覚えのない罪で婚約破棄、なぜか隣国の王太子に気に入られた

ちゅんりー

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ベルセルク王国の王太子執務室。かつてそこは、この国で最も効率的に、そして迅速に意思決定が行われる「心臓部」でした。


しかし、現在のその場所を一言で表すならば――「紙クズの墓場」です。


「……おい、リリアン。この『東部領主からの補助金申請書』、どこに分類すればいいんだ?」


エドワード様が、引き攣った笑顔で、目の前にそびえ立つ紙の山を見上げました。


その山は、彼の座る椅子の背もたれを優に超え、今にも崩落の危機を迎えています。


「えぇー? 補助金って、お小遣いのことですよねぇ? だったら『楽しいこと』の箱に入れちゃえばいいんじゃないですかぁ?」


リリアンさんは、豪華なソファでくつろぎながら、マリーナが以前使っていた「至急案件」の箱に、食べ終えたチョコレートの包み紙を放り込みました。


「……リリアン、それはもう三回やった。だが、その箱に入れた書類は、なぜか翌朝になっても片付いていないんだ」


「不思議ですねぇ。マリーナ様がいた時は、寝て起きたら全部終わっていたのに。妖精さんでもいたのかしらぁ?」


エドワード様は、深いため息をつきました。


かつて、彼が遊び歩いて夜遅くに戻ってくると、机の上には完璧に整理された書類と、彼がサインすべき場所に付箋が貼られた状態の決裁書が並んでいました。


彼はそれを、マリーナという「有能な自動機械」が当たり前に行う、事務的な雑用だと思い込んでいたのです。


「失礼いたします、殿下! 緊急の事態です!」


そこへ、顔面を蒼白にした老官僚が、転びそうになりながら駆け込んできました。


「なんだ、騒々しい。今はリリアンと『補助金の分類』という高度な政治的議論をしている最中だぞ」


「そんなことをしている場合ではありません! 隣国ノイシュタット帝国との関税協定、本日が更新の期限ですが、マリーナ様が作成していた『自動更新用魔導契約書』が……停止しました!」


「……は? 停止したなら、再起動すればいいだろう」


老官僚は、絶望に満ちた目でエドワード様を見つめました。


「無理です! あの契約書には、マリーナ様の魔力による『定期的なメンテナンス』が必要だったのです! 彼女がいなくなってから一ヶ月……ついに魔力が尽きました!」


「な、なんだと……!? では、今この瞬間から、我が国の商人が帝国へ入る際、十倍の関税がかかるということか!?」


「左様にございます! 既に国境付近の商人たちが暴動寸前で、騎士団の派遣を要請していますが……その派遣費用を捻出するための予算案も、この書類の山のどこかに埋もれていて……!」


エドワード様は、ガタガタと震えながら、デスクの上の書類を無茶苦茶にかき回しました。


「マリーナ! マリーナはどこだ! あいつの書いた『緊急時マニュアル』があるはずだ!」


彼は引き出しの奥から、一冊の古いノートを引っ張り出しました。


表紙には、マリーナの端正な筆跡で『無能な上司のための、国を滅ぼさないための十ヶ条』と書かれています。


「これだ! これさえあれば……! ……な、なんだ、これは」


ページをめくったエドワード様の動きが止まりました。


そこに書かれていたのは、一文字も読めない記号と、複雑な数式の羅列でした。


「……殿下、それはマリーナ様独自の『三重複合暗号』です。彼女並みの演算能力を持つ人間でなければ、解読に数百年はかかると言われている伝説の……」


「そんなもの、マニュアルに使うなぉぉぉ! あいつ、わざとやりおったな!? 俺が困るのを見越して、嫌がらせを……!」


「いえ、殿下。……以前、マリーナ様が仰っておりました。『他国に情報が漏れないよう、最低限のセキュリティを施しておきました』と。……彼女にとって、これは『最低限』だったのです」


エドワード様は、ノートを床に叩きつけました。


嫌がらせではない。マリーナにとっては、これが「普通」だった。


彼女の世界では、この程度の暗号は呼吸をするように解け、これほどの書類の山は一晩の残業で消え去るものでした。


その「普通」を維持するために、彼女がどれほどの血を吐くような努力をしていたのか。


エドワード様は、それを想像することすら放棄し、ただ「可愛げがない」という一点だけで彼女を切り捨てたのです。


「あぁぁ、もう嫌だ! 数字が、数字が襲ってくる! リリアン、助けてくれ!」


「えぇー、私、難しいことはわからなーい! エドワード様、そんなことより、お腹すいちゃいましたぁ!」


リリアンさんの暢気な声が、もはや狂気の沙汰に聞こえます。


かつては「癒やし」だったその声が、今では国を滅ぼす「死神の歌」のように、エドワード様の鼓膜を刺しました。


一方、その頃。


ノイシュタット帝国の豪華な執務室。


マリーナは、ラインハルト様が差し出した「特製イチゴパフェ」を幸せそうに頬張りながら、涼しい顔でペンを動かしていました。


「マリーナ。……君の元婚約者が、今頃泣きながら君の名前を呼んでいる頃だろうね」


「あら、ラインハルト様。あの方は今、素晴らしい教育を受けていらっしゃるはずですわ」


「教育?」


ラインハルト様が不思議そうに首を傾げます。


「ええ。……『当たり前の日常は、誰かの献身によって成り立っている』という、人生で最も重要な授業ですわ。……授業料は、国一つ分くらいかかるかもしれませんけれど」


マリーナは、にっこりと完璧な悪役令嬢(自称)の笑みを浮かべました。


彼女の背後には、完璧に整頓された書棚と、彼女を「教祖様」と仰ぐ有能な部下たちが、一分の無駄もなくテキパキと仕事をこなす姿がありました。


「……マリーナ。君を怒らせなくて、本当に良かったと心から思うよ」


ラインハルト様は、少しだけ背筋に冷たいものを感じながら、愛おしい婚約者の髪をそっと撫でるのでした。
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