7 / 28
7
しおりを挟む
「……セバス、やはりこの配置では無駄が多いわ」
改造から数日。ナターシャはリビングの巨大なクッションの海に埋もれながら、深刻な顔で地図を広げていた。
といっても、それは領地の地図ではなく、この別荘内の「おやつ供給マップ」である。
「と申されますと、お嬢様? 現在、キッチンからリビングへはスライダーと滑車を利用した自動搬送システムが稼働しておりますが」
「ええ、それ自体は素晴らしいわ。でも見て、この『クッキーの瓶』と『私の口』の間の、わずか五十センチの空白を! 毎回、手を伸ばさなければならないなんて、筋肉の酷使もいいところよ」
ナターシャは、天井から吊るした紐の束を指差した。
彼女が紐を引くと、滑車が回ってキッチンの籠が移動する仕組みだが、最後の一歩……「口に運ぶ」という行為に不満を抱いていた。
「なるほど。では、マジックハンドのような魔法具を導入いたしますか? あるいは、お嬢様が動かなくても済むよう、床自体を回転させる仕組みにするか……」
「それよセバス! 床をコンベアにしましょう! 私がソファに座ったまま、お菓子の方が私に寄ってくる。これぞ真のバリアフリーだわ!」
ナターシャが情熱的に(座ったまま)拳を握ったその時、またしてもノックを忘れた「氷の辺境伯」が乱入してきた。
「ナターシャ・フォン・グラム! 今日も教えを請いに来たぞ! ……な、なんだ、この蜘蛛の巣のような紐は!」
ミハイルは、部屋中に張り巡らされた「おやつ運搬用」の紐のネットワークを見て、その場で凍りついた。
彼は慌てて懐から手帳を取り出し、血走った目でその紐の繋がりを分析し始める。
「……この緻密な張り巡らされ方。各地点が最短距離で結ばれ、中央のナターシャ嬢へすべての物資が集まるよう設計されている。……これは、物流の革命か!?」
「ミハイル様、勝手に入らないでください。いま、私の人生における『最終防衛ライン』を構築中なのですから」
「最終防衛ライン……! やはりそうか! この紐の配置、ヴォルゴ領の街道網と酷似している! 貴様、この別荘をシミュレーターにして、領内の物流を最適化しようというのだな!」
ミハイルは紐の一本を指で弾き、その振動にすら感動を隠せない様子だった。
「見ろ、この複雑な交差点! ここをバイパスにすることで、冬の積雪時でも食料供給が途絶えないように計算されているのか。……なんと慈悲深い。自分の快適さを追求するフリをして、実は領民の命を守るための策を練っていたとは!」
「……あの、ミハイル様。そこは『マカロンが壊れずに届くためのクッションポイント』ですわよ」
「『マカロン(極秘物資)』が壊れずに届くための、衝撃吸収拠点(ロジスティクス・ハブ)か! 素晴らしい! この発想があれば、辺境の険しい道でも壊れやすい精密機械や薬品を運べる!」
ミハイルは震える手で、ナターシャが書き殴った「おやつマップ」を模写し始めた。
「ミハイル様。そんなに感動されるなら、その地図、差し上げましょうか? 私はもう、次の段階……『全自動・口まで運び機』の開発に移行しますので」
「な、なんだと!? まだ先があるというのか! ……ナターシャ嬢、貴様は一体どこまで先を見据えている。物流を極めたその先に、何があるというんだ!」
「睡眠ですわ。究極の。誰にも、何にも邪魔されず、栄養さえも自動で摂取できる完全な安息です」
ミハイルは、その言葉を反芻するように深く目を閉じた。
「……『睡眠(平和)』。そうか。戦いのない、誰もが安らかに眠れる世界。貴様はその理想郷を、この小さな別荘から体現しようとしているのだな。私は恥ずかしい。目先の魔物対策や予算案にばかり囚われて、貴様のような大局観を持てずにいたとは」
「いや、予算案ならちょうどいいですわ。ミハイル様。この『動く床』を作るための予算、領の公共事業として出せませんか? ついでに、領民の皆さんの道も舗装してあげれば、私の買い物も早くなるし、一石二鳥でしょう?」
「公共事業だと!? ……素晴らしい提案だ! 貴様の『動く道』の理論を領都に導入すれば、荷馬車のスピードは三倍になり、経済は活性化するだろう! ナターシャ、貴様を領地の『特別顧問』として正式に招聘したい!」
「え、顧問? 会議とか出るの面倒なんですけど……」
「会議など不要だ! 貴様はこのソファから動かず、たまにこうして独り言のように『怠惰(真理)』を呟いてくれればいい。あとの実務は、この私と私の部下たちが全力で完遂してみせる!」
ナターシャは、セバスと顔を見合わせた。
セバスは「よかったですね、お嬢様。他人の金で床が動きますよ」という顔で静かに頷いている。
「……分かりましたわ。では、顧問料として、毎月王都から最高級の茶葉と、この領で一番柔らかい羊の毛を取り寄せてください。それが条件です」
「安い! 安いものだ! 貴様の知略に比べれば、そんなものは砂粒に等しい! よし、ただちに工兵部隊を呼んでくる!」
ミハイルは、希望に満ち溢れた顔で別荘を飛び出していった。
玄関から「ナターシャ嬢は女神か……!」という呟きが漏れ聞こえてくる。
「……セバス。あの人、本当に辺境伯なのよね? 詐欺師に騙されたりしないかしら」
「お嬢様という名の『史上最強の詐欺師(無自覚)』に、すでに心酔しておりますから。他の方に騙される隙はないかと」
「失礼ね。私はただ、一秒でも長く寝ていたいだけよ」
ナターシャは、ミハイルが残していった手帳の切れ端を見つめた。
そこには『ナターシャ式・超空間物流理論(仮)』と、熱苦しい文字で書かれていた。
(まあ、床が動くようになるなら何でもいいわ。……さて、床が完成するまで、今のうちに三時間ほど仮眠をとっておこうかしら)
ナターシャは、クッションの海に再び沈んでいった。
彼女の「サボりたい」という欲望が、辺境の歴史を大きく塗り替えようとしていることなど、知る由もなかった。
改造から数日。ナターシャはリビングの巨大なクッションの海に埋もれながら、深刻な顔で地図を広げていた。
といっても、それは領地の地図ではなく、この別荘内の「おやつ供給マップ」である。
「と申されますと、お嬢様? 現在、キッチンからリビングへはスライダーと滑車を利用した自動搬送システムが稼働しておりますが」
「ええ、それ自体は素晴らしいわ。でも見て、この『クッキーの瓶』と『私の口』の間の、わずか五十センチの空白を! 毎回、手を伸ばさなければならないなんて、筋肉の酷使もいいところよ」
ナターシャは、天井から吊るした紐の束を指差した。
彼女が紐を引くと、滑車が回ってキッチンの籠が移動する仕組みだが、最後の一歩……「口に運ぶ」という行為に不満を抱いていた。
「なるほど。では、マジックハンドのような魔法具を導入いたしますか? あるいは、お嬢様が動かなくても済むよう、床自体を回転させる仕組みにするか……」
「それよセバス! 床をコンベアにしましょう! 私がソファに座ったまま、お菓子の方が私に寄ってくる。これぞ真のバリアフリーだわ!」
ナターシャが情熱的に(座ったまま)拳を握ったその時、またしてもノックを忘れた「氷の辺境伯」が乱入してきた。
「ナターシャ・フォン・グラム! 今日も教えを請いに来たぞ! ……な、なんだ、この蜘蛛の巣のような紐は!」
ミハイルは、部屋中に張り巡らされた「おやつ運搬用」の紐のネットワークを見て、その場で凍りついた。
彼は慌てて懐から手帳を取り出し、血走った目でその紐の繋がりを分析し始める。
「……この緻密な張り巡らされ方。各地点が最短距離で結ばれ、中央のナターシャ嬢へすべての物資が集まるよう設計されている。……これは、物流の革命か!?」
「ミハイル様、勝手に入らないでください。いま、私の人生における『最終防衛ライン』を構築中なのですから」
「最終防衛ライン……! やはりそうか! この紐の配置、ヴォルゴ領の街道網と酷似している! 貴様、この別荘をシミュレーターにして、領内の物流を最適化しようというのだな!」
ミハイルは紐の一本を指で弾き、その振動にすら感動を隠せない様子だった。
「見ろ、この複雑な交差点! ここをバイパスにすることで、冬の積雪時でも食料供給が途絶えないように計算されているのか。……なんと慈悲深い。自分の快適さを追求するフリをして、実は領民の命を守るための策を練っていたとは!」
「……あの、ミハイル様。そこは『マカロンが壊れずに届くためのクッションポイント』ですわよ」
「『マカロン(極秘物資)』が壊れずに届くための、衝撃吸収拠点(ロジスティクス・ハブ)か! 素晴らしい! この発想があれば、辺境の険しい道でも壊れやすい精密機械や薬品を運べる!」
ミハイルは震える手で、ナターシャが書き殴った「おやつマップ」を模写し始めた。
「ミハイル様。そんなに感動されるなら、その地図、差し上げましょうか? 私はもう、次の段階……『全自動・口まで運び機』の開発に移行しますので」
「な、なんだと!? まだ先があるというのか! ……ナターシャ嬢、貴様は一体どこまで先を見据えている。物流を極めたその先に、何があるというんだ!」
「睡眠ですわ。究極の。誰にも、何にも邪魔されず、栄養さえも自動で摂取できる完全な安息です」
ミハイルは、その言葉を反芻するように深く目を閉じた。
「……『睡眠(平和)』。そうか。戦いのない、誰もが安らかに眠れる世界。貴様はその理想郷を、この小さな別荘から体現しようとしているのだな。私は恥ずかしい。目先の魔物対策や予算案にばかり囚われて、貴様のような大局観を持てずにいたとは」
「いや、予算案ならちょうどいいですわ。ミハイル様。この『動く床』を作るための予算、領の公共事業として出せませんか? ついでに、領民の皆さんの道も舗装してあげれば、私の買い物も早くなるし、一石二鳥でしょう?」
「公共事業だと!? ……素晴らしい提案だ! 貴様の『動く道』の理論を領都に導入すれば、荷馬車のスピードは三倍になり、経済は活性化するだろう! ナターシャ、貴様を領地の『特別顧問』として正式に招聘したい!」
「え、顧問? 会議とか出るの面倒なんですけど……」
「会議など不要だ! 貴様はこのソファから動かず、たまにこうして独り言のように『怠惰(真理)』を呟いてくれればいい。あとの実務は、この私と私の部下たちが全力で完遂してみせる!」
ナターシャは、セバスと顔を見合わせた。
セバスは「よかったですね、お嬢様。他人の金で床が動きますよ」という顔で静かに頷いている。
「……分かりましたわ。では、顧問料として、毎月王都から最高級の茶葉と、この領で一番柔らかい羊の毛を取り寄せてください。それが条件です」
「安い! 安いものだ! 貴様の知略に比べれば、そんなものは砂粒に等しい! よし、ただちに工兵部隊を呼んでくる!」
ミハイルは、希望に満ち溢れた顔で別荘を飛び出していった。
玄関から「ナターシャ嬢は女神か……!」という呟きが漏れ聞こえてくる。
「……セバス。あの人、本当に辺境伯なのよね? 詐欺師に騙されたりしないかしら」
「お嬢様という名の『史上最強の詐欺師(無自覚)』に、すでに心酔しておりますから。他の方に騙される隙はないかと」
「失礼ね。私はただ、一秒でも長く寝ていたいだけよ」
ナターシャは、ミハイルが残していった手帳の切れ端を見つめた。
そこには『ナターシャ式・超空間物流理論(仮)』と、熱苦しい文字で書かれていた。
(まあ、床が動くようになるなら何でもいいわ。……さて、床が完成するまで、今のうちに三時間ほど仮眠をとっておこうかしら)
ナターシャは、クッションの海に再び沈んでいった。
彼女の「サボりたい」という欲望が、辺境の歴史を大きく塗り替えようとしていることなど、知る由もなかった。
7
あなたにおすすめの小説
婚約破棄された公爵令嬢ですが、戻らなかっただけです
鷹 綾
恋愛
王太子カイル殿下から、社交界の場で婚約破棄を言い渡された公爵令嬢リュシエンヌ。
理由は――
「王太子妃には華が必要だから」。
新たに選ばれたのは、愛らしく無邪気な義妹セシリア。
誰もが思った。
傷ついた令嬢は泣き、縋り、やがて戻るのだと。
けれどリュシエンヌは、ただ一言だけ告げる。
「戻りません」
彼女は怒らない。
争わない。
復讐もしない。
ただ――王家を支えるのをやめただけ。
流通は滞り、商会は様子を見始め、焦った王太子は失点を重ねる。
さらに義妹の軽率な一言が決定打となり、王太子妃候補の座は静かに消えた。
強いざまあとは、叫ぶことではない。
自らの選択で、自らの立場を削らせること。
そして彼女は最後まで戻らない。
支えない。
奪わない。
――選ばれなかったのではない。
彼女が、選ばなかったのだ。
これは、沈黙で勝つ公爵令嬢の物語。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
セレナの居場所 ~下賜された側妃~
緑谷めい
恋愛
後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。
幼馴染以上、婚約者未満の王子と侯爵令嬢の関係
紫月 由良
恋愛
第二王子エインの婚約者は、貴族には珍しい赤茶色の髪を持つ侯爵令嬢のディアドラ。だが彼女の冷たい瞳と無口な性格が気に入らず、エインは婚約者の義兄フィオンとともに彼女を疎んじていた。そんな中、ディアドラが学院内で留学してきた男子学生たちと親しくしているという噂が広まる。注意しに行ったエインは彼女の見知らぬ一面に心を乱された。しかし婚約者の異母兄妹たちの思惑が問題を引き起こして……。
顔と頭が良く性格が悪い男の失恋ストーリー。
※流血シーンがあります。(各話の前書きに注意書き+次話前書きにあらすじがあるので、飛ばし読み可能です)
侯爵家の婚約者に手を出す意味、わかってます?
碧井 汐桜香
恋愛
侯爵令嬢ジョセリアは地味な外見をしている少女だ。いつも婚約者のアランとその取り巻きの少女たちに罵倒されている。
しかし、今日はアランの取り巻きは一人しかおらず、いつも無視を決め込んでいたジョセリアが口を開いた。
夫と息子に邪険にされたので王太子妃の座を譲ります~死に戻ってから溺愛されても今更遅い
青の雀
恋愛
夫婦喧嘩の末に置き去りにされた妻は、旦那が若い愛人とイチャついている間に盗賊に襲われ、命を落とした。
神様の温情により、10日間だけこの世に戻った妻と護衛の騎士は、その10日間の間に心残りを処分する。それは、娘の行く末と……もし、来世があるならば、今度は政略といえども夫以外の人の妻になるということ。
もう二度と夫と出会いたくない彼女は、彼女を蔑ろにしてきた息子とも縁を切ることを決意する。
生まれかわった妻は、新しい人生を強く生きることを決意。
過去世と同じ轍を踏みたくない……
遺産は一円も渡さない 〜強欲な夫と義実家に捨てられた私、真の相続人と手を組み全てを奪い返す~ (全10話)
スカッと文庫
恋愛
「お前の価値なんて、その遺産くらいしかないんだよ」
唯一の肉親だった祖父を亡くした夜、夫の健一と義母から放たれたのは、あまりにも無慈悲な言葉だった。
四十九日も待たず、祖父が遺した1億2000万円の遺産をアテに贅沢三昧を目論む夫。だが、彼には隠し通している「裏切り」があった――。
絶望の淵に立たされた由美の前に現れたのは、亡き祖父が差し向けた若き凄腕弁護士・蓮。
「おじい様は、すべてお見通しでしたよ」
明かされる衝撃の遺言内容。そして、強欲な夫たちを地獄へ叩き落とすための「相続条件」とは?
虐げられてきた妻による、一発逆転の遺産争奪&復讐劇がいま幕を開ける!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる