邪魔する殿下との婚約破棄、喜んで承ります。

小梅りこ

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「……ちょっと! なによこの家! 床がふわふわして歩きにくいわね!」


静寂に包まれていた別荘のロビーに、金切り声が響き渡った。
ピンクのドレスの裾をこれでもかと汚し、髪を振り乱したクロエ・フォン・男爵令嬢が、護衛も連れずに乱入してきたのだ。


「……セバス。今、私の夢の中でマカロンが悲鳴を上げた気がしたのだけれど。何の騒動かしら?」


ナターシャは、リビング中央に鎮座する「全自動回転ソファ」の上で、薄目を開けた。
そこには、憤怒に顔を歪めたクロエが立ち尽くしている。


「あら、マカロン泥棒様じゃない。わざわざ王都から、食べ残したマカロンの返却にでも来られたの?」


「誰が泥棒よ! ナターシャ! 貴女のせいで、ヴィンセント様がおかしくなってしまったわ! 毎日毎日『ナターシャならこうしていた』『ナターシャのプリンが食べたい』……! 挙句の果てには、プリンまみれで帰ってきて、お風呂で泣いているのよ!」


「……それはそれは。お風呂の掃除が大変そうですわね。同情しますわ」


ナターシャは、全く興味がなさそうに、手元のレバーを操作してソファの角度を三度だけ傾けた。
この「三度の傾き」が、午後の日差しを避けるための黄金角なのだ。


「同情なんていらないわよ! 貴女、追放されたくせに、なんでこんなに豪華な生活をしているの!? この絨毯も、その奇妙な滑り台も……全部、殿下の気を引くためのパフォーマンスなんでしょう!」


クロエは、ナターシャが使っている最高級の毛布をひったくろうと手を伸ばした。
しかし、その瞬間。


「……その汚れた手で、我が主の『聖衣』に触れるな」


冷徹な声と共に、クロエの首筋に鋭い切っ先が突きつけられた。
いつの間にか背後に立っていたミハイルが、氷のような眼光で彼女を射抜いている。


「ひっ……! あ、貴方は、ヴォルゴ辺境伯……!? な、なぜ男爵令嬢の私に剣を……!」


「我が領において、ナターシャ嬢の安眠を妨げる者は、国家反逆罪に等しい。……ナターシャ、この女はどうする? 今すぐ水路の底に沈めて、肥料にするか?」


「ミハイル様、物騒なことを言わないでください。水に脂が浮くと、お茶が不味くなりますわ。……それよりクロエ様、そんなに私の生活が気になるなら、少しお話ししましょうか。セバス、彼女に椅子を。あ、座るのが面倒でしょうから、床に転がしておいていいわ」


セバスは心得たという風に、クロエの足元に「予備のもふもふクッション」を投げ出した。
クロエは屈辱に震えながらも、ミハイルの剣が怖くて、しぶしぶその場に座り込んだ。


「……ふん! いいわよ! 貴女がどんなに贅沢をしていても、ヴィンセント様の隣に座るのは私なんだから! 王妃になれば、私は貴女よりもっと……」


「王妃? ああ、そういえばそんな役職もありましたわね。……ところでクロエ様、王妃の公務スケジュール、ご存じかしら?」


ナターシャは、セバスに目配せをした。
セバスは待機していたかのように、一枚の長い巻物を取り出し、床に広げた。


「朝五時起床、冷水での洗顔、三時間の祈祷、その後、大臣たちとの朝食会議二時間、外交文書の査読三時間、午後からは慈善事業の視察……。就寝は深夜二時でございます」


クロエの顔が、見る間に青ざめていく。


「な、なによこれ。……冗談でしょう?」


「冗談なものですか。私がいた頃は、これを半分に圧縮して、残りの時間を昼寝に充てていましたけど……。今の王宮、事務方が壊滅しているらしいですから、貴女ならこの三倍はかかるでしょうね」


「三倍……!? 寝る時間がないじゃない!」


「ええ。ドレスも毎日五回は着替えなければなりませんし、コルセットは常に最強設定ですわよ。……頑張ってくださいね。私は、ここから一歩も動かずに、貴女の『栄光ある激務』を応援していますから」


ナターシャは、これ以上ないほど優雅に、プリンを一口飲み込んだ。
クロエは、ナターシャのツヤツヤした肌と、自分自身のストレスで荒れ始めた指先を見比べた。


「……そ、そんなの……! 殿下が守ってくれるわよ!」


「殿下? あの方は今、自分の書類を片付けるので精一杯ですわよ。……ねえ、ミハイル様。王都から来たこの方に、私たちが開発した『全自動・肩もみ機』のデモンストレーションを見せてあげて」


「承知した。……おい、装置を起動せよ!」


ミハイルの合図で、クロエが座っていたクッションが振動を始め、巧妙に配置された揉み玉が彼女の肩を完璧な力加減で解し始めた。


「あ、ああんっ……!? な、なによこれ、気持ちいいじゃない……!」


「それが『辺境の技術(サボるための執念)』ですわ。……クロエ様、王宮にそんな便利なもの、あります?」


「な、ないわよ……。いつも侍女に怒られながら、背筋を伸ばして座ってるだけよ……」


「可哀想に。……ねえ、もう王妃なんてやめて、私の別荘の『庭の草むしり担当』にでも転職したら? 一日の労働時間は十分、残りは寝ていていいわよ。お給料はプリン現物支給で」


クロエの瞳に、一瞬だけ、本気の揺らぎが生じた。
「華やかな王宮」という幻想が、ナターシャの「圧倒的な快適さ」の前に、ガラガラと崩れ落ちていく。


「……っ! だ、騙されないわよ! 私は王妃になって、貴女を見返してやるんだから! ……覚えてなさい!」


クロエは、後ろ髪を引かれるように「全自動・肩もみ機」から立ち上がると、逃げるように別荘を飛び出していった。
その足取りは、来た時よりもずっと重そうだった。


「……ミハイル様。あの方、一ヶ月持たないと思いますわ」


「……だろうな。ナターシャ、君の戦術は完璧だ。敵に『自分がいかに不自由か』を自覚させ、戦意を内側から破壊する。……恐るべき精神攻撃だ!」


「いえ、ただの親切心ですわ。……さあ、セバス。今の騒ぎで三カロリーくらい消費しちゃったわ。お代わりのプリンを持ってきて」


ナターシャは、再び静寂を取り戻したリビングで、満足げに目を閉じた。
彼女の「スペック差」とは、魔力や知略ではなく、何よりも自分を愛し、甘やかすことへの「揺るぎない覚悟」であった。
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