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プロローグ

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「イアンが将軍にホの字だという噂がたっています」

 言ってしまえば勢いが付く。
 サーレンが苦し気に咳き込んでいる前でユングは一気に伝えた。

「噂の元凶を秘密裡に処理する事も出来たのですが、イアンは軍に属してはいますが第二王子で王位継承権は破棄していませんし、へんに手を出すとなると、軍と王家に確執が生まれてしまうのではないか、と恐れまして……。そこで、穏便に『何故将軍を見つめているのか』と訊ねましたら、イアンは自覚がなく、どうすべきか悩んでいたら、ここ最近では候補生まで気付き始めまして、どう収拾すれば良いか分からず、本部の人間殆どが将軍を心配しておりまして……イアンが、将軍を熱が篭った目で見つめているものですから、もし将軍が襲われでもしたら……いや、将軍ですから、勿論対処できますけれど、万が一二人がこう、おかしな事になったら……おかしな事と言うのは、肉体関係……話が逸れました、そういう訳で、要職が付いている人間の誰がイアンの事を将軍に告げるか揉めまして、カードゲームをして負けてしまった私が言う事になってしまったんです!」
「ゴホッ、ゴッ、ゴホッ……!」
 
 サーレンはコーヒーを噴き出そうとするも、瞬発力のお陰で噴き出す前に口元を右手で抑えた。そして噴き出す筈だったコーヒーはサーレンの喉に戻る。そのせいで気管に入り込んで激しく咳き込んだ。
 息がつけない程咳き込むと、目の前のユングが動く気配がしてサーレンは息を整いながら手で制してユングを止めた。そうすると彼は、取り出した皺くちゃなハンカチをポケットに押し込む。
 呼吸が安定し、椅子に座り直したサーレンは目の前に立つユングを笑みを浮かべて見上げた。
 
「その噂は、私の秘書の耳にも届いているかい?」
「勿論です」
「でも私の忠実な秘書から何も聞かされていないけど」
「彼は賭けに勝ったんです」
「知ってたのか」
「将軍の右腕と言われている彼ですし、我々より先に将軍と同じタイミングで視線には気が付いていた筈ですし、その視線の主を目にしている筈です」
「でも私に報告はしなかった、と」
「イアンの意図が読めず、将軍に報告できないと」
「まぁ、私に報告する時は確たる証拠を持って言いなさい、と言っているからね」

(私の前で噂の事を悟らせないとは、流石、私の秘書)
  
「イアンが私にホの字っていうのは、何かの間違いでは?」
「普段、表情筋が死んだ男がいつもと違う表情をしていれば誰でも気が付きます。将軍も一度、視線を辿って見てみて下さい」
「確かに、視線には気が付いていた……でも、あの彼だぞ? 私をそんな目で見るかな?」

 イアンは無表情で何を考えているか分からないが、サーレンにとっては実に分かり易い。その目の奥に自分に対する対抗心が見え隠れしていたし、ほんの微表情で自分にライバル心を抱いている事くらい簡単に読み取れた。これは全員が出来る訳ではなく、軍生活が長いサーレンだからこそ出来る技である。イアンと言う男は王族でありながら、軍隊に入隊した。不愛想でコミュニケーション力が欠けているせいで敵は多いが、その反面、好意的な人間も多い。自分だけの力で実績を残し、努力をする彼は評価に値する。サーレンはイアンの事を嫌いではなく、むしろ好意的だった。イアンから好かれてはいないが。

「ライバル心ではないかな?」
「そんな目ではありません!」

 ユングはオーバーに両手を広げた。それから身振り手振りで語り出す。

「将軍はお忙しい方ですし、本部に居る事は稀ではありますが……私はイアンの近くに居ますから、常に様子を見ています。噂が立つ前から様子がおかしかった」
「どのように?」
「ネロペイン帝国から帰って来た彼は、こう……呆ける事が多くなりました。上の空が多いと言いますか。ふと夜空を見上げては、溜息を吐くんです。良いですか、あのイアン・ジョー・グゥインがです! いつも無表情で何を考えているか分からない男がアンニュイなんです」
「アンニュイ?」

「そうです」とユングは勢い良く頷いた。
「そんな彼ですが、任務はそつなくこなしますし、普段と違う様子でしたが周囲は気にも留めませんでした。それが将軍はここ最近は本部に居る事が増え、そこからイアンは一点を見つめる事が多くなりました。──で、現在に至ります」
「私にどうしろと?」
「噂を一蹴して頂きたい」
「話はするとして」

 フー、と息を吐いてサーレンは頬杖を突きながらユングに訊ねた。

「何故、彼は私を熱が篭った目で見つめる、と君たちは思う?」
「それは……」
「私がイアンと話をしたら、その噂が消えるという保証はあるのかい?」

 確かな事は分からずユングは口ごもる。サーレンへ報告する内容は必ず確かな物ではないといけないし、それが何故正しいのか、という証拠を提示、そして提示したとしてもそれを自分の口で説明出来なければ将軍は納得しない。
 その答えが「将軍に惚れている」でも、その証拠を提示出来なければならなかった。ただイアンの顔を見て「将軍に恋しています」ではただの憶測であって、物的証拠でもなんでもないのである。イアンに証言を取ろうにも彼は自覚がないのだ。
 濃い顔が答えを見つける事が出来ずにパーツが中央に寄って行くのを見てサーレンは肩を竦めた。

「自分の目で確かめよう。イアンがいつもと違う様子であるのに私は気が付かなかったしね」

 殺意が含まれていない気配を気にも留めなかった自分にも非がある。
 イアン少尉とは何度も話した事がある。つい最近ではネロペイン帝国からの招待状を受け取ったが自分は不参加となり、その件で彼とは話をした。本人は無表情で感情は読みにくかったものの、よく観察すれば、金色の瞳の奥は「行きたくない」と出ていたし、「しょうがなく行く」という感情が読めた。イアン少尉を「何を考えているか分からない」と殆どの人間は言うが、よく観察すれば、彼は分かり易い部類の人間だ。無表情の下に国王や王太妃への敬意が見える。彼ほど愛国心に溢れた男は居ないし、弱き者に対して力で捻じ伏せるような事は決してしない。と言っても弱い訳ではなく目的の為には手段は選ばない──だから、私は彼に嫌われていても、私はイアンの事を嫌いではなかった。

「視線の先の正体を見てみるよ」
(私に隠し事をしていた秘書とは後でしっかり話すとして)
 
 そう言ったサーレンの言葉を聞いてユングがホッと胸を出下ろしたのが分かった。こういう見るからに分かり易い男も嫌いではない。
 ユングは入ってきた時とは逆にすっきりとした晴れ晴れしい表情をしながら敬礼をして、部屋を出て行き、居なくなった後の扉をじっと眺めながら、執務席の背凭れに寄り掛かって天井を仰いだ。

(人の噂は四十五日と言うし、暫くしたら消えると思うが……)
 自分の目で確認しなけば何とも言えないが……本当にイアンが私に恋をしているのが事実なら、王太妃が知ったら何と言われるかな──……。

 軍隊と王族が束ねる騎士団はお互いの組織に介入しない事を条件に、上手く均衡を保っている。今まで一度たりとも王族が軍に意見を述べた事などないし、その逆も然り。イアンが軍隊へ入隊し、彼が戦地へ送られてもイアンの兄である国王とイアンの義母のジェシカは口出ししてこなかった。しかし、この噂が王太妃の耳に入るか、それとも万が一イアンが戦死したら、二つの組織はどうなるか──……。
 サーレンは王太妃を思い浮かべた。ウェーブがかかった茶色い髪に、海のように碧い瞳、おっとりとした口調で物静か、家族愛が強い女性だ。自分の血が一滴も入っていないイアンを本当の息子と同じように愛し、可愛がっている事は誰でも知っている。彼女は自分の懐に入れた人間は階級関係なく愛し、守る。しかし、私──エリオット・サーレンは誰よりも王太妃に嫌われている。

(その事実は誰も知らない……)

 二人に何があったのか、サーレンとジェシカの口からも語られる事は絶対にないだろう。
 王族のジェシカから嫌われている人間が軍隊のトップへ立ってからも騎士団と軍隊がこうして別組織としていがみ合う事なく成り立っていられるのは、ジェシカがサーレンの事を嫌っていたとて、軍とサーレンは別物として、切り離して考えられるような良識がある人間だからだ。

 サーレンの睫毛が目下に影を作り、琥珀色の瞳が寂し気に歪んだが、それはほんの一瞬だった。いつもの柔和な顔つきの彼がそこに居た。
「良し」と呟いて、サーレンはテーブルに溜まった書類を一枚手に取って、事務作業に没頭する事にしたのだった。
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