婚約破棄された令嬢はもう振り向かない〜見下してきた王太子が涙で許しを乞う時、私はもう別の愛を選んでいた〜

nacat

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第2話 嘲笑された公爵令嬢

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公爵領に着いたのは、王都を出て三日目の夕刻だった。  
春の光が傾く頃、クラウディアを乗せた馬車は白樺並木の道を抜け、懐かしい館の庭へと滑り込んだ。長旅の疲れがあったはずなのに、彼女は扉が開いた瞬間、ふっと安堵の息を漏らした。

「おかえりなさいませ、お嬢様!」

広い中庭では、召使たちが一斉に頭を下げる。マーサが手を貸し、クラウディアは静かに馬車から降りた。  
どこか懐かしい甘い花の香りが風に混ざる。領地の庭園でしか咲かない白紫のスノーブロッサム。幼いころから彼女の一番好きな花だった。

「……ただいま、みんな。」

誰にともなく呟いたその言葉に、涙がにじむ。けれどもすぐに笑顔でそれをかき消した。  
もう過去には縛られない――そう言い聞かせながら。

館の奥で、父であるエルンスト公爵が待っていた。  
端整な顔立ちに厳格な眉を持ち、王国の宰相として仕える男――だが今は、ひとりの父親として娘を見つめている。

「クラウディア、よく戻ったな。」

「ご無沙汰しております、お父様。ご心配をおかけしました。」

「すべて聞いた。……あの若造め、王太子だからといって許されることではない。」

低く唸るような声には、怒りが滲んでいた。クラウディアはそっと父の手を握り、首を振る。

「もういいのです。婚約のことは、終わったことですもの。」

「だが、家としての立場もある。国王陛下には正式に抗議を――」

「それも不要ですわ。」

きっぱりと言い切ったその声音に、公爵は思わず言葉を失う。  
しばらく沈黙のあと、ようやくため息交じりに笑った。

「……おまえも強くなったな。」

「そう見えても、内心は少しだけ泣き虫ですのよ。」

クラウディアが微笑むと、公爵の顔がやわらぐ。彼女の成長を感じ取ったのか、もうそれ以上は何も言わなかった。

***

翌朝。クラウディアは早くから庭に出ていた。陽の光の中、マーサと一緒に植え込みの手入れをしている。  
手に持った白い手袋は土で少し汚れていたが、彼女はそれを気にしなかった。髪をリボンでまとめ、頬に風を受けるその姿は、どこか解放感にあふれている。

「お嬢様が庭仕事をなさるなんて、めずらしいですねえ。」

マーサが笑いながら言う。クラウディアは軽く肩をすくめた。

「こうして土を触ると、心が落ち着くの。宮廷ではいつも人の噂ばかりで、空気も重たくてね。」

「本当に……。殿下に仕えていた頃のお嬢様は、いつも気を張っておられました。」

「そうね。誰も信用できなかった。けれど、ここでは違う。」

小鳥のさえずりが響き、木洩れ日が柔らかに揺れる。クラウディアは花々の中にしゃがみこみ、一輪のスノーブロッサムを指でなぞった。  
その花びらの冷たさが、なぜか心地よかった。

しかし、穏やかな時間は長く続かなかった。昼過ぎ、王都から使者がやってきたのだ。  
玄関ホールに呼ばれると、文官の若い男が頭を下げて封書を差し出す。

「王太子殿下からの伝達文にございます。」

クラウディアは眉をひそめ、丁寧に封を切った。  
そこに記されていたのは――

『クラウディア・エルンスト公爵令嬢の王宮侍女による不敬行為について、改めて調査の命を下す』

「……不敬行為?」

マーサが青ざめる。クラウディアは唇を強く噛んだ。  
つまり、婚約破棄だけでなく、名誉まで奪おうとしているのだ。

「殿下のお側の令嬢――セリーヌ様の侍女が証言をなさったようです。“クラウディア様が侍女を平手打ちにした”と。」

「そんなこと、していません!」

マーサが声を荒げる。だが文官は視線を逸らし、決まりきった口調で告げた。

「私はただの伝令です、奥方。あとは宮廷の方々にて……」

その日の夕刻、噂は王都に広まった。  
“傲慢な公爵令嬢が、嫉妬から王太子の新しい恋人をいじめた”――という物語が出来上がり、社交界の話題をさらった。

それを聞いた王太子ハロルドは、酒席で悠然と笑ったという。  
「まこと不憫な女よ。妃の器でないことを自ら証明した」と。  
人々はそれに追従して拍手した。誰も彼女を弁護しようとはしなかった。

***

翌朝。王都の街角に貼られた新聞の号外に、クラウディアの名が踊っていた。  
「王太子を欺いた公爵令嬢」  
それが見出しだった。  
彼女はその報を領地の書庫で読んだ。ページをめくる手は微かに震えていたが、表情は不思議なほど静かだった。

「これで本当に、後には戻れないのね。」

マーサが言葉を失い、ただそばで立ち尽くす。クラウディアは新聞を畳み、机上の燭台の炎で静かに燃やした。  
燃え上がる紙をじっと見つめながら、かすかに呟く。

「いいの。殿下が私を嘲るなら、それでいいわ。……でも、その笑いがいつまで続くかしら。」

その口元には、ほんのわずかな翳りを帯びた笑みが浮かんでいた。  
怒りではない。哀しみでもない。  
それは、真実を知る者だけが持つ冷たい覚悟だった。

***

日が暮れるころ、クラウディアは馬で領内を回っていた。  
城から離れた丘の上に立つと、眼下には黄金色の麦畑と、遠くに白銀の山脈が見える。  
風が頬を撫で、心の奥にたまった痛みを少しずつ押し流していくようだった。

そのとき、背後から馬の蹄の音が聞こえた。  
振り向くと、一人の騎士が馬を止め、兜を取る。銀髪が陽光に輝いた。

「……あの時、王城で見たお方、ですね。」

「あなたは……確か、近衛騎士のヒュー殿?」

「はい。突然お邪魔して申し訳ありません。殿下の命ではなく、私の意思で参りました。」

クラウディアは驚き、警戒するように眉を寄せた。  
するとヒューは真っ直ぐに馬から降り、膝をついて礼を取った。

「殿下の周囲で起きている“噂”の件、真実を確かめたく参上しました。あの夜、私は殿下の側にいた。令嬢が侍女を打ったという話には、何の証拠もございません。」

クラウディアは息を呑む。まさか騎士の立場でここまで言うとは。

「なぜ、そんな危ない橋を渡るの?」

ヒューは静かに答えた。

「貴女が嘘をつく方だとは思えません。……それだけです。」

短く、真摯な言葉。その眼差しに、偽りはなかった。  
クラウディアは少しだけ視線を伏せ、そっと微笑んだ。

「ありがとう。でも、あなたまで巻き込みたくはないの。」

「構いません。正しいことのためならば、私は剣を取ります。」

風が二人の間を抜けた。  
春の柔らかい光の中、クラウディアは何かが少しずつ変わっていくのを感じていた。  
嘲笑と屈辱の果てに――小さな希望の光が、確かに芽生えていた。

(第2話 終)
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