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閑話
閑話 「巨狼と女 下」
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女は固まっていた。
何しろ寝て起きたら目の前に見たこともない大きさの巨狼がそこにいたのだから。
巨狼は唸るでもなく、牙をむくでもなく、ただそこに寝そべっていた。
巨狼は女が目を覚ましたことに気が付くとゆったりとした動作で首を上げ、その紅い瞳で女を見つめるが、その様子に女は不思議とあまり恐怖を感じることはなく、何故か落ち着いている自分に内心首をかしげた。
巨狼を見つめ返しながら女はこの樹洞に思いを馳せる。
何故こんな状況になっているのか? 考えると、すぐに思い当った。ここがこの巨狼の巣だったのではないかと。
「ああ、ここはあんたの巣だったのかい? それは悪いことしたねえ」
巨狼は女の言葉に反応せず、じっと女を観察しているようだった。
美しい獣だった。
白い毛皮は銀のように輝き、そこに一切の汚れもない。
しなやかそうな体躯はその強大な力を連想させるが、女が感じたのは雄大な山のような強い包容力だった。
紅い瞳は宝石のよう。女はその中に心と理性が宿っているのを感じ取り、だからこそ女はつい話しかけてしまったのだが、一向に反応しない巨狼の様子を受けて、女の中に少し焦りが生じる。
「……で、私はこのままあんたに食われちまうのかい?
ま、それもいいか。
アンタに見逃してもらっても、どうせこの森で野たれ死ぬだけだしね」
女はじっとりとした汗を背中に感じた。
そうであっては欲しくないと女は思う。しかし、そうであるかもしれなかった。
だから女は最悪の可能性を口にすることで自分を保とうとした。
「わふ!」
「っ!?」
突然、女の言葉に応えるように巨狼は吠えた。
それはその巨体には似つかわしくない、聞くものによっては可愛らしいものだったが、緊張しきっていた女には違った。ビクリとした拍子に深く被っていたフードは外れ、その美貌が露わになる。
茶色い髪はここまでの逃亡生活のせいで痛み汚れているが、ウェーブのかかった長い髪は胸まであり、女の雰囲気によくあっていた。
少し垂れ目気味の、髪と同じ色の瞳は疲れや緊張の色を強くしているものの、その流し目に心を奪われた男は数多く、目元の泣きぼくろも男の情欲を誘うことに一役買っていた。
その厚い唇には血が戻ったのか健康的な色を取り戻し、魅惑的な魅力を感じさせるものだった。
だが、ここにいるのは一匹の巨狼のみ。巨狼は女の見目などに興味はなかった。
ドサドサッ!
「ひっ」
巨狼は術を行使して、女の前に赤い実を積む。
どうあがいても勝てそうにない巨狼を前に、女からしてみれば突然降ってきた赤い実。両手で頭を覆い目を瞑り、その口から悲鳴がつい出てしまうのはしょうがないことだった。
衝撃も痛みも何もないことを感じて女が恐る恐る目を開けると、目の前には熟れた赤い実が山のように積まれていた。
「これ……え?」
赤い実からは芳醇な甘い香りが漂ってくる。
その香りを嗅ぎ、女の喉はゴクリと鳴った。
巨狼は女のそんな様子を見て、鼻先で赤い実の山を崩して女のほうに転がせる。
コロコロと転がってきた赤い実が手に当たり、その実を手に取った女は巨狼に尋ねた。
「食べて、いいのかい……?」
「わふ」
「じゃ、じゃあもらう、よ……?」
返事を返されたことに驚きつつ、女は手に取った赤い実を恐る恐る口に運ぶ。
一度だけ巨狼の目を見つめ、女は意を決して赤い実に齧りついた。
シャクッと小気味いい音と共に、女の口の中に赤い実の果肉と芳醇な香りが広がる。
女は甘くて少し酸っぱいその果肉を咀嚼して飲み込んだ。それは疲れ切った体の中に染み渡るように広がっていった。
それから女は夢中でその実を口にほおばった。
皮ごと齧りつき、実の中心にある種も全て食べた。
へただけになったそれを放り、次の実を手に取る。
目の前に巨狼がいるのすら忘れて。
「……ふう……」
手の平より少し小さい程の大きさの赤い実を3つほど完食し、女は漸く巨狼の存在を思い出した。
巨狼は女が一つ目の実を手にする前と同じ姿勢で女を見ている。
しかし、女が実を食べ終わったのがわかると、今度はこれを食えと言わんばかりに、巨狼はまだ生きたままの魚を赤い実と同じように女の目の前に落とした。そして同じように鼻先で女のほうに寄せる。
その意図は伝わったのだが、女は頬を引き攣らせて巨狼に応えた。
「……これも、食えってのかい?」
「わふ」
「いや、気持ちはありがたいんだけどね。……もう、お腹いっぱいさ。
それに、私は生きたまんまの魚をそのまま食べられないよ」
女の言葉を聞き、目に見えて落胆する様子の巨狼。「クゥーン……」という、またもその身に似つかわしくない情けない声を出すのを見て聞いて、慌てるのは女の方だった。
「あっ……、あんたの気持ちは嬉しいよ。ほんとさ!
だけど言った通り、生の魚は私には食べられないんだよ。
それに、この赤い実がおいしかったからね、これで私は満足さ!」
女は必死で主張した。
ただ、それが目の前の巨狼がやっぱり怖いからなのか、それとも子供のような目をする巨狼を傷つけまいとしたからなのか、それは女自身にもわからなかった。
「雪、全然解けないねえ」
巨狼が女の世話をし始めてから数週間が経った頃、女は樹洞の外を眺めて呟いた。
巨狼の腹にしてリラックスしている様子の女は、この数週間で随分と慣れたようだ。
女の言葉を受け、耳をピクリと動かして赤い目を向ける巨狼。
急にどうしたの? という巨狼の視線に気づいた女は言葉を続ける。
「いや、まだまだここから出られないなあ、って思ってね。
いつまでもここにいるわけにもいかないし、かといって私じゃここがどこだかもわからないしねえ……。
せめて亜人でも獣人のでもいいから、村でもあればいいんだけど。
この生活も悪くはないよ。アンタのおかげで食うものには困らないしね。
……ただ、やっぱりたとえ魔獣といえど、アンタじゃ用意できないもんもあるしさ、それに人恋しくもなるのさ」
命の危険はなく食べるものも心配ない。
確かにそれはそうだし獣ならばそれだけで十分だろうと思う。しかし女は獣ではないのだから、やはり色々なことで不便に感じることは多かった。
だから雪が止めば、雪がなくなったらここを出てどこか人里を探そうと女は考えていた。
追手のことは気になっていたが、この数週間で姿を見ることはなかった。諦めたのか、それとも自分と同じように遭難したのか、考えても当然答えは出ない。
「ん? どうしたんだい?」
巨狼の動きだす気配に気づき、腹を背に座っていた女はそれから身を離す。
立ち上がって樹洞の外へ出る巨狼。
女もそれに続いて樹洞の入口に手を添え、雪の中に進み出る巨狼を見つめた。
「わふ!」
「え? わ?」
不意に足元から持ち上げられる感覚を受ける女。
巨狼は一鳴きすると術を発動させたのだ。
それは巨狼が赤い実を取った時に使ったのと同様のものだった。
「え……? これ? え?」と、巨狼の結界に捕えられた女は、突然自分の周りに膜が出来たことに混乱する。女は透明な球状の結界に捕えられ、宙に浮いていた。
それを確認してから、巨狼は駆け出した。
女を捕えている結界は巨狼にピタリとついて離れず、神速ともいえる速度を保っている。
あまりの速さに女は目を回し、ギュッと目を閉じた。
身を切る風を感じることはないが上下左右に体が振られ、女は今まで味わったことのない感覚に恐怖した。
そしてふわっとした浮遊感の後、動きが穏やかになったのを感じて女は恐る恐る目をあけた。
「うわあ……!」
女は思わず結界の内側に手をあて、感嘆の声を発する。
目を開けた先にあったのは大きな巨狼の背中。
そして、どこまでも続く空だった。
何も遮るもののない青い空に筋状の白い雲が太陽の光を受けて白く輝いており、眼下にあるのは白に覆われた森。遥か遠くには険しい山々が白く連なっていた。
本来鳥などの翼を持つものにしか見ることのできない景色に女は心奪われた。
白い鳥が群れを成して、綺麗な編隊を組んで自分の足元を飛んでいた。
遠く木々の間には光を反射して煌めく湖が見えた。
雲が真横を過ぎ去った。
巨狼は空を駆ける。
景色は目まぐるしく変化していき、やがて遠くに小高い山の見える緑の森の上空まで来ると、巨狼は突如急転降下しはじめた。自然に落下するよりもさらに速く空を落ちる。
「え、わ、きゃああああああああ……!」
その体験したことのない急降下の中、女は悲鳴をあげながら意識を失うのだった。
がさがさと草をかき分ける音を耳にして、女は目を覚ます。
「……ここは?」
暖かな日差しを受けて、女は目を覚ます。
頭はボーっとしていて、そこがここ最近見慣れた雪の景色ではない、普通の森の中だということに女はすぐ気が付くことはなかった。
「あれ? 人間?」
子供の声が聞こえてきた。その方向に顔を向ける女。
見れば藪の中から何か子犬のような顔が覗いていた。
「ちょっと、またこんなところで何してるの!? って、人間?」
がさがさと続いて藪の中から顔を出したのは女の子。
二人の子供はクリクリっとした大きな瞳を女に向けている。
一人は犬のような外見のコボルト族と、少し詳しく観察しなければ見分けることが難しい、ホビットの子供だった。
「人間見るの、久しぶりだな!」
「えっと、お姉さん大丈夫ですか? どうしてこんなところに?」
藪から出て、無警戒に近づく子供達。
落ち着きのなさそうなコボルトの子とは違い、落ち着いて見えるホビットの子は女がここにいる理由を聞いてきた。
「ああ、……えっと、アンタ達には信じられないだろうけど」
女は深い森の中で巨狼に助けられ、そしてその巨狼によってここに連れられてきただろうということを子供たちに話した。あの素晴らしい景色を見た後体が浮き上がるのを体験して、そのあとの記憶がないことを。
狼が空を飛ぶなんて、自分でも荒唐無稽な話だと女は思った。
子供達は口を挟まずに聞いてくれたが、呆れただろうか。しかし子供達は意外なことを口にした。
「空を飛ぶ白い大きな狼?」
「それって、ラスじゃね?」
「……ああ、ラスかも」
「ラスしかいないよな」
「……知ってるのかい!?」
女は声をあげる。子供達はその様子に少し驚きながらも巨狼のことを女に話した。
「うん、この辺りの人はみんな知ってるよ」
「たまに歩いてるの見るし」
「うん。昔は背中に乗せてもらったこともあったよね」
「あいつの腹で寝た時は気持ち良かったなー」
「毛もすごいツヤツヤしてて、気持ち良かったよね」
「だなー、久しぶりに会いたいな」
「この辺の森の主様だから、多分忙しいんだよ」
「そうなのかなー? でも、この姉ちゃんとは一緒にいたんだろ?」
「それは、このお姉さんが大変だったからでしょ」
「そっかー」
「またそのうち会えるよ」
子供達はいつの間にか二人で話し込んでしまっていることに気付かない。実に中が良さそうな二人だった。
クウウゥゥ……。
不意に女の腹から音が鳴る。
女は慌てて腹を押さえるが、その音は既に二人に伝わってしまっていた。
俯いて顔を赤くする女だったが、子供たちはそんなことはおかまいなしに聞いてくる。
「姉ちゃん、腹減ってるのか?」
「えっと、もし良かったら、村のほうまで来ませんか?」
「……村が、あるのかい?」
「こっからすぐにあるぞ!
今日は大人たちが魚とりに行ってるから、魚がいっぱいなはずなんだ!」
「魚、ねえ。
……生では食べないよね?」
「生では食べないぞ? 焼かないとおいしくないからな!」
「……お姉さんは、生で食べるんですか?」
「生はあまりおいしくないぞ?」
「いや、私も生では食べないけどね」
「そうですよね」
「おいしくないもんな!
というか、そんな話してたら俺もお腹すいてきた。
早く帰ろうぜ!」
「あ、ちょっと待ちなさいよ」
そう言って子供達は背を向けて歩いていく。
女は立ち上がり、ふと後ろを振り返った。
風が頬を撫で、女の髪が優しく揺れる。
「……ありがとね」
女は言葉を森の奥へと小さく投げかけた。
耳に遠く、あの巨狼の声が聞こえた気がした。
何しろ寝て起きたら目の前に見たこともない大きさの巨狼がそこにいたのだから。
巨狼は唸るでもなく、牙をむくでもなく、ただそこに寝そべっていた。
巨狼は女が目を覚ましたことに気が付くとゆったりとした動作で首を上げ、その紅い瞳で女を見つめるが、その様子に女は不思議とあまり恐怖を感じることはなく、何故か落ち着いている自分に内心首をかしげた。
巨狼を見つめ返しながら女はこの樹洞に思いを馳せる。
何故こんな状況になっているのか? 考えると、すぐに思い当った。ここがこの巨狼の巣だったのではないかと。
「ああ、ここはあんたの巣だったのかい? それは悪いことしたねえ」
巨狼は女の言葉に反応せず、じっと女を観察しているようだった。
美しい獣だった。
白い毛皮は銀のように輝き、そこに一切の汚れもない。
しなやかそうな体躯はその強大な力を連想させるが、女が感じたのは雄大な山のような強い包容力だった。
紅い瞳は宝石のよう。女はその中に心と理性が宿っているのを感じ取り、だからこそ女はつい話しかけてしまったのだが、一向に反応しない巨狼の様子を受けて、女の中に少し焦りが生じる。
「……で、私はこのままあんたに食われちまうのかい?
ま、それもいいか。
アンタに見逃してもらっても、どうせこの森で野たれ死ぬだけだしね」
女はじっとりとした汗を背中に感じた。
そうであっては欲しくないと女は思う。しかし、そうであるかもしれなかった。
だから女は最悪の可能性を口にすることで自分を保とうとした。
「わふ!」
「っ!?」
突然、女の言葉に応えるように巨狼は吠えた。
それはその巨体には似つかわしくない、聞くものによっては可愛らしいものだったが、緊張しきっていた女には違った。ビクリとした拍子に深く被っていたフードは外れ、その美貌が露わになる。
茶色い髪はここまでの逃亡生活のせいで痛み汚れているが、ウェーブのかかった長い髪は胸まであり、女の雰囲気によくあっていた。
少し垂れ目気味の、髪と同じ色の瞳は疲れや緊張の色を強くしているものの、その流し目に心を奪われた男は数多く、目元の泣きぼくろも男の情欲を誘うことに一役買っていた。
その厚い唇には血が戻ったのか健康的な色を取り戻し、魅惑的な魅力を感じさせるものだった。
だが、ここにいるのは一匹の巨狼のみ。巨狼は女の見目などに興味はなかった。
ドサドサッ!
「ひっ」
巨狼は術を行使して、女の前に赤い実を積む。
どうあがいても勝てそうにない巨狼を前に、女からしてみれば突然降ってきた赤い実。両手で頭を覆い目を瞑り、その口から悲鳴がつい出てしまうのはしょうがないことだった。
衝撃も痛みも何もないことを感じて女が恐る恐る目を開けると、目の前には熟れた赤い実が山のように積まれていた。
「これ……え?」
赤い実からは芳醇な甘い香りが漂ってくる。
その香りを嗅ぎ、女の喉はゴクリと鳴った。
巨狼は女のそんな様子を見て、鼻先で赤い実の山を崩して女のほうに転がせる。
コロコロと転がってきた赤い実が手に当たり、その実を手に取った女は巨狼に尋ねた。
「食べて、いいのかい……?」
「わふ」
「じゃ、じゃあもらう、よ……?」
返事を返されたことに驚きつつ、女は手に取った赤い実を恐る恐る口に運ぶ。
一度だけ巨狼の目を見つめ、女は意を決して赤い実に齧りついた。
シャクッと小気味いい音と共に、女の口の中に赤い実の果肉と芳醇な香りが広がる。
女は甘くて少し酸っぱいその果肉を咀嚼して飲み込んだ。それは疲れ切った体の中に染み渡るように広がっていった。
それから女は夢中でその実を口にほおばった。
皮ごと齧りつき、実の中心にある種も全て食べた。
へただけになったそれを放り、次の実を手に取る。
目の前に巨狼がいるのすら忘れて。
「……ふう……」
手の平より少し小さい程の大きさの赤い実を3つほど完食し、女は漸く巨狼の存在を思い出した。
巨狼は女が一つ目の実を手にする前と同じ姿勢で女を見ている。
しかし、女が実を食べ終わったのがわかると、今度はこれを食えと言わんばかりに、巨狼はまだ生きたままの魚を赤い実と同じように女の目の前に落とした。そして同じように鼻先で女のほうに寄せる。
その意図は伝わったのだが、女は頬を引き攣らせて巨狼に応えた。
「……これも、食えってのかい?」
「わふ」
「いや、気持ちはありがたいんだけどね。……もう、お腹いっぱいさ。
それに、私は生きたまんまの魚をそのまま食べられないよ」
女の言葉を聞き、目に見えて落胆する様子の巨狼。「クゥーン……」という、またもその身に似つかわしくない情けない声を出すのを見て聞いて、慌てるのは女の方だった。
「あっ……、あんたの気持ちは嬉しいよ。ほんとさ!
だけど言った通り、生の魚は私には食べられないんだよ。
それに、この赤い実がおいしかったからね、これで私は満足さ!」
女は必死で主張した。
ただ、それが目の前の巨狼がやっぱり怖いからなのか、それとも子供のような目をする巨狼を傷つけまいとしたからなのか、それは女自身にもわからなかった。
「雪、全然解けないねえ」
巨狼が女の世話をし始めてから数週間が経った頃、女は樹洞の外を眺めて呟いた。
巨狼の腹にしてリラックスしている様子の女は、この数週間で随分と慣れたようだ。
女の言葉を受け、耳をピクリと動かして赤い目を向ける巨狼。
急にどうしたの? という巨狼の視線に気づいた女は言葉を続ける。
「いや、まだまだここから出られないなあ、って思ってね。
いつまでもここにいるわけにもいかないし、かといって私じゃここがどこだかもわからないしねえ……。
せめて亜人でも獣人のでもいいから、村でもあればいいんだけど。
この生活も悪くはないよ。アンタのおかげで食うものには困らないしね。
……ただ、やっぱりたとえ魔獣といえど、アンタじゃ用意できないもんもあるしさ、それに人恋しくもなるのさ」
命の危険はなく食べるものも心配ない。
確かにそれはそうだし獣ならばそれだけで十分だろうと思う。しかし女は獣ではないのだから、やはり色々なことで不便に感じることは多かった。
だから雪が止めば、雪がなくなったらここを出てどこか人里を探そうと女は考えていた。
追手のことは気になっていたが、この数週間で姿を見ることはなかった。諦めたのか、それとも自分と同じように遭難したのか、考えても当然答えは出ない。
「ん? どうしたんだい?」
巨狼の動きだす気配に気づき、腹を背に座っていた女はそれから身を離す。
立ち上がって樹洞の外へ出る巨狼。
女もそれに続いて樹洞の入口に手を添え、雪の中に進み出る巨狼を見つめた。
「わふ!」
「え? わ?」
不意に足元から持ち上げられる感覚を受ける女。
巨狼は一鳴きすると術を発動させたのだ。
それは巨狼が赤い実を取った時に使ったのと同様のものだった。
「え……? これ? え?」と、巨狼の結界に捕えられた女は、突然自分の周りに膜が出来たことに混乱する。女は透明な球状の結界に捕えられ、宙に浮いていた。
それを確認してから、巨狼は駆け出した。
女を捕えている結界は巨狼にピタリとついて離れず、神速ともいえる速度を保っている。
あまりの速さに女は目を回し、ギュッと目を閉じた。
身を切る風を感じることはないが上下左右に体が振られ、女は今まで味わったことのない感覚に恐怖した。
そしてふわっとした浮遊感の後、動きが穏やかになったのを感じて女は恐る恐る目をあけた。
「うわあ……!」
女は思わず結界の内側に手をあて、感嘆の声を発する。
目を開けた先にあったのは大きな巨狼の背中。
そして、どこまでも続く空だった。
何も遮るもののない青い空に筋状の白い雲が太陽の光を受けて白く輝いており、眼下にあるのは白に覆われた森。遥か遠くには険しい山々が白く連なっていた。
本来鳥などの翼を持つものにしか見ることのできない景色に女は心奪われた。
白い鳥が群れを成して、綺麗な編隊を組んで自分の足元を飛んでいた。
遠く木々の間には光を反射して煌めく湖が見えた。
雲が真横を過ぎ去った。
巨狼は空を駆ける。
景色は目まぐるしく変化していき、やがて遠くに小高い山の見える緑の森の上空まで来ると、巨狼は突如急転降下しはじめた。自然に落下するよりもさらに速く空を落ちる。
「え、わ、きゃああああああああ……!」
その体験したことのない急降下の中、女は悲鳴をあげながら意識を失うのだった。
がさがさと草をかき分ける音を耳にして、女は目を覚ます。
「……ここは?」
暖かな日差しを受けて、女は目を覚ます。
頭はボーっとしていて、そこがここ最近見慣れた雪の景色ではない、普通の森の中だということに女はすぐ気が付くことはなかった。
「あれ? 人間?」
子供の声が聞こえてきた。その方向に顔を向ける女。
見れば藪の中から何か子犬のような顔が覗いていた。
「ちょっと、またこんなところで何してるの!? って、人間?」
がさがさと続いて藪の中から顔を出したのは女の子。
二人の子供はクリクリっとした大きな瞳を女に向けている。
一人は犬のような外見のコボルト族と、少し詳しく観察しなければ見分けることが難しい、ホビットの子供だった。
「人間見るの、久しぶりだな!」
「えっと、お姉さん大丈夫ですか? どうしてこんなところに?」
藪から出て、無警戒に近づく子供達。
落ち着きのなさそうなコボルトの子とは違い、落ち着いて見えるホビットの子は女がここにいる理由を聞いてきた。
「ああ、……えっと、アンタ達には信じられないだろうけど」
女は深い森の中で巨狼に助けられ、そしてその巨狼によってここに連れられてきただろうということを子供たちに話した。あの素晴らしい景色を見た後体が浮き上がるのを体験して、そのあとの記憶がないことを。
狼が空を飛ぶなんて、自分でも荒唐無稽な話だと女は思った。
子供達は口を挟まずに聞いてくれたが、呆れただろうか。しかし子供達は意外なことを口にした。
「空を飛ぶ白い大きな狼?」
「それって、ラスじゃね?」
「……ああ、ラスかも」
「ラスしかいないよな」
「……知ってるのかい!?」
女は声をあげる。子供達はその様子に少し驚きながらも巨狼のことを女に話した。
「うん、この辺りの人はみんな知ってるよ」
「たまに歩いてるの見るし」
「うん。昔は背中に乗せてもらったこともあったよね」
「あいつの腹で寝た時は気持ち良かったなー」
「毛もすごいツヤツヤしてて、気持ち良かったよね」
「だなー、久しぶりに会いたいな」
「この辺の森の主様だから、多分忙しいんだよ」
「そうなのかなー? でも、この姉ちゃんとは一緒にいたんだろ?」
「それは、このお姉さんが大変だったからでしょ」
「そっかー」
「またそのうち会えるよ」
子供達はいつの間にか二人で話し込んでしまっていることに気付かない。実に中が良さそうな二人だった。
クウウゥゥ……。
不意に女の腹から音が鳴る。
女は慌てて腹を押さえるが、その音は既に二人に伝わってしまっていた。
俯いて顔を赤くする女だったが、子供たちはそんなことはおかまいなしに聞いてくる。
「姉ちゃん、腹減ってるのか?」
「えっと、もし良かったら、村のほうまで来ませんか?」
「……村が、あるのかい?」
「こっからすぐにあるぞ!
今日は大人たちが魚とりに行ってるから、魚がいっぱいなはずなんだ!」
「魚、ねえ。
……生では食べないよね?」
「生では食べないぞ? 焼かないとおいしくないからな!」
「……お姉さんは、生で食べるんですか?」
「生はあまりおいしくないぞ?」
「いや、私も生では食べないけどね」
「そうですよね」
「おいしくないもんな!
というか、そんな話してたら俺もお腹すいてきた。
早く帰ろうぜ!」
「あ、ちょっと待ちなさいよ」
そう言って子供達は背を向けて歩いていく。
女は立ち上がり、ふと後ろを振り返った。
風が頬を撫で、女の髪が優しく揺れる。
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