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しおりを挟むプロローグ
この世は実力至上主義。
実力がこの世の全てを制し、この世の全てを語る。
この世界を構成している五大国は今もなお、睨み合いを続けていた。
現在は休戦状態になっているものの、いつまたどこで火種が燃えるかは分からない。
だから、どの国も軍事開発に力を入れている。
国は武力を欲し、強力な魔術師や戦士、あるいは裕福な商人などが持て囃されるようになった。
人々も社会のルールを理解して、腕に自信のある者は戦闘職の道を、賢い者は商売や軍事研究の道を自然と志すようになっていった。中には地位を築いた人間に取り入る者もいる。
そうして生まれた風潮が、絶対的な実力主義というわけだ。
いたって単純ながら正しい考えだと思う。
ただ誰かより強ければいい、誰かに勝っていればいい。
でも――それの何が良いんだ?
あまりにも物騒な世界だ。そして何より面白くない。
普通の子供ならば、魔術師や剣士になって将来活躍する己の姿を夢見るのだろう。
けど、俺は違う。
暑苦しいことはしたくないし、しんどいこともしたくない。
辛いことなんてもってのほかだ。過酷な訓練や修業なんて普通に死ねる。
涼しい部屋でゴロゴロしたいし、甘いものもたくさん食べたい。
戦いなんて危険なことは絶対にしたくなくて、毎日だらだらと生きたくて。
穀潰しのように、ただ飯だけ食って楽に人生を謳歌したい。
だから俺は誰よりも、あの職業に憧れた。
穀潰しならぬ、『穀潰士』に――
これは俺が最高の引きこもりになるまでの物語だ。
――アストリア国第二王子 ニート・ファン・アヴァドーラより
一章 引きこもりの第二王子
「ニート! 部屋から出てこい!」
ドンドンドン、と扉を叩く音とともに、朝から野太い怒号が響き渡る。
俺はいつものように、そんな怒号を目覚まし代わりに瞼を開けた。
ベッドに手を突き、ゆっくりと体を起こす。
「この穀潰しが!」
さて、ここから数分は一方的な説教が続くので、先に自己紹介でもしておこう。
俺の名はニート。一応この国、アストリア国の第二王子だ。今年で十六歳になる。
アストリア国はこの大陸の東南に位置し、海と山に囲まれた自然溢れる国だ。
しかし別名、発明の国と呼ばれるほど文明は発展しており、戦闘職の八割は魔術師という、魔術が発展した国でもある。
大陸にはあと四つの大国が存在し、そのどれもと我が国はピリピリした関係だ。
大陸の西端には巨大な森林が広がっていて、その先に何があるのかは分かっていない。森の向こうから何かが来たという話も聞かないし、今のところ、この世界にあるのは五つの大国だけ、と言っていいだろう。
そして、扉の向こうで怒鳴りちらしているのが父であり、アストリアの現国王――グレイ・ファン・アヴァドーラだ。
「今日こそは外へ出してやる!」
別に俺は自分の部屋に引きこもっているわけではない。
親や兄弟とだって毎日のように顔を合わせている。
しかし、王城からはここ十年ほど出たことがなかった。
暑いのは嫌いで、歩くのも嫌いで。だから太陽の下に出るなんてありえない。
それだけが理由というわけでもないが……要するに、俺は傍から見れば飯だけ食って何もしない『穀潰し』というわけだ。
当然、親としては息子がそんな状態であることを許せるはずもなく、こうして国王の父が毎朝、わざわざ説教と一緒に起こしに来てくれる。
「まぁまぁ、あなた。ニートちゃんも少しは努力しているんですから、そんなに怒らないであげてください」
そして、そんな父を毎度諫めてくれるのが、母のシャーロット・ファン・アヴァドーラだ。
母は引きこもりの俺の数少ない理解者の一人でもある。何故なら、
『だって王様と結婚したら一生楽出来るじゃない?』
母はそんな理由で、当時第一王子だった父を惚れさせて王妃になったためだ。
当然、並大抵の努力では、平民の女性が王族と結ばれることはない。本当にその行動力とぐうたら精神は尊敬に値する。
まぁ途中から母も父に本気で惚れてしまったため、というのもあるようだが。
話が逸れたので戻そう。
俺の引きこもり体質が母親譲りなのは間違いないというわけで、母はこのように俺を王城の外へと出そうとする父から守ってくれていた。
本来は王妃の言葉など聞かないのが国王なのだろうが、
「しゃ、シャーロットがそう言うなら……」
という父の返答を聞くだけで、二人の関係は明らかだろう。
父は母にいわゆるぞっこんというやつだ。
母も父のことを好いているが、その比ではない。
母の望みとなれば、どんなことだろうと一瞬で許してしまうほどに惚れている。
そのおかげで俺の引きこもり生活も守られている。実に素晴らしい家庭ではないだろうか。
「だ、だが今回限りは許さんぞ! そのための策も既に打ってある!」
ほら、今日だっていつものように許して…………ん? 今なんて言った?
「昨夜、ニートを国立魔術学院に入学させたのだ! もうこれで逃げられまい!」
「お、お父上? アハハ……ご冗談がお上手で……」
衝撃の事実を受け、黙り込んでいた俺もつい声を上げてしまう。
すると、父はとても嬉しそうに答える。
「冗談なわけがなかろう! 王族ともあろう者が不登校なんて許されるわけがないからなぁ?」
扉越しでも伝わる父のニヤついた表情。
今までの鬱憤を晴らせて爽快なのか、いつもより声に張りがある。大人げないにもほどがあるだろ。
だが、まぁ焦るのにはまだ早い。
俺には母上という絶対的な守護者がいるのだから!
「まぁ可哀そうなこと……でも、入学しちゃったのなら仕方ないわねぇ」
ん? なんて?
「まさかあのニートちゃんが学院に通うことになるなんて。夢にも思わなかったわぁ」
「は、母上!? なに話を進めてるんですか!? 俺の味方をしてくれるはずじゃ……」
マズい……この状況はマズすぎる……!
「だってアレクちゃんも通ってるし、学院なら良いリハビリになるんじゃないかしらぁ?」
アレクとは俺の兄のことだ。
第一王子の兄は俺の一つ上の十七歳。
こんなだらしない俺とは違って、頭脳明晰、容姿端麗。
さらには、こんな俺にまで優しく接してくれるという温厚篤実さも持ち合わせている。
そして何より魔術師としての実力も備えている。兄の年齢では彼の実力は突出していた。
完全無欠とは兄のためにある言葉ではないのだろうか。
「ということだニート。ちなみに入学式は明日だ、今日で引きこもり生活も終わりだな!」
ガハハ、と王族らしくない下品な笑い声を残して、父は満足げに部屋の前から去っていく。
「に、ニートちゃんはやれば出来る子なんだから! 頑張ってね!」
そう言い残して母も父の後を追った。
嵐のような騒ぎが過ぎ去り、いつもの朝の静けさが戻ってくる。
普段ならこの後は、だらだらと朝食を食べて、だらだらと好きなことをして。そうやって俺の時間を満喫するのだ。
しかし、明日からはそうもいかないらしい。
「はぁ……」
俺は再び、無気力にどすっとベッドに体を預ける。
明日から部屋の外、この城の外。大嫌いな外。
外外外外外外そとそとそとそとそとそとそとそと……
「何してくれてんだよクソ親父いいいぃぃぃ!」
俺は部屋の中で一人、喉が破裂しそうなほど絶叫したのだった。
その後、俺は寝間着のまま会食堂へと向かった。
会食堂に着くと、既に兄のアレクが席について食事をしていた。
貴族であれ平民であれ、家族全員で食事をするのが普通なのだろうが、この家は起床時間が全員バラバラなため、朝食は各自でとることが多い。
その代わり、時間を合わせられる夕食時は、家族全員揃って食べることになっている。
俺は空いていたアレクの隣の席に腰かけた。
どうやら両親は既に食事を済ませていたようで、残っているのは兄だけだった。
「おはよう、兄さん」
「ん? ニートか、おはよう。どうしたんだい? そんな死んだ魚みたいな目をして」
アレクはげっそりとした俺の表情を見て、心配した様子を見せる。
いつもの俺ならこの時間帯は自室でダラダラとしているのだが、今日はそんな気にもなれなかった。
兄のアレクに早朝の出来事を共有したかったからだ。
俺は早速、兄に告げる。
「実は明日から学院に通わされることになったんだよ」
「ぶっ! ごほごほっ!」
俺の突然の告白にアレクは飲んでいた水を噴き出した。
彼は何度も目を瞬いて、自分の耳を疑っている。
少し悩んだものの、やはり信じられなかったようで苦笑した。
「あっはっは、まさかニートがそんな冗談を言うとは思わなかったよ」
「いや、本当だから」
「え?」
「え?」
「「…………」」
お互い目を合わせたまま、会食堂に長い沈黙が流れる。
そしてアレクはためらいがちに尋ねてきた。
「本気で言ってるのかい?」
「朝一から父上と母上が言いに来たからね。もう入学届も出されてるらしいよ」
「そうか、ニートがこの城の外に出るのか……」
「ん?」
アレクはボソッと俺には聞こえない声量で呟く。
心配や驚愕というよりは、どこか違う所を見ているような、そんな気がした。
しかし、それは俺の勘違いだったのだろう、いつもと同じ明るい表情に戻ると言った。
「……いいや、なんでもないさ。まさか弟と一緒に登校出来る日が来るなんて思ってもいなかったよ!」
「俺もだよ。父上がここまで大人げないとは……」
アハハと俺たちは笑い合う。俺の方は苦笑いだが。
すると、そんな他愛ない会話を遮るように、会食堂に陽気な少女の声が響き渡る。
「おはようございます! アレクお兄様!」
「おはよう、アーシャ」
会食堂にやってきた少女は、元気良くアレクに向かって挨拶をする。
俺たちよりも一回り、二回りほど小柄な体躯に、母親譲りの整った顔立ち。
そして艶やかな銀髪に似合う、純白のワンピースドレスを着こなしている。
少女の名はアーシャ。俺より二つ年下の妹だ。
俺の家族は父と母、そして一つ年上のアレクと、二つ年下のアーシャの五人家族である。
俺も兄に続いてアーシャに声をかけた。
「おはようさん」
「……おはようございます、ニート兄様」
アーシャは視線も合わせずに、ぼそっと言い捨てるように返した。
まるで義務だから渋々と言わんばかりの態度だ。
「ん? アーシャ? なんか最近俺に冷たくない?」
「そ、それは……」
理由を尋ねると、アーシャは言いづらそうに口ごもる。
最近、どこか素っ気ないと思っていたが、どうやら何か理由があるらしい。
「正直に言ってくれた方が俺も助かるんだぞ? それに何を言われようとアーシャなら気にしない」
「そうですか……」
俺の言葉でアーシャは決心がついたのだろう。
小さな頬を可愛らしく膨らませて言った。
「なら正直に言いますけど、私が怒っているのはニート兄様が引きこもりだからです!」
「ん?」
「ニート兄様が学院でなんと噂されているか知っていますか!」
「お、俺が話題になってんの?」
アーシャはアレクと一緒に国立魔術学院に通っている。
しかし、歳が離れているため、俺が入学する予定の高等部ではなく、中等部の二年だ。
兄と同様に、アーシャも優秀な子だ。容姿はもちろんのこと、成績優秀でもあるため周囲の生徒や教師からかなりの人気を集めている。
学院では白亜の天使と呼ばれているとかなんとか。
うんうん、俺もそれに関しては同感だ。うちの妹に可愛さで勝てるような奴がこの世に存在するわけがない。
そんな我らの天使は頬を赤らめながら、羞恥を振り切るように大きな声で言い放った。
「えぇ! ニート兄様は『穀潰しの第二王子』なんて言われてるんですよ!? 私、恥ずかしくて仕方ありません!」
二人と違って、俺は王族の公務すら行っていない。
そうともなれば国民にどう印象を持たれるかなど、考えるまでもないだろう。
え? なんで公務をしないのかって?
だって外出れないし、出たくないし。俺、引きこもりだし。
「アーシャ……実の兄に向かってそんなこと……」
アレクは俺を気遣い、アーシャを止めようとしてくれる。
もちろん、兄の優しさには感謝しているが、俺にその必要はない。
「まぁ実際その通りだしな。別に言われて悪い気もしないし」
「ニート……」
そもそも俺は自ら望んで引きこもっているのだ。
引きこもりだ、穀潰しだ、などと言われて嫌な気分になる者が、引きこもりを極められるわけがない。
「だが、アーシャよ。そんな妹に一つ朗報がある」
「朗報? どうせ兄様のことだから、くだらないことでしょう?」
にんまりと笑みを浮かべながら言う俺に、アーシャは冷たい視線を送ってくる。
妹の言うように、普段の俺ならくだらないことを言っているだろう。
だが、今日は違う。
俺は溜めに溜めてからアーシャに告げた。
「なんと……俺も明日から学院に通うことになったのだ!」
「だからなんですか! ニート兄様が学院に通ったからって……え? 兄様がこの王城の外に?」
アーシャは虚を衝かれたように固まってしまった。
そして、数秒の遅れを経て、今度は小さな口を精一杯開けて叫んだ。
「え、ええええええええええええぇぇぇぇぇぇ!?」
「そんな驚くことか?」
「当たり前ですよ! あのニート兄様が王城の外に……それも学院に通うなんて!」
「まぁ僕もアーシャに同感だよ。僕だって本当は叫びたいぐらいだからね」
アーシャは驚きながらも、どこか嬉しそうな様子を見せる。
それに同意してアレクも微笑を漏らしていた。
俺が掻い摘んで今朝の出来事を説明したが、アーシャはまだ信じられないといった様子だ。
「よくニート兄様が外に出ることを納得しましたね!?」
「まぁ既に入学届も受理されてるらしいし。納得以前に、もう逃げるにも逃げられないよな」
今朝、父が言っていたように王族ともあろう者が不登校など、断じて許されるものではない。
まぁ引きこもりを極めている俺にそんなプライドなんてもうないのでは? と言われたら否定は出来ないけども。
それに両親やアレク、アーシャにかなりの苦労をかけていることは俺も自覚している。それと同時に心配をかけていることも。
これまで自由にやらせてもらっていたのだ。納得出来ずとも、多少は俺も譲歩すべきだろう。
学院であれば屋外に出ることもそうないだろうし。長くてもほんの数年、我慢するだけだ。
「ま、そういうことだから。二人とも学院でもよろしく」
俺はその言葉を最後に一旦話を終わらせ、テーブルに並んでいた朝食に手を付けたのだった。
◆◆◆◆◆◆◆
『俺はなぁ、思うんだよ』
男の顔は黒い靄でぼやけており、はっきりと視認出来ない。
『やっぱり穀潰士は最高の職業だとな!』
『ごくつぶし?』
俺は夢でも見ているのだろう。間違いなくこれは俺の過去の話だ。
ただ、十年以上前の話であるため、その頃の記憶はほとんどない。
しかし、この男との会話だけは鮮明に覚えている。
今の俺が存在するのもこの男のおかげだから。
『穀潰士とは自分の部屋で好きなことをしたり、やりたいことをする職業だ』
『どうやったらなれるの?』
『誰でもなれるさ。覚悟さえあればな』
幼い頃の俺はこの男に憧れの感情を抱いていた。
何にも縛られない、自由な人生を謳歌するこの男に。
だから、俺はそんな彼が語る穀潰士になりたいと願った。
『だが、穀潰士には一つだけ大切な仕事があるんだ。分かるか?』
『ダラダラしたり、ぜんりょくであそぶこと?』
『違う。それも大切なことだが、仕事じゃない』
男はポンと俺の頭の上に手を置いて、幼い俺に告げる。
『引きこもることは独りの行いであって一人の行いではない』
いつも気楽に笑い、能天気な男だが、この瞬間だけは真剣だったように思う。
『なんかむずかしいね』
『まぁそれについては、また今度詳しく教えてやるさ。なんせ俺らには時間がたくさんあるんだから』
その言葉を最後に、徐々に意識が薄れていった。
そして闇の奥深くに沈んでいた意識がゆっくりと覚醒する。
◆◆◆◆◆◆◆
「ニート、早く起きないと遅刻するよ」
「……ん? アレク兄さん? どうして俺の部屋に?」
ゆっくりと瞼を開くと、視界の右端にアレクが映った。
俺は体を起こし、ベッドの端に腰をかける。
すると兄は見慣れない服を着て、椅子に座っていた。学院の制服だろうか。
ん? 制服?
「あっ……」
「まさかもう学院のことを忘れてたのかい? はぁ、本当に手間がかかる弟だよ」
アレクは軽いため息を吐きながら苦笑した。
「それにしても……ニート、昨日はえらく張り切ったみたいだね」
「まぁね、当分は時間も取れないかもしれないし。今日の対策もしておきたかったから」
自室に転がった資料や魔道具を、アレクは神妙な面持ちで見回している。
俺もただ引きこもっているわけではない。
引きこもり生活をより充実したものにするためには、打ち込める趣味や本気で取り組めることが必要だ。
それが俺にとっては創作活動。自分用に魔術や魔道具を創っている。
趣味も出来て、便利な魔術や魔道具を創ることによって引きこもりの効率も上がる、まさに一石二鳥だ。
「学院で何が起きるか分からないから、念のためにね」
俺にとって、約十年ぶりの屋外だ。
当然、未知の経験は多く、どれだけ準備しておいても足りるということはない。
そのため、昨日は一日かけて色々な便利道具やら魔術やらを創っていた。
「それはそうと、早く準備しないと入学式早々に遅刻するよ?」
「え? まだ二時間もあるけど?」
俺は確認のために時計に目をやる。
「魔術学院は西区域にあるからね。急いでも一時間はかかるんだ」
広大な土地を持つアストリア国の王都は、巨大な城壁に囲まれた城塞都市となっている。
そして東西南北に、大きく四つに区分けされる。
北区域――主に貴族が暮らし、王城や煌びやかで装飾にこだわった大きな屋敷がいくつも並ぶ。
東区域――海に面する特徴を活かし、巨大な市場がいくつも置かれている。
西区域――魔術学院など国家の中枢を担う機関が存在する。
南区域――個性のない似たような平民の住居が建ち並んでいる。
一つの区域をまたぐにはかなりの時間を要する。
アレクの言う通り、王城から魔術学院に向かえば、馬車を使って一時間かかるか、かからないかぐらいだろう。
でもどうして、朝から一時間も馬車に揺られなければならないんだ?
「別に転移魔術を使うから大丈夫だよ」
「は? 転移魔術?」
「うん、いつでも好きなとこに飛べるから、かなり便利なんだよね」
「もしかして……また自分で創ったのかい?」
「別に俺が創ったわけでもないよ。本に載ってたやつだし」
俺はそう言って、近くに転がっていた本をアレクに差し出した。
「これは……伝記?」
「うん、アイザ・ベルタインのね。いやぁ、ほんとに先人の発想は凄いよ」
アイザ・ベルタイン。それは数百年以上前に存在したと言われる伝説の女性冒険者だ。
英雄とも呼ばれることもあるような、まさに冒険者の象徴である。
そんな彼女の伝記だが、転移魔術だったり、空間収納の魔術だったりと俺の引きこもりライフに活かせるものが数多く記されていた。
この本を俺以上に熟読している者はそういないだろう。
アレクは彼女の伝記をめくりながら、誰にも聞こえない声量で唇を震わせる。
「まさかこんな作り話までも現実にするなんて……」
「ん? なんて?」
「い、いや! 何でもないさ!」
何も聞こえなかったので俺が聞き返すと、アレクは首をぶんぶんと左右に振った。
そしてすぐに彼は口にする。
「それよりニートは王城の外に出ないだろう? どうしてそんなものを使おうと思ったんだい?」
「だってトイレ行く時に便利じゃない? トイレからは俺の部屋が一番距離があるからさ」
「……なっ!!」
アレクは絶句した。
俺が何か地雷となるものでも踏んでしまったのだろうか。
俺はすかさず、雰囲気を戻そうと明るい口調で言う。
「も、もちろん普段は使ってないよ!? 運動も必要だし!」
けれどアレクの表情は固いままだった。
彼は真剣な表情で、俺の瞳をしっかりと捉えた状態で告げる。
「ニート、一つだけ僕と約束してほしい」
「約束?」
「絶対にこの転移魔術だけは人前で使わないでほしいんだ」
「分かった」
俺はアレクの言葉に二つ返事で了承した。
兄も俺がこれほど早く承諾するとは思ってもいなかったのだろう。驚いた様子で再び聞いてくる。
「り、理由は聞かなくていいのかい?」
「だって兄さんのことだから。俺のために言ってくれてるんだろ?」
アレク兄さんはいつだって俺の味方でいてくれた。
そんな兄の言葉だ。何を疑う必要があるというのだろうか。
この引きこもり部屋だって、兄しか入れたことはない。
俺の言葉にアレクは一瞬、ポカンと口を開けて驚く。
しかしすぐに、彼は強張っていた頬を緩ませた。
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