冷遇された令嬢は婚約破棄されましたが、最強王子に一途に溺愛されています

nacat

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第6話 「君は、俺のものだ」

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雪解けの気配が近い早春の朝だった。  
冷たい風が森を抜け、遠くの山々の稜線が薄靄に沈む。川を越え、丘を越えながら、リシェルとアーロンは北西の小国境近くまで進んでいた。  
追手の影はもう見えない。だが、それでもアーロンは決して警戒を解かなかった。  

「殿下、少し休まれませんか」  
小さな谷あいで馬を止めたリシェルが声をかける。  
アーロンは振り返り、短く頷いた。「いや、もう少し先に宿場がある。そこなら安全だ」  
「……では、少しだけ歩きましょう。馬も疲れてしまいます」  
リシェルの穏やかな声に、アーロンはようやく表情を和らげた。  
「そうだな。君の言う通りだ」  

二人は馬を引きながら、なだらかな丘をゆっくりと進む。  
草原から顔を覗かせる早咲きの花が風に揺れているのを、リシェルは指先でそっと撫でた。  
雪の匂いの中に、ほんのわずかな春の香りが混ざっている。  
それはまるで――新しい人生の始まりのようだった。  

「殿下、あの……」  
「アーロンと呼べ、と言ったはずだ」  
「……アーロン。わたくし、本当にこれで良かったのか、少し迷っているのです」  
リシェルの声は小さく震えていた。  
「王都を捨て、家族を捨て、わたくしはあなたにすべてを委ねてしまった。それが正しいことなのか、時々分からなくなるのです」  

アーロンは足を止め、彼女の前に立った。  
「正しいかどうかなんて、誰にも分からないさ。でも、俺は後悔していない。君を救ったことも、こうして共にいることも」  
「けれど、あなたの立場が――」  
「構わない」  
彼の声が低く響く。「俺は王族である前に、一人の人間だ。誰かを守りたいと思うのは、立場とは関係ない」  

その言葉に、リシェルは胸の奥が温かくなるのを感じた。  
沈黙が流れ、鳥の声が遠くで響く。  
アーロンがゆっくりと手を伸ばし、リシェルの頬に触れた。  
指先がひんやりとして、けれど優しく包み込むようだった。  

「……君は強い。なのに、自分のことを弱いと思っている」  
「強くなんかありません。ただ、泣くことで負けた気がして、泣けなかっただけです」  
「そんな自分を責める必要はない」  
アーロンの手が頬の流れをなぞる。  
リシェルはその手を掴んで、そっと言った。  
「あなたがいなければ、わたくしはもう、どこかで倒れていたと思います。……でも、支えられてばかりではいけませんね」  
「そうやって気負うな。寄りかかってもいい。俺はそれを望んでいる」  

彼の言葉のあたたかさに、リシェルはようやく微笑んだ。  
「アーロン……あなたは本当に優しい方ですね」  
「優しい? いや、そうでもないさ」  
不意に低い声でそう言うと、アーロンは一歩彼女に近づいた。  
「今の俺は、優しさなど持ち合わせていない。君を誰の手にも渡さないよう、必死になっているだけだ」  

途端に空気が変わる。  
風の音さえ止まったような静けさの中、アーロンの視線が鋭くなった。  
その瞳の奥にある独占の色――それは理性と情熱の境のように危うい光を帯びていた。  

「……アーロン」  
「君を守るためだ。誰にも、もう君を傷つけさせたくない。誰が何を言おうと、誰が君を非難しようと、俺が前に立つ」  
彼の指先が頬から滑り、顎をそっと持ち上げる。  
「リシェル。君は、俺のものだ」  

息が止まる。  
その言葉が届いた瞬間、心臓が痛いほど高鳴った。  
リシェルは目を逸らすこともできず、ただその金の瞳を見つめ返した。  
そこには嘘がひとつもなかった。  
まっすぐで、危ういほど率直な想い。  
熱の波が全身を駆け抜ける。  

「……殿下、それは……あまりにも――」  
「勝手だろう?」  
アーロンが少し笑った。「だが、それでも俺は譲れない。王座よりも君が大事だ」  
「そんなことを言えば……本当に背けなくなります」  
「それでいい。逃れようとは思っていない」  

リシェルの喉が震え、視界が滲む。  
それが涙だと気づいた瞬間、自分でも驚くほど素直に泣いていた。  
長い間、押し殺してきた感情が、ひとつひとつ壊れていく。  
アーロンはその涙を親指で拭い、そっと抱き寄せた。  
彼の胸から伝わる鼓動が、自分の鼓動と重なっていく。  

「泣いていい。もう我慢するな」  
「……っ、こんなにも、誰かに優しくされたのは、初めてです」  
「なら、その涙は俺に預けろ」  
囁きが耳元で溶ける。リシェルの肩が小さく震え、アーロンの胸に顔を埋めた。  

どれほどの時間が経ったのか分からない。  
やがて彼女は静かに息を整え、離れた。  
頬はまだ赤く、瞳は涙に濡れていた。  
「……ごめんなさい。見苦しい姿を」  
「見苦しい?」アーロンは首を振る。「これが人間だ。君がようやく、心を解いた証だ」  

リシェルは少し笑った。  
「あなたといると、自分が少しだけ強くなれる気がします」  
「それは君がもともと強いからだ。俺はただ、君がそのことを思い出す手伝いをしているだけだ」  

二人は再び歩き出した。  
西日が差し込み、丘の上に長い影が伸びている。  
遠くに、宿場の屋根が見え始めた。  
アーロンは歩調を緩め、静かに言った。  
「今夜はそこで休もう。警戒は続けるが、少しは安らげる夜になるだろう」  
「ええ、ありがとうございます」  

宿場へ入るころには、空が薔薇色に染まっていた。  
夕焼けの中、リシェルはふと立ち止まって空を見上げた。  
オレンジ色の雲の切れ間から、淡く一番星が瞬いている。  
「綺麗……」と呟くと、アーロンもその隣で空を見上げた。  
「君に似てる」  
「……またそんなことを」  
「事実だ」  
その声音があまりに穏やかで、リシェルの頬はほんのり赤く染まった。  

二人は宿に入ると、互いに無言で荷を解いた。  
扉の向こうから、夜のざわめきが細く届く。  
アーロンは暖炉に火を点け、振り返って微笑んだ。  
「眠る前に言っておこう。明日からは次の段階に入る。俺は王都に戻り、真実を暴く準備を進める」  
「わたくしは?」  
「ここで待っていてくれ。セルディン卿に護衛を付ける」  
「でも、それでは……」  
「危険な場所へ君を連れて行くわけにはいかない」  

リシェルは唇を噛んだ。  
「アーロン、あなたが危険に晒されるなら、わたくしも見届けます」  
「駄目だ」  
きっぱりと言い切る声に、リシェルは一瞬押し黙った。  
だがその後で、小さく首を振る。  
「いいえ。わたくしはもう逃げません。あの王宮で踏みにじられたものに、わたくし自身の手で決着をつけたいのです」  

アーロンは驚いたように目を瞠り、やがてかすかに微笑んだ。  
「……やはり、君は強い」  
「あなたが教えてくれたのです」  

暖炉の火が静かに揺れる。  
二人の影が壁に重なり、ゆっくりとひとつになっていく。  
その炎の輝きの中で、未来へと向かう決意が確かに結ばれた。  

続く
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