上 下
67 / 72
第一章

結婚記念日前日 ⑤

しおりを挟む
「礼を言うのを忘れていた」
「いや、さっき言ったじゃん」
 シェルフはソバカスだらけの顔を顰めた。その視線の先でイアンが「それとは違う」と首を横に振る。
「昨日、ちゃんと話し合え、って言ってくれたな。あの言葉がなければ俺はオリヴィアの話を最後まで聞かずに最悪な結末を迎えていたに違いない。あの言葉を掛けられたから、オリヴィアと正面切って向かい合う事が出来た。助かった」
 イアンはシェルフに頭を下げた。自分にアドバイスをする人間はシェルフが初めてだった。
「そんなたいしたこと言ってねぇし」
「あの言葉がなければオリヴィアは俺と離婚したがっていると思い込んだままだっただろう」
「あ、頭を上げろよ」
 ゆっくりと顔を上げると、耳まで赤くしたシェルフの顔があった。シェルフは誤魔化すように咳払いをして、頬をポリポリと掻いた。
「でも、まぁ……上手く行ったようで良かったよ」
(童貞卒業おめでとう)
 心の中でシェルフはそう祝いの言葉をかけた。
「なぁ。上手く行ったお礼にさ。今度飲みに行こうぜ」
 イアンとこんなに長時間も会話したのは実は昨日からである。距離が縮まった気がしてシェルフはイアンを誘った。頬杖をついてイアンに顔を向ける。
「いかない」
 しかし断られてしまい、ガクッとバランスを崩してしまった。
「オリヴィアの顔をすぐにでも見たいからな」
 口元を緩ませながら惚気だしたイアンに「はいはい」とシェルフは言った。その惚気に当たりそうで、すぐ様目を逸らす。暫くは独身を謳歌したいのに兄と姉のように結婚をするよう母親から結婚を急かされているから、一人くらいお見合いをしても良いかもしれない、という気分になってきてしまう。
「だから」
 会話は終わっていなかったらしい。視線を逸らしていたものの、シェルフはイアンに顔を向けた。
「シェルフを今度、俺の邸に招待しよう。もてなすよ」
 ──初めて名前を呼ばれたことにシェルフは思わず感動してしまう。
 穏やかに笑ったイアンの顔は、今まで自分が見てきたものとは違って、心の底からの笑みだった。つい嬉しくなってしまって返答が遅れてしまう。
「いやか?」
「嫌じゃねぇよ……! グェイン公爵家へ行く時は正装した方が良いか?」
「普通で構わんが」
 何を言っているんだ、と不思議そうに首を傾げたイアンにシェルフは「そうか」と変に声が上擦ってしまった。
 男爵の自分が公爵家、しかも国の英雄との邸に招待されたなんて知ったら、両親と兄と姉は驚くし悔しがるだろう──むしろ、褒めてくれるだろうか。騎士の家系に生まれながらもシェルフは騎士団へ入団せず軍へ入隊した。騎士団の品行方正な空気が苦手だったからだ。兵士ではない理由は、入隊試験で学科試験の点数が首位だったからだ。
(実家に帰ったら、クソ兄貴に自慢してやろう)
 ただの一騎士の兄貴は、王族のプライベートゾーンに足を運ぶ事ないんだから。
 どうしようもなく嬉しくて口元がニヤついてしまうのを隠すように彼は俯いた。
 だが、シェルフの嬉しさは王族に招待されたから、というよりもイアンに招待された、という思いの方が強かった。
「明日は最高の結婚記念日を迎えろよ」
 とイアンに声を掛ける。すると「もちろんだ」という返事が笑みと共に返ってきた。その笑顔に満足してシェルフもニッと白い歯を見せて笑った。

 
 ──そんな穏やかな時間を裂くように、荒い靴音が近付いてくる音が聞こえた。その音があまりにも慌てた様子だった為、経理課の人間全員が顔を上げて見合わせる。イアンも例外ではなく、顔を上げた。
 戦争が終わり、廊下を慌てて走る軍人は居なくなった。平和の世で上長に緊急に伝えるような用件がないからだ。その足音が経理課の前で止まったと思えば同時に扉が激しく開いた。そこから転がるように入ってきたのは燕尾服を着た若い男だった。
「ジェスじゃないか。どうした?」
 彼は執事見習いでジュレックの息子だ。
 ハァハァ呼吸をしながら膝を折って項垂れているジェスの元にイアンは駆け寄った。シェルフもまた「大丈夫か?」とジェスに近寄って彼に水を渡しす。普通ではない状況に経理課全員が彼を心配して近寄った。
「お、おおおお」
 シャツは汗まみれで、髪の毛が汗のせいでペチャンコである。ジェスはうまく言葉を発せられず、ずっと吃ってばかりで上手く言葉が発せられないようだ。
「大丈夫か? 何かあったのか?」
 只事ではない様子に、イアンは腰を下ろしてジェスを心配した。職場に来た、というのはよっぽどの事があった、という事だ──……。
 シェルフから貰った水をゴクゴクと飲んで喉を潤してから、ジェスは震えながら隣に腰を下ろした雇い主を見た。
「父から至急のようけ、んのこ、言伝を、たのまれ……馬はし、らせ、グェイン公爵家のつか、い、だと、言って、軍基地に入る事をゆる、されました」
「それはいいから……何かあったのか? オリヴィアの身に何かあったのか?」
 ジェスの顔色が真っ蒼に染まる。それを見てイアンは息を呑んだ。
 
 今朝、オリヴィアに直接「愛してる」と言えていない。
「行ってきます」も言えてなかった。毎朝欠かさず伝えている事を、オリヴィアをゆっくり寝させる為、という理由で──……。

 ドクドクと鼓動が早い。思わず自分の胸を掴む。言葉が発せずにいると、ジェスは息を吸い込んで──声を上げた。
 
「お、お、奥様が家出をされました……!」

しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

真面目系眼鏡女子は、軽薄騎士の求愛から逃げ出したい。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,431pt お気に入り:246

【R18】素直になれない白雪姫には、特別甘い毒りんごを。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,008pt お気に入り:64

夜の帝王の一途な愛

恋愛 / 完結 24h.ポイント:3,116pt お気に入り:86

婚約破棄?私には既に夫がいますが?

恋愛 / 完結 24h.ポイント:47,264pt お気に入り:820

【完】今流行りの婚約破棄に婚約者が乗っかり破棄してきました!

恋愛 / 完結 24h.ポイント:434pt お気に入り:1,973

いつから魔力がないと錯覚していた!?

BL / 連載中 24h.ポイント:18,486pt お気に入り:10,481

堅物監察官は、転生聖女に振り回される。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,808pt お気に入り:153

処理中です...