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第14話 「久しいな」その一言に心が波立つ
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ロゼッタの街での会談が終わり、日が沈みかけていた。
夕暮れの光が石畳を照らし、潮の香が微かに鼻をかすめる。リディアは会場を出て、馬車の到着を待ちながら港の方へ視線を向けた。
どこか胸の内が静かにざわめく。再会したレオンハルトの言葉が、心の奥に残ったまま消えない。
――もし道が交わるときが来たら、そのときは隣で歩かせてほしい。
風に流れるその記憶を追い払いながらも、彼女の指先は無意識に胸の前で絡まった。
過去を乗り越えた。そう思っていたはずなのに、たった一言で再び揺らいでしまう。
「厄介ね……」
呟いた声は潮音に溶けて、消えた。
アルバートが少し離れた場所から呼びかける。
「支店長、宿の手配が完了しました。明朝には次の街へ発ちます。」
「ありがとう。今日はもう休みましょう。」
リディアは笑顔を作って答えた。けれど自分の声が僅かに硬いことにも気づいていた。
宿に戻った夜、彼女は机の上の燭台に灯をつけ、報告書を整理していた。
ペンの先が止まるたびに、ふと目の奥にレオンハルトの姿が浮かぶ。あの穏やかな笑み、あの頃には見せなかった柔らかさ。
「あの人も変わったのね……」
嫌味ではない、心からの言葉だった。彼が変わったことを、彼女の心は知っていた。
だが同時に、自分の中にも確かに残る“なにか”に気づいてしまう。
それは未練ではない。けれど否定しきれない懐かしさ――春先の風のように優しく、しかし胸を締めつける。
リディアは深く息を吐き、ペンを置いた。
「もう夜更けね、寝ましょう。」
机の明かりを消すと、窓の外に星が瞬いていた。
暗闇に落ちる寸前、遠くで聞こえる波音が、まるで誰かの囁き声のようで、彼女は小さく首を振った。
*
翌朝。
ロゼッタからアシュタールへ戻る道の途中、リディアは海沿いの崖道を進んでいた。
道の先には再び彼と会う予定がある。港の契約の最終確認――ただの仕事。
けれど心の奥では、昨日の再会がまだ小さく波打っていた。
到着した港では、すでにレオンハルトが部下たちと視察を行っていた。
群青の海を背に立つその姿は、威厳というよりも、今では穏やかな落ち着きを纏っている。
彼がこちらに気づき、軽く頭を下げた。
「久しいな、リディア。」
その一言が、胸を強く打った。
たったそれだけの言葉なのに、まるであの婚約時代に戻されたような錯覚に陥る。
彼の声は昔より少し低くなり、そしてどこか優しげだった。
「またご一緒するとは思いませんでしたわ。」
「奇遇だな。いや……もしかしたら、必然だったのかもしれない。」
「そんなこと、運命めいた言い方はおやめください。私たちにはもう繋がりなどありません。」
「繋がりが消えても、過去は消えない。君が努力で築いたものを見ればわかる。俺の知らない君が、そこにいる。」
リディアは少しだけ目を伏せた。
「知られても困ります。今の私は、あなたが見た“令嬢”とは違いますから。」
「違うことが、どんなに嬉しいか。君がようやく君自身の形で笑っているのを見られるのだから。」
思わず心が揺れた。
彼は、かつてと同じように甘い言葉を紡ぐのではない。
今の彼は、嘘をつかない。たとえ痛みを伴っても、真実だけを語る。
だからこそ怖い。この言葉を信じたら、過去の“傷”まで優しく包み込まれてしまいそうで。
沈黙の海風が二人の間を渡った。
リディアは深呼吸をし、わざと軽い口調で言う。
「お世辞がうまくなりましたね、公爵閣下。」
「お世辞ではない。本心だ。」
彼女は目を逸らした。「では、話を仕事に戻しましょう。港の査定結果をお見せします。」
話題を変えると、途端にいつもの冷静さを取り戻す。
だがそれを見て、レオンハルトは少しだけ笑った。
「変わらないな、君は。強い時ほど、素直にならない。」
「……仕事で感情を出すほど、私は未熟ではありません。」
「そうだな。君はいつだって、誇り高かった。そこも、俺が――」
言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
リディアがわずかに表情を曇らせたのを見て、続けるのをためらったのだ。
その気遣いが、かえって切なかった。
かつて彼の言葉に傷ついたのに、今は彼の沈黙が胸に痛い。
「……すみません。忘れてください。」
「いいえ。あなたが何を言いかけたか、何となくわかります。」
そう言って、リディアは柔らかく微笑んだ。
「でも今の私は、そんな言葉よりも数字と契約書を信じます。愛ではなく、努力を誇りに思う人間でいたいから。」
「……なるほど。」
レオンハルトは短く息を吐き、そして微笑んだ。
「やはり、君は誰よりも格好いいよ。」
「褒めても何も出ませんわ。」
二人の間に、小さく笑いが生まれる。
海風がそれをさらって広がった。
*
その日の午後、視察は滞りなく終わり、正式契約の合意が結ばれた。
リディアとレオンハルト、分厚い書類にそれぞれの名を記す。
署名の瞬間、二人の視線が交わった。
仕事という名の約束だが、そこに込められた意味は重く――どこか温かかった。
「これで終わりですね。」
「いや、始まりだ。君の航路と王国の道が、今初めて一つになった。」
レオンハルトが差し出した手を、リディアは少し迷ってから握る。
その瞬間、潮の香りの中で、彼女の心が静かに波打った。
別れ際、彼は振り返りもせず言った。
「リディア、俺は今度こそ信じている。世界が君を裏切っても、俺だけは信じ続ける。」
残された彼女は言葉をなくし、崖の上から広がる海を見つめた。
――信じる。
一度は失った言葉。それをあの人が取り戻そうとしている。
「……ずるい人。」
小さく呟いた声が、夕風にさらわれて消えていった。
続く
夕暮れの光が石畳を照らし、潮の香が微かに鼻をかすめる。リディアは会場を出て、馬車の到着を待ちながら港の方へ視線を向けた。
どこか胸の内が静かにざわめく。再会したレオンハルトの言葉が、心の奥に残ったまま消えない。
――もし道が交わるときが来たら、そのときは隣で歩かせてほしい。
風に流れるその記憶を追い払いながらも、彼女の指先は無意識に胸の前で絡まった。
過去を乗り越えた。そう思っていたはずなのに、たった一言で再び揺らいでしまう。
「厄介ね……」
呟いた声は潮音に溶けて、消えた。
アルバートが少し離れた場所から呼びかける。
「支店長、宿の手配が完了しました。明朝には次の街へ発ちます。」
「ありがとう。今日はもう休みましょう。」
リディアは笑顔を作って答えた。けれど自分の声が僅かに硬いことにも気づいていた。
宿に戻った夜、彼女は机の上の燭台に灯をつけ、報告書を整理していた。
ペンの先が止まるたびに、ふと目の奥にレオンハルトの姿が浮かぶ。あの穏やかな笑み、あの頃には見せなかった柔らかさ。
「あの人も変わったのね……」
嫌味ではない、心からの言葉だった。彼が変わったことを、彼女の心は知っていた。
だが同時に、自分の中にも確かに残る“なにか”に気づいてしまう。
それは未練ではない。けれど否定しきれない懐かしさ――春先の風のように優しく、しかし胸を締めつける。
リディアは深く息を吐き、ペンを置いた。
「もう夜更けね、寝ましょう。」
机の明かりを消すと、窓の外に星が瞬いていた。
暗闇に落ちる寸前、遠くで聞こえる波音が、まるで誰かの囁き声のようで、彼女は小さく首を振った。
*
翌朝。
ロゼッタからアシュタールへ戻る道の途中、リディアは海沿いの崖道を進んでいた。
道の先には再び彼と会う予定がある。港の契約の最終確認――ただの仕事。
けれど心の奥では、昨日の再会がまだ小さく波打っていた。
到着した港では、すでにレオンハルトが部下たちと視察を行っていた。
群青の海を背に立つその姿は、威厳というよりも、今では穏やかな落ち着きを纏っている。
彼がこちらに気づき、軽く頭を下げた。
「久しいな、リディア。」
その一言が、胸を強く打った。
たったそれだけの言葉なのに、まるであの婚約時代に戻されたような錯覚に陥る。
彼の声は昔より少し低くなり、そしてどこか優しげだった。
「またご一緒するとは思いませんでしたわ。」
「奇遇だな。いや……もしかしたら、必然だったのかもしれない。」
「そんなこと、運命めいた言い方はおやめください。私たちにはもう繋がりなどありません。」
「繋がりが消えても、過去は消えない。君が努力で築いたものを見ればわかる。俺の知らない君が、そこにいる。」
リディアは少しだけ目を伏せた。
「知られても困ります。今の私は、あなたが見た“令嬢”とは違いますから。」
「違うことが、どんなに嬉しいか。君がようやく君自身の形で笑っているのを見られるのだから。」
思わず心が揺れた。
彼は、かつてと同じように甘い言葉を紡ぐのではない。
今の彼は、嘘をつかない。たとえ痛みを伴っても、真実だけを語る。
だからこそ怖い。この言葉を信じたら、過去の“傷”まで優しく包み込まれてしまいそうで。
沈黙の海風が二人の間を渡った。
リディアは深呼吸をし、わざと軽い口調で言う。
「お世辞がうまくなりましたね、公爵閣下。」
「お世辞ではない。本心だ。」
彼女は目を逸らした。「では、話を仕事に戻しましょう。港の査定結果をお見せします。」
話題を変えると、途端にいつもの冷静さを取り戻す。
だがそれを見て、レオンハルトは少しだけ笑った。
「変わらないな、君は。強い時ほど、素直にならない。」
「……仕事で感情を出すほど、私は未熟ではありません。」
「そうだな。君はいつだって、誇り高かった。そこも、俺が――」
言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。
リディアがわずかに表情を曇らせたのを見て、続けるのをためらったのだ。
その気遣いが、かえって切なかった。
かつて彼の言葉に傷ついたのに、今は彼の沈黙が胸に痛い。
「……すみません。忘れてください。」
「いいえ。あなたが何を言いかけたか、何となくわかります。」
そう言って、リディアは柔らかく微笑んだ。
「でも今の私は、そんな言葉よりも数字と契約書を信じます。愛ではなく、努力を誇りに思う人間でいたいから。」
「……なるほど。」
レオンハルトは短く息を吐き、そして微笑んだ。
「やはり、君は誰よりも格好いいよ。」
「褒めても何も出ませんわ。」
二人の間に、小さく笑いが生まれる。
海風がそれをさらって広がった。
*
その日の午後、視察は滞りなく終わり、正式契約の合意が結ばれた。
リディアとレオンハルト、分厚い書類にそれぞれの名を記す。
署名の瞬間、二人の視線が交わった。
仕事という名の約束だが、そこに込められた意味は重く――どこか温かかった。
「これで終わりですね。」
「いや、始まりだ。君の航路と王国の道が、今初めて一つになった。」
レオンハルトが差し出した手を、リディアは少し迷ってから握る。
その瞬間、潮の香りの中で、彼女の心が静かに波打った。
別れ際、彼は振り返りもせず言った。
「リディア、俺は今度こそ信じている。世界が君を裏切っても、俺だけは信じ続ける。」
残された彼女は言葉をなくし、崖の上から広がる海を見つめた。
――信じる。
一度は失った言葉。それをあの人が取り戻そうとしている。
「……ずるい人。」
小さく呟いた声が、夕風にさらわれて消えていった。
続く
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