終わりから始まる恋――冷徹公爵に婚約破棄された令嬢は、愛されすぎて逃げられません!

nacat

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第12話 かつての婚約者の影

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アシュタールの空は今日も晴れていた。  
港に並ぶ帆船の列、その風景はリディアにとってもはや日常だった。  
出航の鐘が鳴り、船乗りたちのかけ声が響く。その音を聞くだけで、胸の奥が少し温かくなる。  
この街で過ごす一年は、彼女にとって生まれ変わるような時間だった。  

商会は順調に拡大し、いくつもの契約を結び、今や王国を含む四カ国との共同貿易を担っている。  
かつての「伯爵令嬢」としての肩書きなど、人々の記憶からはすっかり消えていた。  
彼女は誰の後ろにも隠れず、誰にも依存しない。  
リディア・バートンという一人の商人として、社会に名を刻みつつあった。  

昼過ぎ、事務所に戻るとアルバートが机の上に一通の封書を置いていた。  
「王都の大使を名乗る使者からです。返答はあなたに任せるとのことでした。」  
「大使?王都の?」  
リディアは眉をひそめる。めったにないことだった。  
封蝋には金色の紋章が押されている。グランディール家と王国の象徴――二つの紋が並んでいた。  

「……開けましょう。」  
静かに封を切ると、上質な羊皮紙に丁寧な筆致が並んでいる。  

“親愛なるリディア・バートン殿へ。  
王国商務庁の名において、次期貿易連合会議への出席をお願い申し上げます。  
国際港設立に関して、あなたの意見を伺いたく――”  

読み進めていくうちに、リディアの顔色が少しずつ変わった。  
文末に記された名。王国代表として連名で署名しているのはレオンハルト・グランディール公爵その人だった。  

「……なるほど。王国が本格的に国外貿易に参入する気なのね。」  
その声は穏やかだったが、握る手にわずかな力が入っていた。  

アルバートが心配そうに尋ねる。  
「会議、出席されますか?」  
「もちろん。バルド商会の名で正式に参加するわ。彼がそこにいるとしても関係ない。仕事は仕事よ。」  
彼女はそう言い切ったが、その後の微かな沈黙にアルバートは気づいていた。  

*  

会議は一週間後、国境沿いの中立都市ルディアンで開かれることになった。  
大理石造りの会議塔に、各国の旗が翻る。各地の商人代表たちが集い、活気と緊張に満ちた空気が漂っていた。  

リディアは紺のドレスに身を包み、髪をまとめて席についた。  
会場がざわめいた。王国の出身女性が、異国の代表として参加するなど前例がなかったからだ。  
けれど彼女は堂々としていた。王都の社交界で浴びた数百の視線よりも、この場の注目など恐れるに値しない。  

「バルド商会アシュタール支店長、リディア・バートン殿。」  
司会の声が響き、彼女は立ち上がり軽く一礼する。  
海外商人たちから評価するような声が漏れた。  
堂々とした態度と知的な雰囲気が、人々の目を引いていた。  

やがて扉が開き、王国の代表団が入室してくる。  
その先頭に立つ男性を見た瞬間、会場の空気が変わった。  
誰よりも背が高く、整った姿勢、鋭くも理知的な眼差し――レオンハルト・グランディール。  

彼と目が合った。  
一瞬の静寂。  
互いに驚きも戸惑いも見せず、淡々と形式的な礼を交わす。  
それだけで、周囲の人々には何も伝わらない。  
だが、二人の間には確かにかつての記憶が過ぎった。  

「まさか、あなたがここにいるとは。」  
「私も驚きましたわ。国際会議の場で再会するなんて。」  

休憩時間、談話室で二人は静かに言葉を交わした。  
他の商人たちが慌ただしく出入りする中、二人の間だけ時間が止まったかのようだった。  

レオンハルトがゆっくりと口を開く。  
「王国は、貴女の築いたこの貿易網を高く評価している。  
リディア、貴女の才は誰もが認めている。――私は、それを誇りに思う。」  
「誇り?」  
「ええ。たとえ私と関わりがなくとも、貴女が同じ国に生まれたことを。」  

リディアは短く息を吐いた。  
「過去の話を美化するのはおやめなさい。あなたと私はもう他人。あの夜の婚約破棄の記憶を消すことはできないわ。」  
「消すつもりはない。忘れたくもない。」  
まっすぐに彼女を見る目に、迷いはなかった。  

「リディア、君は昔よりもずっと強くなった。誰にも頼らず、誰にも縛られず……けれど、その強さが君を孤独にしていないか?」  
「孤独?いいえ、私には仲間がいます。支える人も、支えたい人も。」  
「……そうか。」  
わずかな沈黙ののち、レオンハルトは苦笑した。  
「少し安心したよ。」  

リディアも肩の力を抜く。  
不思議と、心は乱れなかった。  
彼に怒りをぶつけるでもなく、憎む気持ちもない。  
ただ、遠い昔の夢を見ていたような、穏やかな感情だけが残っていた。  

「君が選んだ道を尊敬している。……けれど、私の中では、あのときの君をずっと大切にしてきた。」  
「それは幻よ、レオンハルト様。あなたの心に残っている少女は、もうこの世にいないの。」  
「それでも、姿を変えても同じ魂がここにある。」  
その言葉に、リディアは一瞬だけ視線を逸らした。  

もう過去を拒むために言葉を揃える必要はなかった。  
代わりに彼女は穏やかに笑った。  
「あなたの優しさは、もう少し早ければ救いになったかもしれませんね。」  
レオンハルトも笑みを返す。  
「遅すぎた男の常套句だ。」  

*  

会議は夜まで続き、結果としてリディアの提案した新しい航路が正式に採用されることとなった。  
各国代表が歓声を上げる中、リディアとレオンハルトは最後の握手を交わした。  
その手の温もりは短く、けれど確かな現実だった。  

「リディア・バートン――君の未来に幸あれ。」  
「ええ。あなたにも。」  

別れ際、彼の背中が去っていくのを見届けながら、リディアは立ちつくした。  
胸の奥にあるのは未練でも悲しみでもなく、静かな誇り。  
彼を許した自分に気づいた瞬間、涙がひとしずくだけ頬を伝った。  

「これで本当に、終わったのね。」  

夜風がカーテンを揺らし、遠くの海が月光を映して光っていた。  
リディアはその光の中で、誰にも見せない笑顔をひとつ零した。  

続く
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