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「……ふぅ。これで、バルカス侯爵たちが隠蔽していた裏帳簿の照合も完了ですわ」
深夜の執務室。私は最後に一枚の書類へサインを入れ、ペンを置きました。
静まり返った室内には、温かなランプの光と、淹れたてのハーブティーの香りが漂っています。
「お疲れ様、マリーナ。君が来てからというもの、帝国の膿が驚くべき速さで吸い出されていくよ」
ソファで同じく書類を読んでいたラインハルト様が、立ち上がって私の隣に歩み寄りました。
「当然のことですわ。私はあなたの『筆頭秘書官』として、最高の成果を出すと契約しておりますもの」
「……契約、か。君は本当に、その言葉が好きだな」
ラインハルト様は苦笑しながら、私の肩を優しく揉み解しました。
その大きな手のひらから伝わる熱に、私の心臓が、少しだけ「非合理的な鼓動」を刻みます。
「マリーナ。一つ、真面目な相談があるんだ」
「相談? ……またどこかの貴族が、予算の使い道を誤魔化しましたの?」
私はすぐに身構えてバインダーを手に取りましたが、ラインハルト様はその手を優しく制しました。
「いいえ。仕事の話ではないんだ。……いや、ある意味では最大の『案件』かもしれない」
ラインハルト様は私の正面に立ち、その氷のように美しい青い瞳で、私を真っ直ぐに見つめました。
「君を帝国に招いてから、私は確信した。私の隣に立つべきなのは、君しかいないと」
「……それは、秘書官として、という意味かしら?」
「最初はそうだった。君の才能を手に入れたい、その一心だった。だが今は違う。……君のその冷徹なまでの合理性も、仕事を楽しむ笑顔も、すべてを私だけのものにしたい」
ラインハルト様が、私の手を取り、跪きました。
(……あら。この構図、前回の『引き抜き交渉』の時にも見ましたわね。デジャヴかしら?)
私の脳内の計算機が、状況を分析しようと高速回転を始めます。
「マリーナ・フォン・アデレード。……秘書官としての有期契約を、今この瞬間をもって破棄したい」
「えっ……クビ、ですの!? 私、何かミスを……!」
「話を聞いてくれ。……代わりに、新しく『帝国王太子妃』としての終身雇用契約を結んでほしいんだ」
「………………はい?」
私は思わず、間の抜けた声を出してしまいました。
王太子妃。それはつまり、ラインハルト様との結婚。
「給与は帝国の国家予算の一定割合。福利厚生は私の全人格による溺愛。勤務地は私の隣。……期間は、どちらかの命が尽きるまでだ。異議はあるかな?」
ラインハルト様は、悪戯っぽく、けれど最高に情熱的な笑みを浮かべて私の指先に唇を寄せました。
「……ラインハルト様。その契約、あまりにも私に有利すぎませんか? リスク管理の面から言っても……」
「君という存在を手に入れられるなら、帝国にとってそれ以上の利益はない。……返答を聞かせてくれ、マリーナ」
私は、熱くなる顔を隠すように扇子で口元を覆いました。
(……計算、終了。……結論:この契約を断る理由は、存在しませんわ)
「……わかりましたわ。ただし、契約書の条項に一つ、付け加えさせていただいてもよろしいかしら?」
「なんだい? どんな条件でも飲もう」
「『妃になっても、執務室での仕事は続けさせていただくこと』。……私、あなたを支えるお仕事が、大好きなんですの」
ラインハルト様は一瞬驚いたように目を見開き、その後、堪えきれないといった風に笑い声を上げました。
「……ハハッ! 君らしいな。ああ、約束しよう。君は一生、私の最強のパートナーだ」
ラインハルト様が私を抱き寄せ、深く、甘い口づけを落としました。
一方で、その頃。
ベルセルク王国のエドワード様は、真っ暗な執務室で一人、頭を抱えていました。
「……おかしい。一足す一が『三』にならないと、リリアンへのプレゼント代が捻出できないんだ。マリーナなら、どこからか魔法のように予算を生み出していたのに……!」
「殿下……。それは魔法ではなく、マリーナ様が必死に節約と運用を繰り返していた結果です……。もう、我が国の国庫はマイナス一億を超えました……」
「リリアン! お前、算数ドリルはどうした!」
「えぇーん! エドワード様ぁ! 数字が……数字が私をいじめるんですぅ! 『8』が横に倒れて、無限(∞)の地獄を見せてくるんですぅ!」
もはや、王国は経済崩壊を待つばかりの「沈みゆく泥舟」となっていました。
私はラインハルト様の胸の中で、遠い空の下にある「ブラック企業」に、静かに別れを告げたのでした。
深夜の執務室。私は最後に一枚の書類へサインを入れ、ペンを置きました。
静まり返った室内には、温かなランプの光と、淹れたてのハーブティーの香りが漂っています。
「お疲れ様、マリーナ。君が来てからというもの、帝国の膿が驚くべき速さで吸い出されていくよ」
ソファで同じく書類を読んでいたラインハルト様が、立ち上がって私の隣に歩み寄りました。
「当然のことですわ。私はあなたの『筆頭秘書官』として、最高の成果を出すと契約しておりますもの」
「……契約、か。君は本当に、その言葉が好きだな」
ラインハルト様は苦笑しながら、私の肩を優しく揉み解しました。
その大きな手のひらから伝わる熱に、私の心臓が、少しだけ「非合理的な鼓動」を刻みます。
「マリーナ。一つ、真面目な相談があるんだ」
「相談? ……またどこかの貴族が、予算の使い道を誤魔化しましたの?」
私はすぐに身構えてバインダーを手に取りましたが、ラインハルト様はその手を優しく制しました。
「いいえ。仕事の話ではないんだ。……いや、ある意味では最大の『案件』かもしれない」
ラインハルト様は私の正面に立ち、その氷のように美しい青い瞳で、私を真っ直ぐに見つめました。
「君を帝国に招いてから、私は確信した。私の隣に立つべきなのは、君しかいないと」
「……それは、秘書官として、という意味かしら?」
「最初はそうだった。君の才能を手に入れたい、その一心だった。だが今は違う。……君のその冷徹なまでの合理性も、仕事を楽しむ笑顔も、すべてを私だけのものにしたい」
ラインハルト様が、私の手を取り、跪きました。
(……あら。この構図、前回の『引き抜き交渉』の時にも見ましたわね。デジャヴかしら?)
私の脳内の計算機が、状況を分析しようと高速回転を始めます。
「マリーナ・フォン・アデレード。……秘書官としての有期契約を、今この瞬間をもって破棄したい」
「えっ……クビ、ですの!? 私、何かミスを……!」
「話を聞いてくれ。……代わりに、新しく『帝国王太子妃』としての終身雇用契約を結んでほしいんだ」
「………………はい?」
私は思わず、間の抜けた声を出してしまいました。
王太子妃。それはつまり、ラインハルト様との結婚。
「給与は帝国の国家予算の一定割合。福利厚生は私の全人格による溺愛。勤務地は私の隣。……期間は、どちらかの命が尽きるまでだ。異議はあるかな?」
ラインハルト様は、悪戯っぽく、けれど最高に情熱的な笑みを浮かべて私の指先に唇を寄せました。
「……ラインハルト様。その契約、あまりにも私に有利すぎませんか? リスク管理の面から言っても……」
「君という存在を手に入れられるなら、帝国にとってそれ以上の利益はない。……返答を聞かせてくれ、マリーナ」
私は、熱くなる顔を隠すように扇子で口元を覆いました。
(……計算、終了。……結論:この契約を断る理由は、存在しませんわ)
「……わかりましたわ。ただし、契約書の条項に一つ、付け加えさせていただいてもよろしいかしら?」
「なんだい? どんな条件でも飲もう」
「『妃になっても、執務室での仕事は続けさせていただくこと』。……私、あなたを支えるお仕事が、大好きなんですの」
ラインハルト様は一瞬驚いたように目を見開き、その後、堪えきれないといった風に笑い声を上げました。
「……ハハッ! 君らしいな。ああ、約束しよう。君は一生、私の最強のパートナーだ」
ラインハルト様が私を抱き寄せ、深く、甘い口づけを落としました。
一方で、その頃。
ベルセルク王国のエドワード様は、真っ暗な執務室で一人、頭を抱えていました。
「……おかしい。一足す一が『三』にならないと、リリアンへのプレゼント代が捻出できないんだ。マリーナなら、どこからか魔法のように予算を生み出していたのに……!」
「殿下……。それは魔法ではなく、マリーナ様が必死に節約と運用を繰り返していた結果です……。もう、我が国の国庫はマイナス一億を超えました……」
「リリアン! お前、算数ドリルはどうした!」
「えぇーん! エドワード様ぁ! 数字が……数字が私をいじめるんですぅ! 『8』が横に倒れて、無限(∞)の地獄を見せてくるんですぅ!」
もはや、王国は経済崩壊を待つばかりの「沈みゆく泥舟」となっていました。
私はラインハルト様の胸の中で、遠い空の下にある「ブラック企業」に、静かに別れを告げたのでした。
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