邪魔する殿下との婚約破棄、喜んで承ります。

小梅りこ

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「……セバス。今すぐ、あの男の喉に最高級のハチミツを詰めてきてちょうだい。窒息しない程度に、二度と声が出ないくらい厚く」


別荘の最深部、防音加工を施したはずの寝室。
ナターシャは、ベッドの中で枕を二つ折りにして耳に押し当て、低く、地を這うような声で呟いた。


「お嬢様、落ち着いてください。ハチミツを喉に詰めるのは、医学的に見て少々……いえ、かなり手間がかかる作業でございます」


「手間なんてどうでもいいわ! 聴いて、あの騒音を! 私の鼓膜が、あの一音ごとに一万エリスずつ損害を被っているのが聞こえないの!?」


窓の外からは、大気を震わせるような轟音が響いていた。
それは、ヴィンセント王子が王宮の魔導具庫から持ち出してきた最終兵器――『真実の愛を届ける魔法の拡声器(メガホン)』。
一度起動すれば、半径数キロに渡って、使用者の声を「眠気を吹き飛ばす不快な周波数」に変換して増幅し続けるという、拷問用の遺物である。


『ナターシャー! 愛しているんだナターシャー! 君が戻るまで、私はこの愛の詩を二十四時間、三日三晩歌い続けるぞー! 聴け、第二章・第八節! 君の瞳はエメラルド、君の……』


「……セバス。武器を」


「お嬢様、何を仰いますか。平和主義の、歩くのも面倒なはずのお嬢様が」


「……私の安眠を妨げる奴は、例え神様でも王子様でも、私の平穏を脅かす『害虫』だわ。駆除にエネルギーを使うのは不本意だけど、このまま寝不足で私の寿命が縮まる損失に比べれば、安い投資だわ!」


ナターシャは、パジャマの上にガウンを羽織ると、素足のままスライダーに飛び込んだ。
一階に到着するなり、玄関脇に飾ってあったミハイルの予備の長槍をひっ掴む。


「ミハイル様! 道を開けなさい! 今からあの『拡声装置』を、物理的に粉砕してきますわ!」


庭で、耳を塞いで悶絶していたミハイルが、驚愕の表情でナターシャを見上げた。


「ナ、ナターシャ!? 君が自ら外に出るなんて……! いかん、その怒気に満ちた姿、神々しすぎて私の目が潰れる!」


「潰れている暇があるなら、あの男を捕まえておきなさい! 逃げられたら、追いかけるために私が走らなきゃいけないでしょう! それは嫌よ!」


ナターシャは、別荘の門を蹴り開けるような勢い(実際はセバスが先回りして開けた)で外へ飛び出した。
そこには、拡声器を抱えて悦に入っているヴィンセントがいた。


「あ、ナターシャ! やはり私の愛の詩が、君の心を動かしたんだな! さあ、続きを聴くがいい!」


「黙れ、この騒音製造機が!」


ナターシャの怒声は、魔法の拡声器さえも一瞬黙らせるほどの迫力があった。
彼女は、持っていた槍を杖のように地面に突き立てると、ヴィンセントを指差した。


「殿下。貴方のその行為、今の私にとっては『国家反逆罪』より重い罪ですわ。……貴方は、私の最も神聖な権利、すなわち『二度寝』を侵害したのです!」


「な、何を言っているんだ。私はただ、君への熱い想いを……」


「想い? 愛? 笑わせないで。貴方がやっているのは、ただの嫌がらせですわ。……いいですか、殿下。私が王都を去ったのは、貴方の隣が不快だったからだけではありません。貴方という存在が、私の人生の『静寂』を乱すノイズでしかなかったからです!」


ヴィンセントは、ナターシャのあまりの剣幕に、数歩後ずさった。
彼女の瞳には、かつての「有能な事務官」としての冷徹さと、「寝不足の魔王」としての狂気が同居していた。


「……セバス、今の彼の姿勢。重心が左に寄っているわね。ミハイル様、そこを突いて、拡声器だけを叩き壊して。……あ、殿下の手足は折らないでいいわ。治療に私の領地の薬草を使うのがもったいないもの」


「承知した、ナターシャ! 君の指示通り、最小の労力で最大の沈黙を勝ち取ろう!」


ミハイルが電光石火の速さで踏み込み、ヴィンセントの手から魔法の拡声器を奪い取ると、それを地面に叩きつけた。
パリン、という魔石の砕ける音と共に、辺りに静寂が戻った。


「あああ! 私の、特注の魔導具が!」


「殿下。……まだ、何か喋りたいことがおありかしら?」


ナターシャは、一歩、また一歩とヴィンセントに詰め寄った。
その手には、いつの間にかセバスから手渡された、冷え切ったプリンの空き瓶が握られている。


「……しゃ、喋りません。もう、一言も喋りません」


「よろしい。……では、今すぐ、その足で王都へお帰りなさい。……もし、明日また私の別荘の敷居を、あるいはこの地の空気を一ミリでも汚したら。……私、本気を出しますわよ」


「ほ、本気……? ナターシャが、仕事をするのか……?」


「ええ。王都のすべての銀行に働きかけて、王室の口座を一晩で凍結させ、貴方の寝室のベッドをすべて板きれ一枚に取り替えるくらいの『効率的な嫌がらせ』を、寝る間を惜しんで遂行しますわ」


ヴィンセントの顔から、一気に血の気が引いた。
ナターシャが「本気で動く」ことが、物理的な暴力よりも恐ろしいことを、彼は身をもって知っている。


「……わ、分かった。帰る。今すぐ帰るよ……!」


ヴィンセントは、護衛の兵士たちを置いて、脱兎のごとく街道を走り去っていった。
もはや、王子としての威厳など微塵も残っていない。


「……ふぅ。……疲れたわ。三日分の体力を、たった五分で消費してしまった……」


静寂が戻った庭で、ナターシャはその場にへたり込みそうになった。
しかし、それを支えたのはミハイルの逞しい腕だった。


「ナターシャ、見事だった! 君のあの『本気の宣言』、これこそが真の抑止力だ! ……さあ、冷える。寝室まで私が運ぼう」


「……お願いします。……あ、セバス。今の騒動のせいで、私の心拍数が上がって寝つきが悪くなりそうだわ。……最高級のホットミルクに、ブランデーを少し垂らして持ってきてちょうだい。……それと、耳栓。世界で一番柔らかいやつを」


「畏まりました、お嬢様。究極の静寂をご用意いたします」


ナターシャは、ミハイルに抱き抱えられたまま、深い溜息をついた。
安眠を妨げる敵は排除した。
しかし、自ら動いたことによる疲労は、彼女の心に深い傷(面倒くささ)を残していた。


(……二度と、二度と動きたくないわ……明日から一週間は、呼吸以外の動作を休止するわよ……)


ナターシャの執念は、またしても勝利を収めた。
だが、彼女の「平穏な生活」の裏側で、ミハイルが「ナターシャ様を怒らせると世界が滅ぶ」という新しい軍事教本を書き始めていたことを、彼女はまだ知らなかった。
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