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第06話 右目の痕と、最初の違和感
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夜の帳が落ちた神殿は、昼とはまるで違う顔を見せる。
陽光に満ち、祈りの声が高く響いていたはずの聖域は闇に包まれた途端、まるで何かが息を潜めるような静けさをまとい始める。
昼の神聖は白々しくすら思える。まるで、光がその欺瞞を隠していたかのように。
闇に沈んだ聖堂は、神の居場所などではなくなり、ただ石と装飾でできた冷たい箱と化す。華やかだった天蓋の装飾も月の光の下では虚飾にすぎない。光が届かぬ奥には祈りすら遠のき沈黙だけが残されている。
まるで隠された罪が、沈黙の奥で微かに息をしているかのように。
そんな中、俺は一人与えられた私室の寝台で目を開けていた。
微睡みなど、許されない――心も体も、休むことを拒絶していた。魂は未だに燃えている。
リリスの仇を討つという、狂おしいまでの復讐の炎が俺の内側を焼いていた。
部屋は小奇麗に整っていた。白いレースのカーテンが夜風に揺れ、月光をやわらかく透かしている。銀の燭台には淡い香が焚かれ、優しげな香煙が天井へと立ち昇っていた。
だが、それらすべてが俺には不快だった。
安らぎを演出するこの空間はまるで誰かの掌の上のようで、神経を逆撫でする。
美しく、甘やかで、完璧に設えられた空間。それは、聖女クララ=フォンテーヌのための舞台――彼女が【主人公】として輝くために練り上げられた芝居じみた世界。
整いすぎた美しさは毒のように胸を締めつける。俺が踏み入れていい場所ではないと空間のすべてが告げていた。
だが、俺はそれを侵しに来た。
台本に記されていない役を演じ、主人公の座を奪うために、作られた舞台に入り込んだ、異物。
この部屋は、俺の復讐を燃え上がらせるための装置だ。完璧に演出された甘美の中でこそ、俺の怒りはより鮮やかに際立つ。
まるで、部屋の隅々からリリスの声が囁いてくるようだ。
――まだ終わってない。
そう言われている気がした。
窓辺に置かれた銀の手鏡を手に取る。ひやりとした金属の重みが手のひらにのしかかる。
鏡面が、静かに俺の姿を映し出した。月光に照らされたその顔は、どこまでも淡く、青白く、まるで異世界の人間のようだった。
そこに映っているのは――リリスの顔。
俺が何よりも愛し、命に代えても守りたかったあの妹の面影。その完璧な模倣。
それは、時に俺自身の胸を深く抉る。仮面は外からは完璧でも、内側は血を流し続けていた。
俺はここにいない。【ヨシュア】という名は、もうここにはない。
だが――俺の魂は、まだこの体の奥底で燃えている。
鏡の中の表情は、妹のものではなかった。柔らかな輪郭、清らかな瞳、穏やかな唇。だがその奥に宿る光は、明らかに違う。
冷徹。静かな殺意、これは兄の顔だった。妹を失った男の絶望の奥から生まれた、復讐者の顔。
鏡の中の【アリス】は、静かに微笑んでいた。
その笑みはリリスのそれに寸分違わぬ、慈愛に満ちた微笑み――だが、それはすべて作られたものだ。
幾度も鏡の前で練習した疑われない表情。人々に愛され、崇められるために仕上げた、完璧な仮面。
この笑みこそが、俺の最強の武器だと感じている。誰もが信じ、心を許し、従う――聖女の笑顔。しかし、その仮面の裏で俺は憎しみに身を灼かれながら、静かに牙を研ぎ澄ませている。
けれど、どれほど完璧に笑っていても――右目の奥だけは、いつも痛む。
焼けつくような鈍い痛み。心の奥から響くような、忘れられない灼熱。
それは、魔術によっても消し去れなかった、たった一つの【真実】だ。
この偽りの肉体にすら焼きついて離れない、俺の傷痕。
幼い頃、炎に包まれてしまったため、妹であるリリスを必死にかばって受けてしまった火傷。
炎で両親を殺され、残されたの妹を守るために自分の身を犠牲にし、そしてその一部として残ってしまった火傷の痕。その痕だけは、魔法陣にすら従わなかった。
右目に落ちる長い髪の奥――その下に、俺はヨシュアである証を宿している。
「疼くな……やっぱり、消えないか……」
女の声帯を通して発せられた俺の呟きは、どこか別人のもののようだった。
高く、澄んだ声。それでいて、冷たい響きを孕んでいる。仮面を剥いだつもりでも、声だけはアリスのもののままだった。
外から、夜風がそっとカーテンを揺らす。
肌を撫でる冷気の中に、ふと、妹の気配を感じる。
妹は既に死んでいる、これは幻覚だ。だが、それでも――俺は、誰かに見られているような気がしてならなかった。
この痛みが、俺を【兄】として繋ぎ止めている。
殺された少女の、たった一人の血縁者としての、確かな証。
だが同時に、この痛みが消えた時、俺は本当にヨシュアを喪うのだろう。その時にはもう、ただの復讐の器――感情も、過去も失った怪物になる。
――それでも構わない。クララを、あの座から引きずり下ろせるのなら。
だが、あいつは知らない。この傷を宿したまま俺がここにいる事を。この【穢れ】こそが彼女を焼き尽くす火となることも。
その時、静寂を破るようにノックの音が響いた。控えめなその音が、なぜかやけに鋭く感じられる。空気が張り詰め、まるで仮面が剥がされる音のように。
「……はい?」
「失礼いたします、アリス様……夜分遅くに申し訳ございません。王弟殿下が、ご挨拶に……」
扉の外から、侍女の声が聞こえた。微かだが、語尾が震えている。
相手がただ者ではないことを、彼女も理解しているのだろう。
「……王弟殿下?」
声に出した瞬間、心が静かに波打った。
予想外の名だった。まさか、こんな時に――その時、重く響く足音が、廊下を満たした。
迷いのない歩幅。支配する者の足取り。彼がどんな存在か、それだけでわかる。気配が、空気を変える。
王弟――ルーカス=アルヴィン。
この国の王の実弟であり、王政と軍の両方に深く関与する男、権力の最奥に手をかける存在。その名が持つ重さは伊達ではない。
(どうして、なぜ、彼が俺に会いにきた?)
聖女候補とはいえ、俺の立場など仮初めのものだ。
何の意図があって……いや、だからこそなのか、焦る心を抑え、俺は乱れた髪を指で整えた。
深呼吸ひとつ、笑顔の仮面を被り直す。そして扉が、音もなく開かれた。
現れた男は、闇の中でも存在感を放つ鋭さを纏っていた。長身で、黒の上衣を無造作に羽織り、金の刺繍が月光を弾いて煌めいる。だが何よりも強烈だったのは――その目。
まるで、仮面の奥を覗き込むような目だった。表情こそ柔らかいが、その視線はこちらの全てを見透かそうとしているかのように。
「……失礼した。夜分遅くの訪問を無礼を許してほしい……君がもう一人の【聖女候補】か?」
その声は低く、落ち着いていたが、油断のない威圧を孕んでいた。
「……はじめまして、王弟殿下。リリスの妹であります、アリスと申します。このような時間に恐縮ではございますが王弟殿下にお目にかかれました事を光栄の至りでございます」
完璧な所作で礼を取る。
柔らかく微笑み、声の高さも意図的に調節する。
仮面は――崩れていない。大丈夫、まだ【アリス】として見えている。
だが、ルーカスは俺を見下ろす視線のまま、すぐには言葉を返さなかった。その目が、わずかに右側――髪に隠された火傷のあたりに留まった。
「その髪……ずいぶんと長いな。まるで何かを隠しているようだ。右目を覆っているのか?……不都合なものでも?」
「……」
その言葉に、体の奥が微かに軋む。
――やはり、この男は鋭い。
初対面の一言で、いきなり核心を衝いてくるとは。
心臓がひとつ、重く脈打つ。だが表情は崩さない。声を整え、静かに微笑みながら応じる。
「ええ、少しばかり古い傷がございます。幼い頃、事故で負ったものでして……醜いものですからあまり人様に見せるものでもございません」
事実の一部を切り取って、丁寧に飾る。それは【嘘】ではない。だが、すべてでもない。
「ふむ……だが聖女ともあろう方が、身を隠すほどの傷とは……よほどの理由があるのだろう」
「後悔はしておりません。あのとき守れたのは、リリスでしたから。ただ……男性にとっては、やはり、傷というのは――美しさを損なうモノ、なのでしょう?」
微笑を崩さずに言い切った。優しく、しかし、その中に静かな挑発を忍ばせて。
あなたも、ただの男なら見逃して――そんな気配を滲ませながら。
ルーカスはわずかに目を細めた。まるで、面白いものを見つけたように。彼の視線は、そのまま俺の顔に残ったままだ。逸らさない。まるで獣が獲物の呼吸を読むように、静かに、だが執拗に観察している。
「君には申し訳ないが……どこか、普通ではない気配がある。聖女らしい、というだけでは説明できない何かがある……もっと深く、強く……そう、何かを秘めているような――」
声が、ひどく近く感じられる。気づけば彼の距離は初めより一歩――確実に近づいていた。
この男は、俺の仮面の向こうを覗こうとしている。まるで、その奥に【誰か】がいる事を確信しているかのような目。
心臓がまた打つ。
緊張ではない――警告。
ルーカス=アルヴィンという存在が、俺にとってちっぽけな存在では済まない事を魂が告げていた。
「……殿下のご直感、侮れませんわ。私には特別な願いがあります。それは聖女として――ではなく、一人の人間として、この国と人々の未来を守り抜きたいという強い祈りです」
アリスの仮面を崩さず、だがその奥に宿る怒りと誓いはそのまま乗せる。
それが、【演技】と【真実】を織り交ぜる最善の方法だと、もう知っている。
「……なるほど」
ルーカスは小さく頷いた。だが、何も納得してはいない。あくまで表面をなぞっただけ。彼の目はまだ奥の【正体】を探っている。
「突然の訪問無礼を詫びる。挨拶だけのつもりだったが……少し、面白い出会いになった。君と話すのはまた愉しみだ」
「私にとっても、殿下とお話できた事は大きな喜びでございます。これからの神殿での務めにおいて、ご助言いただければ光栄に存じます」
完璧な礼、柔らかな微笑、どこまでも【聖女・アリス】としての正しさを保ったまま、言葉を返す。
その瞬間、彼が不意に手を伸ばし、俺の頭に触れた。
柔らかく、優しい手付き、まるで子供を慰めるように丁寧に――優しく撫でる。
――不意を突かれた。
仮面を崩すほどではないが、心が揺れたのは確かだった。その掌は何故か【敵意】ではなく、何か別の【感情】を孕んでいるかのように。
そして、彼はそのまま何も言わず、廊下へと去っていく。
背を向けたまま、わずかに首を振り、静かに笑みだけを残して。
扉が閉まる。静かな音とともに、緊張の糸がふっと緩んだ。部屋に残されたのは、俺一人――静寂だけが支配する、深い夜だ。
ゆっくりと鏡の前に戻り、右目を覆う髪を指先でそっとかきあげる。
そこに現れた火傷の痕は、変わらずに、ただ在り続けていた。
痛みは……ない。いや、肉体的なそれはもう、とっくに引いていた。
代わりにあるのは、もっと冷たく、もっと深いもの。
――怒り、復讐の業火、そして消えなかった【俺自身】だ。
それが、この火傷にすべて詰まっている。
ルーカスの手が頭に触れた時、ふと、あの感覚を思い出してしまった。リリスが、生前ふざけて俺の髪を撫でてきた時の、あの軽やかな指。
優しさは、時に、仮面を揺らす。けれど、もう揺れてはならない。
「……俺が笑うたびにお前の世界は崩れていくぞ、クララ」
鏡に映るのは、リリスの顔を模した【聖女・アリス】。
けれどその表情は、あの子が決して浮かべなかった冷笑――薄く唇の端を吊り上げ、静かに笑う。
「――お前の愛した世界は、俺の手で破り捨てられる」
その目に宿るのは、狂気と理性を併せ持った光。冷たく凍てつきながらも、確かに燃えている――これは、俺の【復讐】の目だ。
【アリス】ではなく、【ヨシュア】の魂がそこにある。偽りの肉体の奥底で、確かに生きている。
「さあ、幕が上がるぞ。クララ。お前の醜い物語の続きが、今……始まったばかりだ」
静かに吐き出すその言葉は、予言ではなく【宣告】。そして、復讐の序章に過ぎない。
……ふと、眉を寄せて独りごちた。
「……頭を撫でるのが趣味なのか、あの王弟は?」
思わず出たその呟きが、妙に場違いで、口の端がわずかに緩む。
仮面が揺れる――が、すぐにまた静かに張り直す。油断はしない。けれど、忘れはしない。
あの手の感触、あの瞳の鋭さと、底に見えた【何か】。
ルーカス=アルヴィンーーあの男は、想定外だ。
どこまでが演技で、どこまでが本心なのか――まだ、見えない。
けれど、あの男が今夜、俺に【触れた】事だけは確かだ。
それは単なる礼儀ではない。まるで何かを【試す】ような、手応えを確かめるような、そんな手つきだった。
あの目がまた俺を見据える時、次はどこまで仮面を試されるだろうか。
(……最期まで、【アリス】を必ず演じてやる)
きっと、試されているのだろうと理解する事にした俺は、静かに笑いながら呟くのだった。
陽光に満ち、祈りの声が高く響いていたはずの聖域は闇に包まれた途端、まるで何かが息を潜めるような静けさをまとい始める。
昼の神聖は白々しくすら思える。まるで、光がその欺瞞を隠していたかのように。
闇に沈んだ聖堂は、神の居場所などではなくなり、ただ石と装飾でできた冷たい箱と化す。華やかだった天蓋の装飾も月の光の下では虚飾にすぎない。光が届かぬ奥には祈りすら遠のき沈黙だけが残されている。
まるで隠された罪が、沈黙の奥で微かに息をしているかのように。
そんな中、俺は一人与えられた私室の寝台で目を開けていた。
微睡みなど、許されない――心も体も、休むことを拒絶していた。魂は未だに燃えている。
リリスの仇を討つという、狂おしいまでの復讐の炎が俺の内側を焼いていた。
部屋は小奇麗に整っていた。白いレースのカーテンが夜風に揺れ、月光をやわらかく透かしている。銀の燭台には淡い香が焚かれ、優しげな香煙が天井へと立ち昇っていた。
だが、それらすべてが俺には不快だった。
安らぎを演出するこの空間はまるで誰かの掌の上のようで、神経を逆撫でする。
美しく、甘やかで、完璧に設えられた空間。それは、聖女クララ=フォンテーヌのための舞台――彼女が【主人公】として輝くために練り上げられた芝居じみた世界。
整いすぎた美しさは毒のように胸を締めつける。俺が踏み入れていい場所ではないと空間のすべてが告げていた。
だが、俺はそれを侵しに来た。
台本に記されていない役を演じ、主人公の座を奪うために、作られた舞台に入り込んだ、異物。
この部屋は、俺の復讐を燃え上がらせるための装置だ。完璧に演出された甘美の中でこそ、俺の怒りはより鮮やかに際立つ。
まるで、部屋の隅々からリリスの声が囁いてくるようだ。
――まだ終わってない。
そう言われている気がした。
窓辺に置かれた銀の手鏡を手に取る。ひやりとした金属の重みが手のひらにのしかかる。
鏡面が、静かに俺の姿を映し出した。月光に照らされたその顔は、どこまでも淡く、青白く、まるで異世界の人間のようだった。
そこに映っているのは――リリスの顔。
俺が何よりも愛し、命に代えても守りたかったあの妹の面影。その完璧な模倣。
それは、時に俺自身の胸を深く抉る。仮面は外からは完璧でも、内側は血を流し続けていた。
俺はここにいない。【ヨシュア】という名は、もうここにはない。
だが――俺の魂は、まだこの体の奥底で燃えている。
鏡の中の表情は、妹のものではなかった。柔らかな輪郭、清らかな瞳、穏やかな唇。だがその奥に宿る光は、明らかに違う。
冷徹。静かな殺意、これは兄の顔だった。妹を失った男の絶望の奥から生まれた、復讐者の顔。
鏡の中の【アリス】は、静かに微笑んでいた。
その笑みはリリスのそれに寸分違わぬ、慈愛に満ちた微笑み――だが、それはすべて作られたものだ。
幾度も鏡の前で練習した疑われない表情。人々に愛され、崇められるために仕上げた、完璧な仮面。
この笑みこそが、俺の最強の武器だと感じている。誰もが信じ、心を許し、従う――聖女の笑顔。しかし、その仮面の裏で俺は憎しみに身を灼かれながら、静かに牙を研ぎ澄ませている。
けれど、どれほど完璧に笑っていても――右目の奥だけは、いつも痛む。
焼けつくような鈍い痛み。心の奥から響くような、忘れられない灼熱。
それは、魔術によっても消し去れなかった、たった一つの【真実】だ。
この偽りの肉体にすら焼きついて離れない、俺の傷痕。
幼い頃、炎に包まれてしまったため、妹であるリリスを必死にかばって受けてしまった火傷。
炎で両親を殺され、残されたの妹を守るために自分の身を犠牲にし、そしてその一部として残ってしまった火傷の痕。その痕だけは、魔法陣にすら従わなかった。
右目に落ちる長い髪の奥――その下に、俺はヨシュアである証を宿している。
「疼くな……やっぱり、消えないか……」
女の声帯を通して発せられた俺の呟きは、どこか別人のもののようだった。
高く、澄んだ声。それでいて、冷たい響きを孕んでいる。仮面を剥いだつもりでも、声だけはアリスのもののままだった。
外から、夜風がそっとカーテンを揺らす。
肌を撫でる冷気の中に、ふと、妹の気配を感じる。
妹は既に死んでいる、これは幻覚だ。だが、それでも――俺は、誰かに見られているような気がしてならなかった。
この痛みが、俺を【兄】として繋ぎ止めている。
殺された少女の、たった一人の血縁者としての、確かな証。
だが同時に、この痛みが消えた時、俺は本当にヨシュアを喪うのだろう。その時にはもう、ただの復讐の器――感情も、過去も失った怪物になる。
――それでも構わない。クララを、あの座から引きずり下ろせるのなら。
だが、あいつは知らない。この傷を宿したまま俺がここにいる事を。この【穢れ】こそが彼女を焼き尽くす火となることも。
その時、静寂を破るようにノックの音が響いた。控えめなその音が、なぜかやけに鋭く感じられる。空気が張り詰め、まるで仮面が剥がされる音のように。
「……はい?」
「失礼いたします、アリス様……夜分遅くに申し訳ございません。王弟殿下が、ご挨拶に……」
扉の外から、侍女の声が聞こえた。微かだが、語尾が震えている。
相手がただ者ではないことを、彼女も理解しているのだろう。
「……王弟殿下?」
声に出した瞬間、心が静かに波打った。
予想外の名だった。まさか、こんな時に――その時、重く響く足音が、廊下を満たした。
迷いのない歩幅。支配する者の足取り。彼がどんな存在か、それだけでわかる。気配が、空気を変える。
王弟――ルーカス=アルヴィン。
この国の王の実弟であり、王政と軍の両方に深く関与する男、権力の最奥に手をかける存在。その名が持つ重さは伊達ではない。
(どうして、なぜ、彼が俺に会いにきた?)
聖女候補とはいえ、俺の立場など仮初めのものだ。
何の意図があって……いや、だからこそなのか、焦る心を抑え、俺は乱れた髪を指で整えた。
深呼吸ひとつ、笑顔の仮面を被り直す。そして扉が、音もなく開かれた。
現れた男は、闇の中でも存在感を放つ鋭さを纏っていた。長身で、黒の上衣を無造作に羽織り、金の刺繍が月光を弾いて煌めいる。だが何よりも強烈だったのは――その目。
まるで、仮面の奥を覗き込むような目だった。表情こそ柔らかいが、その視線はこちらの全てを見透かそうとしているかのように。
「……失礼した。夜分遅くの訪問を無礼を許してほしい……君がもう一人の【聖女候補】か?」
その声は低く、落ち着いていたが、油断のない威圧を孕んでいた。
「……はじめまして、王弟殿下。リリスの妹であります、アリスと申します。このような時間に恐縮ではございますが王弟殿下にお目にかかれました事を光栄の至りでございます」
完璧な所作で礼を取る。
柔らかく微笑み、声の高さも意図的に調節する。
仮面は――崩れていない。大丈夫、まだ【アリス】として見えている。
だが、ルーカスは俺を見下ろす視線のまま、すぐには言葉を返さなかった。その目が、わずかに右側――髪に隠された火傷のあたりに留まった。
「その髪……ずいぶんと長いな。まるで何かを隠しているようだ。右目を覆っているのか?……不都合なものでも?」
「……」
その言葉に、体の奥が微かに軋む。
――やはり、この男は鋭い。
初対面の一言で、いきなり核心を衝いてくるとは。
心臓がひとつ、重く脈打つ。だが表情は崩さない。声を整え、静かに微笑みながら応じる。
「ええ、少しばかり古い傷がございます。幼い頃、事故で負ったものでして……醜いものですからあまり人様に見せるものでもございません」
事実の一部を切り取って、丁寧に飾る。それは【嘘】ではない。だが、すべてでもない。
「ふむ……だが聖女ともあろう方が、身を隠すほどの傷とは……よほどの理由があるのだろう」
「後悔はしておりません。あのとき守れたのは、リリスでしたから。ただ……男性にとっては、やはり、傷というのは――美しさを損なうモノ、なのでしょう?」
微笑を崩さずに言い切った。優しく、しかし、その中に静かな挑発を忍ばせて。
あなたも、ただの男なら見逃して――そんな気配を滲ませながら。
ルーカスはわずかに目を細めた。まるで、面白いものを見つけたように。彼の視線は、そのまま俺の顔に残ったままだ。逸らさない。まるで獣が獲物の呼吸を読むように、静かに、だが執拗に観察している。
「君には申し訳ないが……どこか、普通ではない気配がある。聖女らしい、というだけでは説明できない何かがある……もっと深く、強く……そう、何かを秘めているような――」
声が、ひどく近く感じられる。気づけば彼の距離は初めより一歩――確実に近づいていた。
この男は、俺の仮面の向こうを覗こうとしている。まるで、その奥に【誰か】がいる事を確信しているかのような目。
心臓がまた打つ。
緊張ではない――警告。
ルーカス=アルヴィンという存在が、俺にとってちっぽけな存在では済まない事を魂が告げていた。
「……殿下のご直感、侮れませんわ。私には特別な願いがあります。それは聖女として――ではなく、一人の人間として、この国と人々の未来を守り抜きたいという強い祈りです」
アリスの仮面を崩さず、だがその奥に宿る怒りと誓いはそのまま乗せる。
それが、【演技】と【真実】を織り交ぜる最善の方法だと、もう知っている。
「……なるほど」
ルーカスは小さく頷いた。だが、何も納得してはいない。あくまで表面をなぞっただけ。彼の目はまだ奥の【正体】を探っている。
「突然の訪問無礼を詫びる。挨拶だけのつもりだったが……少し、面白い出会いになった。君と話すのはまた愉しみだ」
「私にとっても、殿下とお話できた事は大きな喜びでございます。これからの神殿での務めにおいて、ご助言いただければ光栄に存じます」
完璧な礼、柔らかな微笑、どこまでも【聖女・アリス】としての正しさを保ったまま、言葉を返す。
その瞬間、彼が不意に手を伸ばし、俺の頭に触れた。
柔らかく、優しい手付き、まるで子供を慰めるように丁寧に――優しく撫でる。
――不意を突かれた。
仮面を崩すほどではないが、心が揺れたのは確かだった。その掌は何故か【敵意】ではなく、何か別の【感情】を孕んでいるかのように。
そして、彼はそのまま何も言わず、廊下へと去っていく。
背を向けたまま、わずかに首を振り、静かに笑みだけを残して。
扉が閉まる。静かな音とともに、緊張の糸がふっと緩んだ。部屋に残されたのは、俺一人――静寂だけが支配する、深い夜だ。
ゆっくりと鏡の前に戻り、右目を覆う髪を指先でそっとかきあげる。
そこに現れた火傷の痕は、変わらずに、ただ在り続けていた。
痛みは……ない。いや、肉体的なそれはもう、とっくに引いていた。
代わりにあるのは、もっと冷たく、もっと深いもの。
――怒り、復讐の業火、そして消えなかった【俺自身】だ。
それが、この火傷にすべて詰まっている。
ルーカスの手が頭に触れた時、ふと、あの感覚を思い出してしまった。リリスが、生前ふざけて俺の髪を撫でてきた時の、あの軽やかな指。
優しさは、時に、仮面を揺らす。けれど、もう揺れてはならない。
「……俺が笑うたびにお前の世界は崩れていくぞ、クララ」
鏡に映るのは、リリスの顔を模した【聖女・アリス】。
けれどその表情は、あの子が決して浮かべなかった冷笑――薄く唇の端を吊り上げ、静かに笑う。
「――お前の愛した世界は、俺の手で破り捨てられる」
その目に宿るのは、狂気と理性を併せ持った光。冷たく凍てつきながらも、確かに燃えている――これは、俺の【復讐】の目だ。
【アリス】ではなく、【ヨシュア】の魂がそこにある。偽りの肉体の奥底で、確かに生きている。
「さあ、幕が上がるぞ。クララ。お前の醜い物語の続きが、今……始まったばかりだ」
静かに吐き出すその言葉は、予言ではなく【宣告】。そして、復讐の序章に過ぎない。
……ふと、眉を寄せて独りごちた。
「……頭を撫でるのが趣味なのか、あの王弟は?」
思わず出たその呟きが、妙に場違いで、口の端がわずかに緩む。
仮面が揺れる――が、すぐにまた静かに張り直す。油断はしない。けれど、忘れはしない。
あの手の感触、あの瞳の鋭さと、底に見えた【何か】。
ルーカス=アルヴィンーーあの男は、想定外だ。
どこまでが演技で、どこまでが本心なのか――まだ、見えない。
けれど、あの男が今夜、俺に【触れた】事だけは確かだ。
それは単なる礼儀ではない。まるで何かを【試す】ような、手応えを確かめるような、そんな手つきだった。
あの目がまた俺を見据える時、次はどこまで仮面を試されるだろうか。
(……最期まで、【アリス】を必ず演じてやる)
きっと、試されているのだろうと理解する事にした俺は、静かに笑いながら呟くのだった。
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