邪魔する殿下との婚約破棄、喜んで承ります。

小梅りこ

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「……セバス、やはりこの配置では無駄が多いわ」


改造から数日。ナターシャはリビングの巨大なクッションの海に埋もれながら、深刻な顔で地図を広げていた。
といっても、それは領地の地図ではなく、この別荘内の「おやつ供給マップ」である。


「と申されますと、お嬢様? 現在、キッチンからリビングへはスライダーと滑車を利用した自動搬送システムが稼働しておりますが」


「ええ、それ自体は素晴らしいわ。でも見て、この『クッキーの瓶』と『私の口』の間の、わずか五十センチの空白を! 毎回、手を伸ばさなければならないなんて、筋肉の酷使もいいところよ」


ナターシャは、天井から吊るした紐の束を指差した。
彼女が紐を引くと、滑車が回ってキッチンの籠が移動する仕組みだが、最後の一歩……「口に運ぶ」という行為に不満を抱いていた。


「なるほど。では、マジックハンドのような魔法具を導入いたしますか? あるいは、お嬢様が動かなくても済むよう、床自体を回転させる仕組みにするか……」


「それよセバス! 床をコンベアにしましょう! 私がソファに座ったまま、お菓子の方が私に寄ってくる。これぞ真のバリアフリーだわ!」


ナターシャが情熱的に(座ったまま)拳を握ったその時、またしてもノックを忘れた「氷の辺境伯」が乱入してきた。


「ナターシャ・フォン・グラム! 今日も教えを請いに来たぞ! ……な、なんだ、この蜘蛛の巣のような紐は!」


ミハイルは、部屋中に張り巡らされた「おやつ運搬用」の紐のネットワークを見て、その場で凍りついた。
彼は慌てて懐から手帳を取り出し、血走った目でその紐の繋がりを分析し始める。


「……この緻密な張り巡らされ方。各地点が最短距離で結ばれ、中央のナターシャ嬢へすべての物資が集まるよう設計されている。……これは、物流の革命か!?」


「ミハイル様、勝手に入らないでください。いま、私の人生における『最終防衛ライン』を構築中なのですから」


「最終防衛ライン……! やはりそうか! この紐の配置、ヴォルゴ領の街道網と酷似している! 貴様、この別荘をシミュレーターにして、領内の物流を最適化しようというのだな!」


ミハイルは紐の一本を指で弾き、その振動にすら感動を隠せない様子だった。


「見ろ、この複雑な交差点! ここをバイパスにすることで、冬の積雪時でも食料供給が途絶えないように計算されているのか。……なんと慈悲深い。自分の快適さを追求するフリをして、実は領民の命を守るための策を練っていたとは!」


「……あの、ミハイル様。そこは『マカロンが壊れずに届くためのクッションポイント』ですわよ」


「『マカロン(極秘物資)』が壊れずに届くための、衝撃吸収拠点(ロジスティクス・ハブ)か! 素晴らしい! この発想があれば、辺境の険しい道でも壊れやすい精密機械や薬品を運べる!」


ミハイルは震える手で、ナターシャが書き殴った「おやつマップ」を模写し始めた。


「ミハイル様。そんなに感動されるなら、その地図、差し上げましょうか? 私はもう、次の段階……『全自動・口まで運び機』の開発に移行しますので」


「な、なんだと!? まだ先があるというのか! ……ナターシャ嬢、貴様は一体どこまで先を見据えている。物流を極めたその先に、何があるというんだ!」


「睡眠ですわ。究極の。誰にも、何にも邪魔されず、栄養さえも自動で摂取できる完全な安息です」


ミハイルは、その言葉を反芻するように深く目を閉じた。


「……『睡眠(平和)』。そうか。戦いのない、誰もが安らかに眠れる世界。貴様はその理想郷を、この小さな別荘から体現しようとしているのだな。私は恥ずかしい。目先の魔物対策や予算案にばかり囚われて、貴様のような大局観を持てずにいたとは」


「いや、予算案ならちょうどいいですわ。ミハイル様。この『動く床』を作るための予算、領の公共事業として出せませんか? ついでに、領民の皆さんの道も舗装してあげれば、私の買い物も早くなるし、一石二鳥でしょう?」


「公共事業だと!? ……素晴らしい提案だ! 貴様の『動く道』の理論を領都に導入すれば、荷馬車のスピードは三倍になり、経済は活性化するだろう! ナターシャ、貴様を領地の『特別顧問』として正式に招聘したい!」


「え、顧問? 会議とか出るの面倒なんですけど……」


「会議など不要だ! 貴様はこのソファから動かず、たまにこうして独り言のように『怠惰(真理)』を呟いてくれればいい。あとの実務は、この私と私の部下たちが全力で完遂してみせる!」


ナターシャは、セバスと顔を見合わせた。
セバスは「よかったですね、お嬢様。他人の金で床が動きますよ」という顔で静かに頷いている。


「……分かりましたわ。では、顧問料として、毎月王都から最高級の茶葉と、この領で一番柔らかい羊の毛を取り寄せてください。それが条件です」


「安い! 安いものだ! 貴様の知略に比べれば、そんなものは砂粒に等しい! よし、ただちに工兵部隊を呼んでくる!」


ミハイルは、希望に満ち溢れた顔で別荘を飛び出していった。
玄関から「ナターシャ嬢は女神か……!」という呟きが漏れ聞こえてくる。


「……セバス。あの人、本当に辺境伯なのよね? 詐欺師に騙されたりしないかしら」


「お嬢様という名の『史上最強の詐欺師(無自覚)』に、すでに心酔しておりますから。他の方に騙される隙はないかと」


「失礼ね。私はただ、一秒でも長く寝ていたいだけよ」


ナターシャは、ミハイルが残していった手帳の切れ端を見つめた。
そこには『ナターシャ式・超空間物流理論(仮)』と、熱苦しい文字で書かれていた。


(まあ、床が動くようになるなら何でもいいわ。……さて、床が完成するまで、今のうちに三時間ほど仮眠をとっておこうかしら)


ナターシャは、クッションの海に再び沈んでいった。
彼女の「サボりたい」という欲望が、辺境の歴史を大きく塗り替えようとしていることなど、知る由もなかった。
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