覚えのない罪で婚約破棄、なぜか隣国の王太子に気に入られた

ちゅんりー

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ノイシュタット帝国の朝は、今日も今日とて平和そのものでした。


……ですが、私の心の中には、かつてないほどの激震が走っていたのです。


「……ラインハルト様。今、なんと仰いましたの?」


私は、執務室に現れた婚約者……もとい、最愛の上司であるラインハルト様を二度見しました。


「聞こえなかったかな? 今日から三日間、君には『完全休暇』を命じる、と言ったんだ」


ラインハルト様は、まるで国家の重大な決定を下すときのような真剣な面持ちで、私に告げました。


「完全、休暇……。それは、午前中に書類を片付け、午後に視察を兼ねた市場調査へ行く、といったスケジュールですわね?」


「違う。仕事、視察、調査、その他『経済効果に関わる一切の思考』を禁止する。それが私の条件だ」


ラインハルト様が指を鳴らすと、控えていたルークが私の机の上にある万年筆と、書きかけの予算案を、まるで爆弾を扱うような手つきで撤去していきました。


「あ、ああっ! 私の大切な武器が! ルーク、それを返してちょうだい! まだ第二条項の修正が終わっていないのよ!」


「すみません、マリーナ様! これは殿下からの絶対命令なんです!」


「ルーク、よくやった。……さあマリーナ。君を、仕事の概念が存在しない『静寂の湖畔』へ連れて行こう」


私は、絶望のあまりその場に膝をつきそうになりました。


仕事がない三日間。それは、呼吸を止めて三日間過ごせと言われているのと同義です。


「……恐ろしい。ラインハルト様、さては私を甘やかして、仕事の勘を鈍らせるつもりですわね? なんという高度な計略……!」


「君は本当に、幸せにされることを『攻撃』だと捉える癖を直した方がいいな」


ラインハルト様は苦笑しながら、私の手を取って強引に立たせました。


連れて行かれたのは、帝都から馬車で数時間の場所にある、王家所有の別荘でした。


鏡のように静かな湖。周囲を囲む深い森。鳥のさえずり。


「……ラインハルト様。ここの木材、非常に良質ですわね。伐採して輸出すれば、かなりの外貨獲得が見込めるのでは?」


「マリーナ、一分も経たないうちに商売の話に戻るのはやめろ」


「では、あの湖。魚影が濃いようですけれど、養殖事業を立ち上げれば近隣の村の雇用が……」


「……マリーナ。座れ。そして空を見ろ」


ラインハルト様に促され、私はデッキチェアに腰を下ろしました。


何も書かれていない真っ青な空。流れる白い雲。


数分間、沈黙が続きました。


(……落ち着きませんわ。ああ、何かにサインしたい。この湖の利用規約でもいいから、承認の印鑑を押したい……!)


私の指が、エア万年筆を動かそうと虚空を彷徨います。


それを見ていたラインハルト様が、私の隣に座り、その大きな手で私の手を優しく包み込みました。


「……マリーナ。君はこれまで、自分の価値を『成果』でしか測ってこなかったんだろう?」


「……成果を出さない人間に、生きる価値などありませんもの。私は、前の国でそう教えられ、そう扱われてきましたわ」


私の言葉に、ラインハルト様の手が少しだけ強く握られました。


「それは間違っている。君が何も生み出さず、ただここで眠り、美味しいものを食べ、笑っている。……それだけで、私にとっては天文学的な価値があるんだ」


「……天文学的、ですか。それは……金貨何枚分くらいかしら」


「……プライスレスだと言っているんだ、この仕事中毒」


ラインハルト様は私の額にコツンと自分の額を合わせました。


彼の氷のような瞳が、今は太陽よりも熱く私を焦がしています。


「三日間、何もしなくても世界は滅びない。私が滅ばせない。だから、君はただの『マリーナ』として、私の隣にいてくれればいい」


その言葉が、私の心の奥底に沈んでいた「重い重り」を、ふわりと浮かび上がらせたような気がしました。


「……わかりましたわ。そこまで仰るなら、全力で『何もしない』を完遂してみせます」


「ああ、期待しているよ。……ただし、寝言で予算案を唱えるのは禁止だぞ?」


私たちは、湖を眺めながら、ゆっくりと流れる時間を共有しました。


生まれて初めて、数字ではない「美しさ」を、私は心から受け入れることができたのです。


……その頃、ベルセルク王国の王都では。


「あぁぁぁ! 湖畔の別荘!? マリーナ様が、隣国の皇太子とバカンス中だとぉぉ!」


エドワード様は、諜報員からの報告書を読み、執務室の壁に頭を打ち付けていました。


「マリーナ様は、ラインハルト殿下に膝枕をされながら、優雅に最高級の果物を召し上がっていたそうです……」


「嘘だぁぁ! あいつは俺の隣で、血を吐きながら書類を片付けている時が一番輝いていたはずだぁぁぁ!」


「いえ、殿下。……報告によれば、マリーナ様はこれまで見たこともないような、柔らかい『女の顔』をされていたそうで……」


「ぐはっ……!」


エドワード様は吐血せんばかりの衝撃を受け、その場に崩れ落ちました。


彼の足元には、リリアンさんが書いた「迷路のような謎の地図」が散乱しています。


「エドワード様ぁ、お腹すきましたぁ! パン屋さんが『ツケでは売れない』って意地悪するんですぅ!」


「リリアン……。パンはもうない。……俺たちの『信用』という名のパンは、もうどこにも残っていないんだ……」


王国の国債は、ついに紙クズ同然の価値まで暴落していました。


私は、ラインハルト様が剥いてくれたリンゴを一口食べ、その甘さに目を細めました。


「……美味しいですわ、ラインハルト様」


「だろう? 君が笑うと、リンゴの糖度も上がる気がするよ」


「まあ、それは非科学的な発言ですわね。……でも、嫌いではありませんわ」


私は幸せな溜息をつき、静かに目を閉じました。


初めて知った「人間らしい生活」。その尊さを噛み締めながら、私はホワイトな幸福に、どっぷりと浸かるのでした。
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