10 / 28
10
しおりを挟む
「……信じられませんわ。九九の七の段で三日も停滞しているなんて。ベルセルク王国の教育水準はどうなっているのかしら」
私は、ルークから提出された「王国・定点観測報告書」を読みながら、深いため息をつきました。
手元にあるのは、王立修道院付属学校へ強制入学させられたリリアンさんの近況報告です。
『リリアン嬢、七×六(しちろく)を「バナナ」と回答。教師が卒倒』
そんな一文を読み、私はこめかみを押さえました。フルーツで空腹を満たすのは結構ですが、解答欄を満たすのはやめていただきたいものです。
「マリーナ様。彼女にとっては、数字そのものが未知の言語に近いのかもしれません。何しろ、これまで『涙』という通貨ですべてを解決してきた方ですから」
ルークが、苦笑いを浮かべながらお代わりの紅茶を淹れてくれました。
「涙のレートは暴落しましたのにね。……さて、エドワード様の方は?」
「そちらも順調に追い詰められています。融資した金貨一万枚は、滞納されていた軍の給料と、マリーナ様が停止させた魔導システムの修復費用で、ほぼ一瞬にして消えたようです」
私はフッと、口角を上げました。
一度止まったシステムを素人がいじれば、さらに複雑なバグを生むだけです。
私が仕掛けた「三重複合暗号」は、無理に解こうとすればするほど、メンテナンス費用が倍々ゲームで膨らむ仕様なのですから。
「……自業自得ですわね。さて、暗い話はここまで。ルーク、次の議題は?」
私が姿勢を正すと、背後の扉が開き、ラインハルト様が颯爽と入ってきました。
「次の議題は、君の『休日』についてだ。マリーナ」
「ラインハルト様。休日……ですか? ですが、まだ帝都の物流拠点の関税計算が……」
「それは私が終わらせた。君の部下たち……通称『マリーナ教』の信徒たちも、君に休んでほしいと泣いて訴えていたよ」
ラインハルト様は私の隣に座ると、当然のような顔をして私の腰を引き寄せました。
「働きすぎだ。今日は帝都で一番の劇場を貸し切りにしてある。その後は、港を望むレストランでディナーだ」
「……劇場を貸し切り? ラインハルト様、それは経済的観点から見て、非常にコスパが悪いのでは……」
「マリーナ。たまには『損得』ではなく『感情』で動いてくれないか」
ラインハルト様は困ったように笑い、私の頬をそっと撫でました。
その指先から伝わる熱に、私の冷静な計算機が、少しだけ誤作動を起こします。
「……わかりましたわ。そこまで仰るなら、一日の休養がもたらす翌日以降の生産性向上に期待して、お供いたしますわ」
「ハハッ、最後まで可愛くない言い回しだな。……だが、そこがいい」
劇場へ向かう馬車の中、街の人々がラインハルト様に歓声を送っていました。
そしてその隣に座る私にも、「新しい秘書官様だ!」「あの有能な女神様万歳!」という不思議な声援が飛びます。
どうやら私の「ホワイト職場改革」の噂は、宮殿を飛び出して街の商人たちの間にまで広がっているようです。
「……なんだか、恥ずかしいですわね。女神だなんて」
「君が来てから、帝国の事務処理速度は三割向上し、不正支出は五割減った。商売人たちにとって、君は福の神も同然だよ」
ラインハルト様は、私の手を握り、真剣な眼差しで見つめてきました。
「マリーナ。私は君の能力を愛しているが、それ以上に、君という人間そのものを……」
「あ、ラインハルト様! 見てください、あの看板のフォント! 視認性が悪くて客足が鈍っているはずですわ。後でアドバイスの親書を……」
「……マリーナ。今は仕事の話はやめようと言っただろう?」
ラインハルト様が脱力したように肩を落としました。
(……あら。私、またやってしまいましたかしら?)
前の国では、休日にエドワード様と出かけても、結局「リリアンの荷物持ち」か「出先でのトラブル解決」ばかりでした。
こうして「私自身の楽しみ」のために用意された時間というものに、私はまだ慣れていないのかもしれません。
「……すみません、ラインハルト様。私、楽しい時間の過ごし方を、少し忘れてしまっていたようですわ」
私が小さく俯くと、ラインハルト様は優しく私の顎を持ち上げました。
「なら、これから私が一生をかけて教えてあげよう。……まずは、この劇場の特等席で、君を主役にする契約から始めようか」
カーテンが開き、オーケストラの演奏が始まります。
優雅な調べの中で、私は初めて、肩の力がふっと抜けるのを感じました。
一方で。
ベルセルク王国の修道院学校では、深夜までリリアンさんの叫び声が響いていました。
「いやぁあああ! 足し算なんて嫌いですぅ! どうしてイチゴ一個とイチゴ一個を足さなきゃいけないんですかぁ! 二個あるなら、すぐに食べればいいだけじゃないですかぁぁぁ!」
「リリアン様、お静かに! 次は『繰り上がり』の練習です!」
「繰り上がり!? 怖い言葉ですぅ! 化け物ですかぁぁ!」
エドワード様も、リリアンさんを助けるどころか、自分自身の不渡り寸前の家計簿を前に、真っ白な灰になっていました。
彼らが失ったのは、単なる事務官ではありません。
彼らの人生を支えていた、唯一の「現実という名の柱」を、彼らは自らの手でへし折ったのです。
私は、隣国の甘い空気を吸いながら、心地よい音楽に身を任せました。
(……幸せですわね、ラインハルト様)
心の中の計算機が、ようやく「幸福度:計測不能」というエラーを弾き出した、そんな夜でした。
私は、ルークから提出された「王国・定点観測報告書」を読みながら、深いため息をつきました。
手元にあるのは、王立修道院付属学校へ強制入学させられたリリアンさんの近況報告です。
『リリアン嬢、七×六(しちろく)を「バナナ」と回答。教師が卒倒』
そんな一文を読み、私はこめかみを押さえました。フルーツで空腹を満たすのは結構ですが、解答欄を満たすのはやめていただきたいものです。
「マリーナ様。彼女にとっては、数字そのものが未知の言語に近いのかもしれません。何しろ、これまで『涙』という通貨ですべてを解決してきた方ですから」
ルークが、苦笑いを浮かべながらお代わりの紅茶を淹れてくれました。
「涙のレートは暴落しましたのにね。……さて、エドワード様の方は?」
「そちらも順調に追い詰められています。融資した金貨一万枚は、滞納されていた軍の給料と、マリーナ様が停止させた魔導システムの修復費用で、ほぼ一瞬にして消えたようです」
私はフッと、口角を上げました。
一度止まったシステムを素人がいじれば、さらに複雑なバグを生むだけです。
私が仕掛けた「三重複合暗号」は、無理に解こうとすればするほど、メンテナンス費用が倍々ゲームで膨らむ仕様なのですから。
「……自業自得ですわね。さて、暗い話はここまで。ルーク、次の議題は?」
私が姿勢を正すと、背後の扉が開き、ラインハルト様が颯爽と入ってきました。
「次の議題は、君の『休日』についてだ。マリーナ」
「ラインハルト様。休日……ですか? ですが、まだ帝都の物流拠点の関税計算が……」
「それは私が終わらせた。君の部下たち……通称『マリーナ教』の信徒たちも、君に休んでほしいと泣いて訴えていたよ」
ラインハルト様は私の隣に座ると、当然のような顔をして私の腰を引き寄せました。
「働きすぎだ。今日は帝都で一番の劇場を貸し切りにしてある。その後は、港を望むレストランでディナーだ」
「……劇場を貸し切り? ラインハルト様、それは経済的観点から見て、非常にコスパが悪いのでは……」
「マリーナ。たまには『損得』ではなく『感情』で動いてくれないか」
ラインハルト様は困ったように笑い、私の頬をそっと撫でました。
その指先から伝わる熱に、私の冷静な計算機が、少しだけ誤作動を起こします。
「……わかりましたわ。そこまで仰るなら、一日の休養がもたらす翌日以降の生産性向上に期待して、お供いたしますわ」
「ハハッ、最後まで可愛くない言い回しだな。……だが、そこがいい」
劇場へ向かう馬車の中、街の人々がラインハルト様に歓声を送っていました。
そしてその隣に座る私にも、「新しい秘書官様だ!」「あの有能な女神様万歳!」という不思議な声援が飛びます。
どうやら私の「ホワイト職場改革」の噂は、宮殿を飛び出して街の商人たちの間にまで広がっているようです。
「……なんだか、恥ずかしいですわね。女神だなんて」
「君が来てから、帝国の事務処理速度は三割向上し、不正支出は五割減った。商売人たちにとって、君は福の神も同然だよ」
ラインハルト様は、私の手を握り、真剣な眼差しで見つめてきました。
「マリーナ。私は君の能力を愛しているが、それ以上に、君という人間そのものを……」
「あ、ラインハルト様! 見てください、あの看板のフォント! 視認性が悪くて客足が鈍っているはずですわ。後でアドバイスの親書を……」
「……マリーナ。今は仕事の話はやめようと言っただろう?」
ラインハルト様が脱力したように肩を落としました。
(……あら。私、またやってしまいましたかしら?)
前の国では、休日にエドワード様と出かけても、結局「リリアンの荷物持ち」か「出先でのトラブル解決」ばかりでした。
こうして「私自身の楽しみ」のために用意された時間というものに、私はまだ慣れていないのかもしれません。
「……すみません、ラインハルト様。私、楽しい時間の過ごし方を、少し忘れてしまっていたようですわ」
私が小さく俯くと、ラインハルト様は優しく私の顎を持ち上げました。
「なら、これから私が一生をかけて教えてあげよう。……まずは、この劇場の特等席で、君を主役にする契約から始めようか」
カーテンが開き、オーケストラの演奏が始まります。
優雅な調べの中で、私は初めて、肩の力がふっと抜けるのを感じました。
一方で。
ベルセルク王国の修道院学校では、深夜までリリアンさんの叫び声が響いていました。
「いやぁあああ! 足し算なんて嫌いですぅ! どうしてイチゴ一個とイチゴ一個を足さなきゃいけないんですかぁ! 二個あるなら、すぐに食べればいいだけじゃないですかぁぁぁ!」
「リリアン様、お静かに! 次は『繰り上がり』の練習です!」
「繰り上がり!? 怖い言葉ですぅ! 化け物ですかぁぁ!」
エドワード様も、リリアンさんを助けるどころか、自分自身の不渡り寸前の家計簿を前に、真っ白な灰になっていました。
彼らが失ったのは、単なる事務官ではありません。
彼らの人生を支えていた、唯一の「現実という名の柱」を、彼らは自らの手でへし折ったのです。
私は、隣国の甘い空気を吸いながら、心地よい音楽に身を任せました。
(……幸せですわね、ラインハルト様)
心の中の計算機が、ようやく「幸福度:計測不能」というエラーを弾き出した、そんな夜でした。
1
あなたにおすすめの小説
《完結》「パパはいますか?」ある日、夫に似た子供が訪ねて来た。
ヴァンドール
恋愛
嫁いですぐに夫は戦地に赴いた。すると突然一人の男の子が訪ねて来た「パパはいますか?」
その子供の顔は戦地に行った夫にそっくりだった。
白い結婚をご希望ですか? 良いですよ。私はジャガイモと筋肉を育てますので!
松本雀
恋愛
「……いいか、エルゼ。あらかじめ言っておくが、私は君を愛するつもりはない」
「願ったり叶ったりです! 実は私、国境警備隊に幼馴染の恋人がいまして。この結婚が決まった時、二人で『体は売っても心は売らない』って涙ながらに誓い合ったんです。閣下が愛してくださらないなら、私の貞操も守られます! ありがとうございます、公爵閣下!」
「……こいびと?」
◆
「君を愛するつもりはない」
冷徹な公爵ギルベルトが新婚初夜に放った非情な宣告。しかし、新妻エルゼの反応は意外なものだった。
「よかった! 実は私、国境警備隊に恋人がいるんです!」
利害が一致したとばかりに秒速で就寝するエルゼ。彼女の目的は、愛なき結婚生活を隠れ蓑に、恋人への想いを込めた「究極のジャガイモ」を育てることだった!
公爵家の庭園を勝手に耕し、プロテインを肥料にするエルゼに、最初は呆れていたギルベルト。だが、彼女のあまりにフリーダムな振る舞いと、恋人への一途(?)な情熱を目の当たりにするうち、冷徹だった彼の心(と筋肉)に異変が起き始めて……!?
婚約破棄から50年後
あんど もあ
ファンタジー
王立学園の卒業パーティーで、王子が婚約者に婚約破棄を宣言した。王子は真に愛する女性と結ばれ、めでたしめでたし。
そして50年後、王子の孫の王子は、婚約破棄された女性の孫と婚約する事に。そこで明かされた婚約破棄の真実とは。
二度目の子育て~我が子を可愛がったら溺愛されました
三園 七詩
恋愛
私は一人娘の優里亜の母親だった。
優里亜は幼い頃から体が弱く病院でほとんどの時間を過ごしていた。
優里亜は本が好きでよく私にも本の話をしてくれた。
そんな優里亜の病状が悪化して幼くして亡くなってしまう。
絶望に打ちひしがれている時事件に巻き込まれ私も命を落とした。
そして気がつくと娘の優里亜が大好きだった本の世界に入り込んでいた。
〈完結〉【書籍化&コミカライズ】悪妃は余暇を楽しむ
ごろごろみかん。
恋愛
「こちら、離縁届です。私と、離縁してくださいませ、陛下」
ある日、悪妃と名高いクレメンティーナが夫に渡したのは、離縁届だった。彼女はにっこりと笑って言う。
「先日、あなた方の真実の愛を拝見させていただきまして……有難いことに目が覚めましたわ。ですので、王妃、やめさせていただこうかと」
何せ、あれだけ見せつけてくれたのである。ショックついでに前世の記憶を取り戻して、千年の恋も瞬間冷凍された。
都合のいい女は本日で卒業。
今後は、余暇を楽しむとしましょう。
吹っ切れた悪妃は身辺整理を終えると早々に城を出て行ってしまった。
謹んで、婚約破棄をお受けいたします。
パリパリかぷちーの
恋愛
きつい目つきと素直でない性格から『悪役令嬢』と噂される公爵令嬢マーブル。彼女は、王太子ジュリアンの婚約者であったが、王子の新たな恋人である男爵令嬢クララの策略により、夜会の場で大勢の貴族たちの前で婚約を破棄されてしまう。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる