転んでみたらどうです? 世界平和について考え直したくなりますわよ」


ミハイルはナターシャを無視し、部屋の中央にそびえ立つスライダーを見上げた。


「……そして、あの巨大な管。やはり、昨日推測した通りか。上層階から重要拠点へと戦力を一瞬で展開するための『緊急出撃路』……!」


「いえ、ただの滑り台です」


「黙れ! これほど無駄のない角度、そして着地点の防御クッション。一秒を争う戦場において、これほど合理的な移動手段があるか! ナターシャ……貴様、もしやこの別荘を、辺境防衛のモデルルームにするつもりではないのか?」


ミハイルはスライダーを撫で回し、その滑らかさに戦慄している。


「辺境防衛、ですか。まあ、ある意味ではそうかもしれませんね。私の眠りを妨げるあらゆるストレスから、私を防衛するための城ですから」


「やはりそうか! 自らの身を呈して、この辺境の守り方を私に示そうとしているのだな! なんと高潔な……! 追放された逆境を逆手に取り、領主である私に軍事教導を行うとは!」


「……あの、ミハイル様? 目が怖いですわよ。キラキラしすぎです」


「ナターシャ、感謝する! 昨日までの無礼を許してくれ。貴様のような知略家を『毒婦』と呼んでいた王都の連中がいかに節穴か、よく理解できたぞ!」


ミハイルはバサァッ!とマントを翻すと、ナターシャの前に膝をついた。
あまりの勢いに、絨毯から微かな埃が舞う。


「この別荘での貴様の行動、すべて記録させてもらう。この『もふもふ防衛床』も、我が軍の鍛錬に取り入れよう! 足腰が鍛えられる上に、消音効果も抜群だ!」


「……あ、そう。好きにしてください。ただ、工事の騒音だけは勘弁してくださいね」


「心得た! 隠密行動こそがこの設備の真髄なのだろうからな! では、私はさっそくスライダーの図面を引いてくる!」


嵐のように去っていくミハイルを見送り、ナターシャは深い溜息をついた。


「……セバス。あの人、もう救いようがないわね」


「お嬢様が有能すぎるのがいけないのです。あ、お嬢様。ミハイル様が感激のあまり、お礼にと高級な羊肉を半頭分届けてくださいました」


「……羊肉。いいわね、ジンギスカンにしましょう。体力は使いたくないけど、食べるための咀嚼筋だけは鍛えておかないと」


ナターシャは再びクッションに深く沈み込んだ。
別荘の外では、ミハイルが「スライダー式緊急出撃システム」の導入について騎士たちに熱弁を振るっている声が聞こえる。


ナターシャは、その声を子守唄代わりに、二度寝の準備を始めた。
王都での「悪役令嬢」としての汚名も、殿下の不快な顔も、もはや遠い過去の話。
今の彼女にとって重要なのは、羊肉の焼き加減と、午後の昼寝の時間だけだった。


(……ふふ。辺境って、案外ちょろいわね)


ナターシャの口元に、勝利の笑みが浮かぶ。
それは、いかなる権力者も成し得なかった「完璧な怠惰」を手に入れた者の、王者の微笑みであった。
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